emergency call
 

帝都ザーフィアスの夜は静かだ。市民街、下町と居住区が移るにつれて夜中の賑わいも違ってくるのだろうが、貴族街は特に夜の訪れが早い。
夜更かしは肌の大敵と言わんばかりに婦人は高価な寝具に身を包んで早々に床に就き、自慢不満をふんだんに盛り込んだ妻の長話から解放された紳士は一人静かに酒と肴を楽しむ。
元々静かな城の中もその例に漏れず、警備の兵士が立てる武具の金属音が時折響く以外にはほとんど物音も聞こえてこない。

一日の職務をとりあえず終え、何事もなければ明日の朝までの自由を与えられたフレンは、自室で仄白いランプの光の下、形式に沿って文字を並べれば概ね体裁は整うさほど重要ではない書類に目を通していた。
その手の書類はどうしても他の仕事に押されて後回しになってしまうので思った以上に溜まっている。ここまで溜め込んでも誰からも文句を言われないのだから今日明日にでも処理しなければならないわけではないが、なかなか切り上げるタイミングも掴めず、ほとんど惰性でフレンはそれらの文字を目で追っていた。

散漫になった意識がふと異質な音を捕らえる。
幸いとばかりに書類から目を離して耳を澄ましたフレンは、遠く城の外から響く獣の咆哮を聞いた。これは犬の声だ。

「ラピード?」

本能による遠吠えではなく、明らかな意思を持って響くその声をフレンはよく知っている。
この声が自分を呼んでいるのだということも。

「帝都に戻っていたのか」

彼がここにいるということは、彼の飼い主であるユーリも帝都にいるはずだ。
いつ戻ると連絡を取り合っているわけではないし、互いに帝都にいてもそれぞれの理由で会うこともないままどちらかが旅立ってしまうこともある。元気でいるなら会えなくても構わない、でも会えれば嬉しい。
だが今フレンを呼ぶラピードの声はとても再会を喜び合おうと誘っている声には聞こえない。普段冷静な彼らしくもなく、声は焦りや困惑が複雑に絡み合っている。

「……ユーリに何かあったかな……」

ラピードがフレンに助けを求めるならユーリが絡んでいると見て間違いない。下町で暮らしていた頃からユーリの無理無茶無謀はフレンとラピードの共通の悩みの種だった。

素早く身なりを整え、念のために短剣を携える。ランプの火を消し、扉に向かいかけたフレンはふと思い直してその足を止め、踵を返して扉とは反対側の壁に口を開く窓に手を掛けた。
部屋を出れば通路の随所に警備の兵士が配置されている。顔を合わせるごとに怪訝な顔をされるのも行き先を尋ねられるのも面倒だ。当たり前のように窓から出入りするユーリをいつも咎めているけれど、それを棚に上げてフレンは身軽に窓の枠を飛び越えた。騎士団でも評議会でも真面目で通っているフレンだが、フレンとて下町育ち。ユーリほどではないにしろ行儀の悪さも当然持ち合わせていた。

窓から長閑にユーリが忍び込んでくるたびによく見付からないものだと感心していたけれど、自分自身が体験してみるとその容易さがよく分かる。騎士団長という立場上この事態を放置しておくわけにはいかないが、とりあえず今はそれどころではない。夜空に響くラピードの声が悲痛さを増している。

さすがに城門を越える際には細心の注意を払ったものの、さほどの時間を掛けることもなく城の外に抜け出したフレンはラピードの声を追って暗い道を駆け出した。やがて道の先にうっすらと長い尾の大柄な犬の影が見えてくる。フレンの足音には早くから気付いていたらしく、フレンの姿が見えると同時にラピードは市民街へと続く長い階段を駆け下り始めた。
市民街を駆け抜けたラピードは下町へ伸びる坂道に差し掛かる。本当はもっと早く駆けたいのだろうが、人の速度に合わせて走るラピードは少し焦れているように見えた。

