Only I know
 

コツコツとささやかな音が響く。心地良いまどろみの中で、ユーリはもう朝が来たのかと僅かな名残惜しさを感じていた。
常に客があるわけでもない下町の宿屋だが、女将は毎日誰よりも早く起きて朝食の支度をする。きっとこの音は食材を刻む包丁がまな板を叩く音だろう。間もなく食欲をそそる良い匂いが漂ってくるに違いない。

「ユーリはまだ寝ていてもいいからね」

音が振動となって直接身体に響くほど近い場所から耳の奥をくすぐるような甘い声が降り注ぐ。幼馴染のフレンの声。

「……んー……」

ユーリのまだ半分以上眠りに浸かったままの生返事に応えたフレンの微笑は、仄かな風となって頬に掛かる髪を揺らした。
急に隣が物足りなくなって、まどろみが心地良かったのは隣のフレンの体温のためだったのかと思い至ったところで、ユーリは新たに頭を擡げた疑問に内心で首を傾げる。下町の下宿になぜフレンがいるのだろう。騎士団を辞めて下町に戻ったユーリとは違って、フレンは今も帝国に仕える騎士のはずだ。それどころか何千、何万の騎士団員を束ねる騎士団長の位に就いたはずではなかったか。

「……ん……フレン……」

まだ温もりの残る隣を手で探ってみたけれど、そこにはすでにフレンの姿はない。

「フレン……?」

すっぽりと頭まで被っていたシーツからもぞもぞと顔を出したユーリは、ようやくここが下町ではないことを思い出す。
高い窓から薄い生地のカーテンを透かして射し込む柔らかな朝の光と、仄かに漂う花の香り。ここは帝都ザーフィアスの中央に天に向けてそびえる皇帝の居城、ザーフィアス城の一室、若き新任騎士団長フレン・シーフォの私室だ。
それでは先程朝食の支度をする台所の音だと思ったのは何の音だったのか。半開きの狭い視界のままゆっくりと顔を巡らせる。やがて視界の端に淡い金色が映り込み、安堵したユーリは「フレン」と名を呼びかけて口を半端に開いたまま凍り付いた。

背の高いフレンの向こう、その背中に隠れてしまいそうな小柄なもう一つの人影。その影もまた動きを止める術でも掛けられたかのように硬直してこちらを見ている。気の強そうな眦の切れ上がった目は今にも眼球が転がり落ちそうなほどに大きく見開かれていた。
気の強そうな目とは裏腹の左目の下の泣き黒子、片側で三つ編みに結ばれた栗色の髪には見覚えがある。崇拝しているといっても過言ではないほどフレンを尊敬し、敬愛し、忠誠を誓う部下、フレンのためなら隊を率いて世界中どこへでも果敢に赴く忠臣ソディアだ。

以前に比べれば随分和解したとはいえ、今でもユーリとソディアの関係はぎこちない。過去に起きたことを思えば急に大の仲良しになる方が気味の悪い話だが、その過去の発端が発端なだけにこの状況を目撃されたのは非常にまずかった。よほど視力が悪いということでもない限り彼女はシーツから這い出してきたのがユーリだと認識しているはずだ。しかもシーツから出た肩は剥き出しの素肌。ついでに言えばシーツの下に隠れている部分も全て剥き出しの素肌だ。見られて都合が良いわけがない。

「ソディア、報告を」

硬直しているソディアにフレンが静かに先を促す。彼女の反応を目の前で見ているフレンも事態を理解しているはずだが、彼女の見間違いというシナリオにでも持っていくつもりなのかフレンは至って冷静だ。つられて背後を振り返ることもない。いつまでも見合っているわけにもいかず、ユーリも無言のままそっとシーツに潜り込む。
やっと理解した。台所の音だと勘違いしたのはソディアが扉をノックした音だったのだ。頭まで完全にシーツに潜り込んでいたのはフレンが彼女の目からユーリを隠すために被せたから。それならそうと叩き起こして言ってくれればいいのに。身を隠す場所くらいいくらでもある。シーツを透かす朝日に照らされる自身の裸体を情けない気分で見下ろしながらユーリは深々と溜息を吐いた。

「そ……その後のノール港執政官からの報告なのですが……」

よほど動揺しているのか、報告を再開したソディアの声は今にもひっくり返りそうなほどに高い。無駄なくきびきびとした話し方のはずが、詰まったり同じ言葉を繰り返したりとすっかり落ち着きもなくしていた。

