半分こ
またやってしまった。きっとお互いにそう思っている。
つまらないことがきっかけで喧嘩をするのは、ユーリが自分のギルドを作って世界中を旅するようになっても、フレンが騎士団長になっても、お互いどれだけ成長しても変わらない。二人とも頑固で意見を譲らないからだと一回りほど年下の少年に諭されるくらいだから、そのきっかけは傍目には本当に相当つまらないものなのだろう。当人同士にとってはいつでも本気の真剣勝負なのだけれど。
幸いにも今回は軽い口喧嘩で済んでいる。何がきっかけだったのかはよく覚えていない。きっとそれだけ下らないものだったのだ。
当然のことだが、喧嘩の理由が深刻なものであればあるほど仲直りのきっかけを掴むのは難しくなる。あっさり謝るのは癪だけれど、理由が下らないものであればあるほど謝った者勝ちとも言える。お互いに冷たく余所余所しい関係など望んでいないのだ。
「……さて、どうすっかな……」
久しぶりに戻った帝都ザーフィアスの下町、宿屋の二階に間借りしている部屋の窓から堂々と美しくそびえるザーフィアス城の尖塔を眺め、ユーリは和解のきっかけを探していた。
夜には酒場になる階下の食堂から香ばしい匂いが漂ってくる。真剣に悩んでいない証なのか俄かに空腹を感じて鼻を蠢かすと同時に腹の虫を鳴らし、ユーリは苦笑と共に乗り上げていた窓の枠から降りた。
「テッドの案採用……だな」
出掛ける素振りを見せると同時に立ち上がった相棒のラピードを伴い、ユーリは部屋を出て階下へと向かう。その足取りは軽かった。
* * * * *
相変わらずザーフィアス城は皇帝の居城とは思えないほど警備が緩い。ラピードに見張りを頼んではいるものの、易々と入り込めた城の敷地内でユーリは深々と溜息を零した。いくら人の影を見落としやすい黄昏時とは言ってもこの簡単さはどうかと思う。
世界が魔導器を失い、多分にもれず結界魔導器もその役割を果たさなくなった後、帝都を囲む壁には見張りの櫓が築かれた。だが外界に向けて強化される警戒に比べ、内に対する警戒は意外に薄い。先の災厄に絡むいざこざで地の底にまで落ちた帝国に対する信頼を回復するため、市民の安全を最優先に復興が進められているためかもしれなかった。
すっかり通い慣れた足取りで目的の部屋の窓を目指しながら、その内側にまだ住人がいればいいけれどとユーリは思う。部屋の住人は言わずもがなのフレンだ。
団長とは言え帝国騎士団の一員であることに変わりはなく、ただ踏ん反り返って指示を出すだけというのも性に合わないフレンは、本来なら指示を受けて東奔西走しなければならない下っ端の団員が額を地に擦り付けて「頼むから休んでくれ」と嘆願するほど、団長自ら赴くほどでもない小さな任務にまで実に精力的にあっちへこっちへと出向する。だから昨日は帝都に居たからと言って今日もまだ同じ場所に居るとは限らないのだ。
けれど部屋に辿り着くまでもなくそれは杞憂に過ぎないと知る。大きく開かれた窓辺で夕日を受けて赤く染まるカーテンが揺れていた。
フレンを相手に今更気配を消しても無駄。聞き耳を立てて来客中でないことだけを確認してからユーリはひょいと窓辺に顔を覗かせた。
「珍しいな、サボりか?」
机に向かってはいるものの、フレンにしてはだらしなく椅子の背凭れに寄り掛かり、書類もペンも手にしていない後ろ姿に声を掛ける。ややぶっきらぼうな言い方になるのは一応喧嘩中なので仕方ない。
「考えることもしなければならない事も多くて疲れてるんでね、君と違って」
君と違って、を強調して答えるフレンの声も刺々しい。しかも振り返りもしないから可愛げのないことこの上ない。
「はいはい、おっしゃる通り。そうだろうと思ってお疲れの団長様に持って来てやったぜ、差し入れ」
言って、がさりと手にした紙袋を鳴らす。持ち歩く間に幾分冷めてはいるものの、手の中はまだほんのりと温かい。