律儀に先導してくれなくても行き先は分かる。フレンも馴染みのある宿屋の二階の一室だろう。
案の定、下町の広場を突っ切り、水路と並行して走る細い道を駆けたラピードは、まだ閉じられた扉の奥から賑やかな談笑が漏れ聞こえる酒場の前で立ち止まってフレンを振り返った。
酒場の真上がユーリの帝都での住処だ。見上げると、帝都に戻っている時には大抵大きく開け放たれている窓がぴたりと閉じられている。灯りもない。

「ありがとう」

すれ違いざまにラピードの頭を軽く撫で、フレンは建物の横に設えられた階段を駆け上がる。
ただ事ではない気配に心臓が嫌な鼓動を打っていた。
窓同様、固く閉ざされた扉に手を掛ける。もしかしたら鍵が掛けられているかもしれないという懸念が頭を過ぎったが、薄い木の扉はあっさりと開いた。見渡すほどもない狭い部屋に一歩踏み込む。

「ユーリ、……っ」

居るのか、と問いかけたフレンは思わず言葉を詰まらせた。
薄暗い部屋には確かに人の気配がある。ユーリは寝台の上にいるようだった。
フレンが息を詰めたのは窓を締め切った部屋に篭もる異様な気配のためだ。そして鼻をつくにおい。独特の臭気は刈り取ったばかりの草の青臭さにも似ている。
吐き出した精のにおいと苦しげな荒い呼吸。薄闇の中ではっきりと姿は見えなくてもユーリの状態は明らかだった。

「……フレン……なんで……」

絞り出すような声は酷く掠れている。寝台の上で胎児のように身体を丸めたユーリは長い髪を乱し、衣服も中途半端にはだけて素肌が露わになっているけれど、そこには扇情的なものは少しも含まれていない。強く握り締めすぎて血が通わず白く色を変えて闇に浮かぶ手は痛々しく、常には固い意志を宿して力強く輝く瞳は虚ろに焦点が揺らいで哀れにすら見えた。

「ユーリ……どうしてこんな……」
「……っ……!」

二の腕に軽く触れただけでユーリは打たれたように全身を震わせ、フレンは驚きに思わず手を引く。

「……はっ……無様だろ……?こんな有様なんでね……あんま触んねぇでもらえっかな……」

動けるものなら動きたい、隠せるものなら隠したいに違いない。しかし思うように自身の身体を操れず醜態を晒すしかないユーリは、それでも強気に唇を撓らせ自嘲気味に笑って見せた。
どんな事情があったのかは分からないが、催淫性の薬物、いわゆる媚薬を投与されたのだろう。ラピードの常にない様子に何かあったのだろうとは思ったものの少々予想外の事態に一瞬動揺してしまったが、すぐに平静を取り戻したフレンは蹲るユーリの傍らに腰を下ろした。

「君らしくないな、どうしてこんなことに?」

きっとどこもかしこも神経が剥き出しになったように過敏になっているに違いない肌に、思わせぶりな触れ方にならないよう半ば手の平を叩きつけるくらいの勢いで触れる。ユーリの方でも心構えができているからか先程のような震えはない。

「……多勢に無勢ってヤツだよ……うちのギルドは味方が多い代わりに敵も多いんでね……」

限界にまで張り詰めた筋肉の硬直が手の平に伝わる。暑くもないのにユーリの額にはびっしりと汗の粒が浮かんでいた。
こういう物言いをする時のユーリはどれだけ問い詰めても口を割らないだろうけれど、フレンが懸念した通りおそらくユーリはまた何がしかの犠牲を引き受ける選択をしたのだろう。何かを、あるいは誰かを守るためにユーリは甘んじてこの状況を受け入れた。そうでなければユーリともあろう者がこんなことになるとは思えない。もっとも、それはフレンのそうであって欲しいという願望でもあったけれど。

「何もされてない?」

今度は確かな意思を滲ませて汗で頬に貼り付く長い髪を指先で掬う。覚悟を決めたユーリも身体の強張りを少しずつ解きながら細く震える吐息を零した。

「……させるかよ……全員ぶっ倒して逃げてきた……」

フレンの手を借りてゆっくりと上体を起こしたユーリは、そのまま姿勢を保つことが出来ずにフレンの胸元に寄り掛かる。寝台に乗り上げ、背後から抱えるようにユーリを両腕の中に収めたフレンは黒髪の合間に覗く白い項に唇を押し当てた。腕の中でユーリの身体がふるりと揺れる。

「多勢に無勢じゃなかったのか?」
「そりゃ……火事場のナントカってヤツだ……ラピードもいたしな……」
「……そうか」

それでも腸が煮えくり返りそうだったが、それよりも今はユーリをどうにかする方が先だ。苦しげな浅く早い呼吸が耳を打つ。
この状況で焦らすつもりなどなく、早々に核心に手を絡めると指の先まで硬直させてユーリは低く呻く。フレンが来るまでにも何度か達しているようで、シーツにもその名残が散っているがそれでもまだ薬は抜けず、強制的に興奮を強いられている身体は汗が噴き出しているのに冷たい。よほど効果の高い薬なのか、逆に粗悪品ゆえの悪酔いなのか、妙な弊害がなければ良いがと新たに頭を擡げた不安にフレンは唇を噛む。

強く噛み締めた歯が軋みを上げるほどユーリは固く口を閉ざして決して声を零そうとしない。何でもない時ならユーリは快楽には素直だ。その気になれば持ち前の色と艶を惜しげもなく晒してフレンを誘い、艶やかな声でフレンを魅了する。
ユーリが頑ななのはユーリが今のこの状況を望んでいないからだ。なぜこんなことになったのかはユーリしか知らないことだが、こうなると分かっていて選択したことであっても決して溺れたくはない、その点においては抗いたいのだろう。
食い縛り、青白く硬直する唇が痛々しい。顎に手を掛け、俯きがちな顔を上向かせて唇を合わせようとフレンは肩越しに顔を寄せる。しかしユーリはそれを顔を背けて拒んだ。

「……それ……なし。……結構飲まされたからな……お前までどうにかなっちまうかもしんねぇし……」

ユーリの言葉にフレンはふと苛立ちに似た感情を覚える。
フレンを気遣っているつもりなのかもしれないけれど、事ここに及んでそんな気遣いを見せるくらいならフレンが部屋に入ってきた時点で帰れと追い返せばよかったのだ。
吐精を繰り返し、精も根も尽きかけたユーリの身体を扱うのは容易い。後ろから抱えていたユーリの身体を寝台に仰向けに押し倒し、フレンは有無を言わさず口付けた。

「ん……っ」

初めは往生際悪く固く閉ざされていたユーリの唇も、やがて根負けして緩み、フレンの舌を受け入れる。幾分落ち着いた下肢に手を伸ばし、腿の内側の柔らかい場所に触れると鼻腔から甘さを伴った息が抜けた。

「どうにかなっても構わないよ。別に僕は処理がしたいわけじゃないからね」

もう逃げようとはしない唇に唇と舌で触れながらフレンは素早く衣服を緩める。冷えた身体に熱を移すようにぴたりと素肌を合わせた。
間近からフレンを見詰めるユーリの瞳が闇の中で揺れている。 汗で湿った黒髪を耳の上に撫で付け、真正面からその目を見返して心配は要らないとフレンは笑って見せた。

「自慢じゃないけど僕も敵は多いからね。しかもやり方が汚い奴が多い。薬物への耐性は君よりもあるんじゃないかな」

長らく空位だった皇帝の椅子が埋まり、世界が大きく変動する中で騎士団と評議会もその在り方を新しく変えていこうとしている。けれど、一歩踏み込めば権力と金が物を言う汚い世界が残っているのは相変わらずだ。しかも取り締まりが厳しくなるほど暗躍する者達の手口も巧妙化していく。一介の小隊長に過ぎなかった頃から暗殺者を差し向けられていたフレンだ。騎士団長になった今ではどれだけ警戒してもしすぎるということはない。嫌な話だがそれが事実だった。

「……ほんっとに自慢できる話じゃねぇな……」

フレンの下でユーリが心底呆れたと言わんばかりに溜息を零す。重なる肌にゆっくりとユーリの身体から力が抜けていくのが伝わり、シーツの上に力なく投げ出されていた両腕がフレンの背に絡んだ。