そこでやっとフレンが振り向いた。わざとらしく不貞腐れたような顔は意外に幼く見える。鎧を脱ぎ、剣も外してゆったりとした布地の部屋着に身を包む姿がその印象を強くしていた。
「女将さんの顎が疲れる塩パンとリリンのミルクパン、どっちがいい?」
女将さんは言うまでもなくフレンも馴染みの下町の宿屋を切り盛りする女主人、リリンはユーリが旅の途中で知り合ったパン職人の女性だ。出会ったのはノール港だが行商がてらユーリに付いて帝都に来て以来、その賑わいを気に入って住み着いた。
彼女の作るパンは最近では帝都でちょっとしたブームになっている。とりわけミルクパンはその柔らかさとこってりとした甘さが絶妙ですぐに売り切れてしまう人気商品だ。実はその商品開発には甘いものに目がないユーリも少々関わっている。
対する女将の塩パンは少々噛み応えがありすぎる感もあるものの、噛めば噛むほど味わいの増すその素朴な味わいは他にはない逸品だ。焼きたてならさらに美味い。昔から変わらないその味はユーリとフレンを育てた味でもあった。
ユーリがかさかさと音を立てて振る紙袋を見詰めてフレンはしばし口を噤む。
「両方」
やがて返された簡潔な答えにユーリはわざとらしく溜息を吐いて見せた。
「一個ずつしかねぇよ」
「どうして一個ずつしか持って来ないんだい?どどーんと十個ずつくらい持って来いよ、ケチくさいな」
「そんなに持って来たって食えねぇだろ。だいたい団長様ともなればお歴々と雁首揃えてご大層でご立派な宮廷料理食ってんじゃねぇのかよ」
「まさか、他の騎士達と一緒に騎士団の食堂でカレーだよ」
「まぁたカレーかよ、飽きないな」
ポンポンと互いにほとんど息継ぎもなく言い合いながら、ユーリは自然に口の端が上がっていくのを止められない。フレンもまた不貞腐れた顔を作るのも限界なのか穏やかに目元が緩み始めている。
打てば響くというのとは少し雰囲気が違う。それでも、例え軽口の叩き合いであってもこうして言葉を交わせばつまらない喧嘩で生まれた綻びなど瞬く間になかったことになっていった。
「ほらよ」
紙袋から取り出したパンを二つに割り、片方をフレンに向けて投げて寄越す。左右の手に分かれたパンの量はほぼ均等。差をつけるとまた余計な言い合いになるのは目に見えている。ひとつのものをほぼ等しく二つに割るのはユーリもフレンもお手の物だった。
「へぇ、これが噂のリリンのミルクパンか……」
毒を盛るつもりなど毛頭ないけれど、ユーリから渡されたパンを何の疑いもなく口に運んでフレンは感嘆の声を上げる。リリンのパンは城の中でもその名が知れ渡っているらしい。
「美味いだろ?」
「歯が溶けそうに甘いのに妙に癖になるこの味、ユーリの発案だろ」
「……分かるか?つか、そんなに甘いか?」
「美味いよ。パンにパンが合うっていうのも変な言い方だけど、おばさんのパンとよく合うね」
フレンの手料理は愛情を込めれば込めるほど破壊的な味に仕上がってしまうが、それは味の許容範囲が半端なく広いだけで味覚が狂っているというわけではない。誰が食べても美味いものは美味いと言うし、誰が食べても不味いものは不味いと顔を顰める。
下町で暮らしていた頃、調理をしていたのは主にユーリなので、良い方向にフレンの味覚の範囲を広げたのはユーリと言っても過言ではない。ユーリ好みの味はフレンの好きな味でもあった。
ユーリも開発に携わった庶民に人気のパンを頬張るフレンは、栄えある帝国騎士団の団長という堅苦しい肩書きを持つ青年とは思えない幸せそうな顔で、思わずユーリの頬も緩む。食べることは生きることとはよく言ったものだ。食べることを止めたらいずれ命も尽きる。美味いものを美味いと思えないことほど寂しいことはない。下町の狭い部屋で一人きりならきっとこのパンも美味くはなかった。