「……どうなっても知らねぇからな……オレはやめろっつったぞ……」
「ここまできて、君も往生際が悪いね」

汗の滲む肌をするりと撫で上げるとユーリは僅かに顎を反らし、仄かな吐息を零す。それは今までの抗おうとする押し殺した吐息とは明らかにその音色が違っていた。
いつも大きく開いた黒い服の胸元から覗いている肌に唇を押し当てる。例え痕を付けてもユーリは「これくらい甲斐性だ」と特に怒りもしないし隠しもしないが、最近ではユーリの所属するギルドの小さな首領に配慮してあまり目立った痕跡は残さないようにしている。 彼も大人の社会を渡り歩き、歳のわりには随分と知識が豊富なようだが知らなくてもいいことまで教える必要はない。
うっかり痕を残さないように舌の先をなめらかな肌に滑らせる。細かく全身を震わせたユーリはほとんど吐息に紛れた細い声を上げ、背に回していた手をフレンの髪の内側に差し込んだ。そのまま手の中に緩く髪を握り込む。

「……フレ……ン……っ」

普段の皮肉な物言いをする口調からは想像もつかない切なげな声がフレンを呼ぶ。きつく噛み締め血の気が失われていた唇も徐々に赤味を取り戻し、深く溝が刻まれていた眉間も苦痛の気配は薄れつつある。
こんな苦痛を味わうと分かっていて、なぜユーリはそれを甘んじて受けたのだろう。何を守るためにユーリはこんな選択をしたのか。それはフレンの勝手な想像でしかないけれど、もし本当にユーリが何かを守るためにこの選択をしたのなら、そうまでして守られたその「何か」にフレンは僅かばかりの嫉妬を覚えた。

薄く開いた瞼の奥から黒い瞳が覗く。少しは落ち着いたかと思っていたがまだ薬の効果が濃く残っているのか、あるいは頑なに抗おうとする意識が途切れて気が緩んだのか、表面にうっすらと潤みを帯びた瞳は珍しく助けを求めて縋るようにゆらゆらと揺れていた。
宥めるように口付け、フレンは雑念を追い払う。ここまでの事情はどうあれ、今ユーリが身を委ねているのはフレンなのだ。他の誰でもなく。

「……大丈夫、すぐに苦しくなくなるから」

フレンに全てを委ねたユーリの耳にはもうフレンの声は届いていないようだった。長い苦痛からの解放を願う身体がフレンを求めて緩やかに開いていく。冷たく強張っていた肌は瞬く間に燃えるような熱を宿した。
その熱さに安堵を覚えたフレンもまた、ユーリに全てを委ねて心と身体をゆっくりと解放していった。



* * * * *



「ワウッ!」

鋭く警告するようなラピードの声に急激に覚醒して目を開いたフレンは、目を刺す朝の光に短く呻いて再び目を閉じた。瞬きを繰り返しながら今度はゆっくりと慎重に瞼を押し上げたフレンは、窓の外で音を立てる聞き慣れた武具の金属音を聞く。
慌てて身を起こしたフレンは、隣に横たわる眠っているというよりは気を失っていると言った方が正しいユーリの身体を乗り越えて寝台を下り、床にだらしなく広がって落ちる衣服を拾い上げて素早く身に付けた。

やはり多少なりとも残っていた薬の影響を受けたらしい。昨夜のことは途中から記憶が曖昧だ。頭の芯には二日酔いにも似た重苦しく鈍い痛みが残っている。もしかしたらと心配していた通り、あまり良質の薬ではなかったようだ。
こめかみを押さえ、軽く頭を振ってからフレンは締め切られていた窓を開いて路地を見下ろす。

「やはりこちらでしたか、フレン殿」
「……ルブラン小隊長……」

窓が開く音に路上から二階を見上げたのは、顔を合わせれば「帝都を脅かす無法者」とユーリを追い回しながらもその実ユーリを認め、心配までしている騎士団員のルブランだった。ルブランの隣ではラピードが道を塞ぐように上体を伏せて低く唸っている。

「城で団長殿のお姿が見えないという話を聞きまして、夕べ見回りの際にこの犬の声を聞いたのでもしやと思って様子を見に来てみたのですが……この通りこやつめが道を通してくれませんで……」

困り果てた様子のルブランの足を、身体をくるりと回転させたラピードがその長い尾の先で叩いた。決して本気の一撃ではないのでひっくり返りはしないものの、まるで鞭で打ったような鋭い音が響く。

「ラピード」

確かにいきなり部屋に踏み込まれていたら大変なことになっていた。主人思いの頼れる存在に内心で感謝しつつ、まだ低く唸って警戒するラピードを窘める。フレンを見上げ、唸り声とは正反対の気の抜ける声で鳴いたラピードはその場に行儀よく「お座り」の姿勢を取った。

「……その……フレン殿……」
「何か?」

妙に神妙な声で呼ばれ、フレンは首を傾げてルブランを見る。気遣わしげに視線を彷徨わせ言葉を探す風のルブランの様子に、もしかしたら何か昨夜のことを伺わせるようなものが見えているのかとフレンはさりげなく自身の身なりを見下ろした。鏡を見ていないので何とも言えないが、普段の騎士装束に比べれば随分砕けた格好をしているだけで特段おかしな所はない。あってもせいぜい寝癖程度。

「ユーリ・ローウェルに何かあったので……?」

だがルブランの口から発せられたのはユーリを案ずる言葉だった。安堵すると同時に乱れていた胸の内がすぅと凪いでいく。

「またいつもの無茶だ。もう落ち着いているから心配はいらない。私もすぐに戻るから、先に戻ってどうにか場を収めておいてもらえないか」
「了解致しました」

ルブランもまたいかにも頑固そうな強面の奥に薄く安堵の色を滲ませ、フレンの言葉に略式の敬礼を返すと安心したと言わんばかりに一直線に城に向かって駆け出した。その後ろ姿を見送り、フレンは部屋の中に引き返す。

「……なるほど、確かに敵は多いかもね……」

結界魔導器を失い、魔物から身を守る手段が人の力のみになった今、腕に覚えのある者は帝国もギルドも関係なく力を合わせる必要がある。だが過去の遺恨からそれを快く思わない者は多く、騎士団長のフレンも名前も知らなければ会ったこともない者に顔を合わせるなり罵詈雑言を浴びせられることもあった。
ユーリのギルド、凛々の明星が帝国騎士団のみならず皇族とも縁が深いのは知られた話だ。正しく話がひろまっていれば問題はないが、噂だけが独り歩きしている感もある。心ない者にユーリが帝国のスパイ呼ばわりされていることも知っている。「そんなわけねぇだろ」と当のユーリが鼻で笑い、事実そんなわけはないので言いたい者には言わせておけばいいとフレンが口を出すこともないが、それが今回の事のような事態の引き金になっている事実は否めなかった。

漠然とフレンは今回の事態の裏には自分が絡んでいるのではないかと思い始めていた。昨夜ユーリが意識を飛ばす前の、ユーリらしくもない今にも泣きそうな頼りない目を思い出す。ユーリが苦痛を受け入れてまで守ろうとした「何か」には自分も含まれていたのではなかったか。
全て想像だ。苦痛を味わったユーリには申し訳ないけれど、そうだったらいいのにというフレンの願望。

寝台に横たわり、目を閉じたままぴくりとも動かないユーリは少し顔色が悪い。自分を探しているという城の方も気になるが、こんな状態でまだ裸のままのユーリをこのままにしておくわけにはいかない。事の真相はユーリがきっと墓まで持って行くだろう。これ以上は何を考えても無意味だ。
余計な思考を打ち切り、フレンは手早く最低限の後始末を始めた。ユーリがいつ戻ってもいいようにと女将が用意しておいてくれる新しいシーツは清潔な太陽の匂いがする。
フレンが後始末をする僅かな間に青白かったユーリの顔は僅かに赤味を取り戻していた。胸元も深い寝息に規則正しくゆっくりと上下している。
伸ばした指の先に柔らかな黒髪を絡め、フレンは小さく溜息を零した。