やっぱりここに来てよかったとユーリは歯応え抜群の女将の塩パンを齧りながら思う。
その後はお互いにパンを頬張りながら他愛のない言葉を交わした。あっちの街でユーリみたいな黒猫を見たとか、そっちの街の路地裏には目立たないけれど絶品のケーキを売っている店があるとか、他愛はないけれど、共に暮らし、同じものを見て、同じものを食べていた幼い頃にはあまり交わしたことのない内容の会話。
気が付けば夕日に赤く染まっていた空はすっかり夜の色に変わっていた。緩やかな夜風に乗って微かにカレーの香辛料の匂いが漂っていたけれど、フレンを食事に呼びに来る声はない。きっと仕事に集中しているに違いないと遠慮しているのだろう。
「悪ぃ、すっかり長居しちまった。そろそろ行くわ」
「いや、ユーリならいつでも歓迎……と言いたいところだけど、たまにはこそこそ窓から入ってこないで正面から堂々と来たらどうだい?」
さも当然のように窓枠に手を掛けたユーリにフレンは呆れたように眉を寄せる。
「顔見ただけで御用だーとか言いながら突進してくるヤツがいるってのにそんな気になるかよ。大人しく正面からってのもガラじゃねぇし」
「……まったく……」
ひょいと身軽に枠を乗り越え、窓の外に僅かに張り出した足場に移ったユーリにフレンはますます眉を寄せて見せた。
「小言が飛び出す前に退散するわ。じゃあな、フレン。あんまり無理すんなよ」
「ユーリ」
長い黒髪を揺らし、次の足場に移りかけたユーリをフレンが呼び止める。
「なんだぁ?やっぱ小言か?」
「違う」
渋々振り返ると、椅子に座ったままのフレンは眉間に刻まれた溝も消え、穏やかな笑みを浮かべてユーリを見送っていた。
「ありがとう」
妙に改まったその言葉がどこに掛かるのか。差し入れに対するものなのか、謝罪の言葉こそ口にしてはいないけれど先に折れたユーリに対するものなのか。きっとそれら諸々を含めたものであろうフレンの「ありがとう」に、ユーリは照れくささにも似たくすぐったさを覚える。
「リリンに提案して今開発中のパンがもう一種類あるんだ。完成したらまた差し入れてやるよ」
笑みを返し、もう一度「じゃあな」と告げたユーリは返事も待たずに今度こそ次の足場へと飛び移る。侵入は素早さが勝負、いつまでも城の外壁に張り付いていたらいくら間の抜けた警備でも侵入者に気付くだろう。というのは言い訳で、やはり少し気恥ずかしさがあった。
幼い頃、ユーリとフレンはなんでも分け合っていた。それは仲が良かったからという類の可愛らしい理由ではなく、そうしなければ生きていけなかったから。
何度も何度も呆れるくらいに喧嘩をした。口を利きたくなくても腹は減るからたったひとつきりしかないパンを二人で分け合って、他にはどこにも行く当てがなかったから同じ部屋で背を向け合って言葉もなくもそもそとそれを食べた。
これからもきっと喧嘩は絶えない。互いに生きる場所が変わった今、これから起こり得る喧嘩にはパンひとつではどうにもならない根の深いものもあるだろう。
それでも、とユーリは思う。
互いにどれだけ成長しても、ひとつのものを分け合っていこう。ずっとそうやって生きてきたから、そうしないと分からないこともある。どんなに複雑に思えることでも、そうすれば案外簡単に分かり合えるかもしれない。
これでフレンと仲直りしなよ、そう言ってユーリにパンを手渡した少年に感謝だ。
彼はいつ買いに行ってもミルクパンは売り切れてしまっているのだと嘆いていた。フレンへの差し入れは二人でひとつだが、彼には両手に抱えるほど買って行ってあげよう。
でもきっと彼はこう言うに違いない。
こんなにたくさん食べられないよ。フレンと半分こして食べなよ、と。
END
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