ラピードが知らせに来てくれなければ、きっとフレンは今回のことを永遠に知ることはなかった。けれどなぜ真っ先に自分を頼ってくれなかったのだとユーリを責めることはできない。立場が逆ならきっとフレンもユーリだけは頼れなかった。問題にユーリが絡んでいるなら尚のこと。
ユーリによってもたらされる喜怒哀楽は他のどんな喜怒哀楽にも勝る。 ユーリが関わっていると分かれば、それがどんな些細なことでも深く身体の奥にまで食い込んでくる。自分自身を制御できなくなる危うさを感じるほどに。

「君の無理無茶無謀はもう半分諦めてるけど……でも、もうこの手の無茶は勘弁してくれよ。本気で自制が効かなくなる」

本当か嘘か知らないが、今回はラピードの助けもあって何事もなく逃げて来たらしい。だがもしまた同じことがあったとして、その時も何事もなく逃げ切れるとは限らない。自分以外の誰かがユーリに触れる、直接触れなくても乱れるユーリの姿を目に映すなど考えるだけで暗い感情が背筋を這い上がった。これが現実になろうものなら自分が何をしでかすか分かったものではない。

フレンの呟きに、知ったことかと言わんばかりに指先に絡むユーリの黒髪がくるりと翻ってシーツに落ちた。覚醒が近いのか睫毛が微かに揺れる。喉が渇いているのだろう、ぎゅっと眉根が寄せられ、乾いた唇が薄く開いた。
フレンは傍らの机から水差しを取って口に水を含み、湿らせた唇をユーリの唇に押し当てる。唇の表面が触れ合った瞬間、意識を取り戻さないままにユーリは必死とも思える強さでフレンの唇に吸い付いた。よほど水に飢えていたらしく時折鼻腔から心地良さそうな吐息を零しながら少しずつ流し込まれる水に喉を鳴らす。
水を移し終え、上体を起こしたフレンはユーリの唇に残る雫を拭おうと指先を伸ばした。まだ水分を求めているのか、ユーリは触れたフレンの指先を口に含んで緩く吸い上げる。

「……それは反則だよ、ユーリ……」

母犬の乳に吸い付く子犬にも似たその無垢な仕種に不覚にも頬が熱くなるのを感じつつ、フレンはこれ以上思考がおかしな方向に流れないようにそっと指を引き抜いた。名残惜しそうにすっかり血の気と潤いを取り戻したユーリの唇がうごめく。

「まったく君は……時々とんでもなく無防備だね。誰彼構わずってことはない……と信じたいけど……」

だいたい男相手に媚薬を使おうなど、その多勢に無勢の「敵」とやらも一体何を考えているのやら。醜態を晒したユーリを囲んで笑い者にでもしようとしたのかもしれないけれど、どうしてもそれ以外の邪まな意図を感じずにはいられない。
しっかりしていて隙がないかと思えば大事なところがボコっと大きく抜けている。そんなところがユーリには多々ある。フレンは心配性すぎるとユーリは言うけれど、一事が万事こんなふうでは心配するなという方が無理な話だ。

フレンにとってユーリは言葉では言い尽くせないほどに強い影響力のある大切な存在だ。そして自惚れでなければ自分もまた同じくらいユーリに大切に思われている。一人だと思えば無理なことも、ユーリと一緒なら、たとえ側にいなくてもその存在を強く感じるだけでも不思議とどんなことでもできると思える。
日々の任務に忙殺され、束の間その存在を忘れていることはある。けれど、ふと我に返った時に思うのだ。どうして今自分の隣にはユーリがいないのだろうと。風の噂にユーリの名を聞くたびに、何もかもを後回しにして側まで駆けて行きたいと思う。
ユーリが関わっていると分かればどんな些細なこともフレンは放っておけなくなる。身を置くべき場所はちゃんと分かっていても、勝手に心だけが飛び立とうと落着きを失くしてしまう。

「もし僕が何かとんでもない失態を犯してしまったら、きっとそこには少なからず君が絡んでいるんだろうね。……僕にとって君は、最高の味方で最大の敵なのかな……」

頼ってほしいと思うけれど簡単には頼れない。側にいてほしいと思うけれど自由でいてほしい。ユーリの世界が広がり、会うたびにフレンの知らない表情を覚えてくるのを嬉しく思う反面、それを寂しく思う自分もいる。
けれど、いつも一緒にいて、何もかもを分け合っていた頃に戻りたいとは思わない。今自分がいるべき場所、成すべきことはちゃんと分かっている。それら全てを投げ打ってユーリの元に駆けたところで叩き返されるのが関の山だろうということも。

会えれば嬉しい。でも元気でいるのなら会えなくても構わない。
信じているからだ。たとえ側にいられなくても、その黒い瞳に何者にも侵されない眩しい光を宿し、揺るがない意思を持って強く歩んでいるユーリの姿がフレンには見えているから。
だからたとえ会えなくても構わない。

そうは思ってもやはり離れ難いものは離れ難い。まだ側にいたい気持ちは多分にあるけれど、これ以上ここに留まって目を覚ましたユーリと顔を合わせれば別れ難くなってしまうし、城も気になる。これ以上時間が掛かると先に戻らせたルブランが気の毒だ。

「本当にもう勘弁してくれ。二度目はないからね、ユーリ」

最後にもう一度念押ししてから今にも目覚めそうなユーリの唇に軽く口付け、未練を断ち切ってフレンはユーリに背を向け部屋を出る。部屋の外ではラピードが誰が来ても今は通さないと言わんばかりに階段の上り口に長々と寝そべっていた。扉が開く音にフレンを振り返る。

「ラピード、ユーリを頼むよ」

のそりと起き上がり、後足で立ち上がってフレンの胸元に手を掛けるラピードの頭を撫で、もう何度目になるのか分からない言葉をフレンは再び口にした。何度頼まれても、その都度ラピードも力強く「任せろ」と答えてくれる。きっとこの先いつまで経ってもユーリの無理無茶無謀はフレンとラピードの共通の悩みの種なのだろう。
まったく頭の痛い話だ。けれど慣れとでも言うのかそれを心底嫌だと思わない自分がいるのも確かだった。

「ユーリから無理無茶無謀を取ったら身体が半分以上なくなってしまいそうだからね」

結局、勘弁してくれと言いつつ何くれとユーリの世話を焼くのがフレンにとっては喜びのひとつだということだ。ユーリの心配をしなくても済むようになればきっと毎日が物足りない。 その心配の規模にもよるのは言うまでもないことだけれど。

「そうは言っても、人のフリ見て我がフリなおせ……ってことなのかな」
 
フレンとユーリは別れ際にいつもどちらかが「無理はするな」と言っている気がする。ぽつりと零したフレンの独り言に賛同するように足元でラピードが低く唸った。苦笑し、もう一度その頭を撫でてからフレンは階段を降りて路地に出る。
最後にと見上げた頭上の開け放たれた窓の奥から寝起きの不鮮明なユーリの声が漏れ聞こえた。フレンかラピードを呼んだのだろう。

ユーリが窓辺に立つ前にフレンは城に向かって駆け出した。顔を合わせ、言葉を交わせば別れが惜しくなる。
あと一言交わそうが交わすまいが、フレンとユーリが幼い頃のようにずっと一緒にいられるわけではない。そして互いにそれを望んでいるわけでもない。フレンはフレンの、ユーリはユーリの世界で生きていかなければならない。そう決めたからだ。
だがそうして離れていても心は常に側にある。だからこそ違う世界でも生きていける。

「じゃあね、ユーリ。もう行くよ。もしまた何か困ったことがあったら今度は素直に僕を頼ってくれ。厄介事を隠される方が厄介だ」

昨夜ラピードに先導され逸る気持ちを抑えて駆け降りた坂道を駆け上がる。
その背に、フレンは確かにユーリの気配と視線を感じていた。


END