「分かった、すぐに向かう。ソディアは小隊の人員調整をしておいてくれ」
「りょ……了解しました」

結局本来の調子を取り戻せないままソディアはフレンの部屋を後にする。遠ざかる足音さえ乱れているようだった。

「そういうわけで、ゆっくり朝寝ができなくなった」

扉の前から室内に戻り、微かな軋みを立ててベッドの縁に座ったフレンは普段と変わらない口調で少々残念そうに言いながらシーツ越しにユーリの肩に触れる。

「久しぶりにユーリの寝顔観察ができると思ったのに」
「んな呑気なこと言ってる場合じゃねぇだろ!」

あまりにも慌てないフレンの物言いに思わずユーリは声を荒げ、シーツを跳ね飛ばして身体を起こした。

「どうすんだよ、こんなトコ見られちまったら今度こそあの姉ちゃんに殺される!」

ユーリの激昂などどこ吹く風で、柔らかな陽光の下に晒されたユーリの裸身にフレンは青い瞳を眩しそうに細める。今更隠すほどの仲でもないけれど、妙に気恥ずかしくてユーリは手繰り寄せたシーツで身体を隠した。
剥き出しの肌には古いものも新しいものも含めて大小の傷がうっすらと残っている。危うく命を失いかけた腹の刀傷もエステルの治癒術のおかげで目立った痕は残っていない。
それほど遠くはない過去に古代遺跡の頂上でユーリの腹を短刀で貫いたのは他ならぬあのソディアだ。ソディアが殺してでもユーリを消したかった理由はユーリはフレンのためにならないから、フレンの隣にユーリのような罪人は似合わないから。それほど彼女はフレンに心酔しているのだ。

「殺されるわけないだろ?僕にとってユーリがどういう存在なのか彼女はよく知っている。もしソディアがユーリを殺したら僕はソディアを殺すよ」

あれほどフレンを敬愛し、フレン自身も信頼している優秀な部下をユーリのためなら殺すとフレンはきっぱりと言い切る。如何なる罪も法の下に裁かれるべきだと言うフレンが私情で人を裁くと言う。

「……なに物騒なこと言ってんだよ。そういう台詞はお前には似合わねぇよ」

同じ下町育ちなのにユーリとは正反対に物腰の柔らかな話し方をするはずのフレンの常にない激しい言葉に途端に頭が冷えたユーリは、起こしていた身体を再びベッドに埋めた。身支度を始めたフレンの動きを目で追う。

「オレなんか殺してせっかくの出世が水の泡になるなんて馬鹿馬鹿しいにもほどがあるだろ」
「その出世だって半分は君のためだ」

顔も合わせず間髪入れずに返された声もまるで吐き捨てるようでいつになく荒い。

「……そりゃ言い過ぎだろ。つーか、なんでお前そんなに機嫌悪いんだよ」

白銀の甲冑を慣れた手付きで素早く装着していくフレンはどう見ても明らかに怒っている。とんでもない光景を目撃されてしまったのだから不機嫌になるのは頷ける話だが、先程のフレンの口振りでは見られたことを特に気に病んでいるようではなかった。

「ユーリがあんな声で僕を呼ぶからだろ?どんな顔だったのかも容易に想像がつく」
「はぁ?」

思わず頓狂な声が出る。フレンが何を言いたいのか分からない。

「自覚なし……か」

すっかり身支度を整え、あとは剣を携えれば良いばかりになったフレンは再び部屋の奥に戻り、ユーリが横たわるベッドの縁に腰掛ける。無限の空を思わせるような鮮やかな青い瞳にじっと見詰められ、居心地の良さと悪さを同時に感じてユーリはすっと視線を外した。

「安心しきった甘ったれた声で僕を呼んだだろう?フレン……ってさ」
「な……っ!呼んでねぇ!」

ユーリを真似たつもりらしいフレンの声音に、ユーリはここが城の中だということも忘れて叫ぶ。頭の片隅では思い当たることがあるような気もしたが、鳥肌が立ちそうな甘えた声を自分が出したとは簡単に認められるものではなかった。

「いいや、呼んだ。ああいう声を出す時のユーリは表情もいつもとまったく違うんだ。ソディアがあんなに焦っていたのはユーリのそんな顔を見てしまったからでもあると思うよ。僕しか知らない特別な顔だと思ってたのに、よりにもよって彼女に見られるなんて……」

本気で今にも剣を抜きそうな険しい表情でフレンは形良く整った眉をぎゅっと寄せる。

「……あの姉さんに限ってはオレの何を見たって何がどうなるってことはないだろ」

なにしろ一時はフレンのためにならないからと殺されそうになるほどに恨まれていたのだ。憎悪がぶり返すことはあっても逆があるとは思えない。

「意外であればあるほど思いの変化の反動も大きくなるだろう?ソディアとユーリを奪い合うなんて構図だけは嫌だからね。彼女ほどの優秀な部下を失いたくはないんだ」

本気なのか冗談のつもりなのか、真意の掴めない見た目だけなら至極真面目なフレンの言葉に身体の芯から脱力し、溜息混じりにユーリはもぞもぞとシーツに潜り込む。

「……もう行けよ。その優秀な部下を待たせてんだろ?」

シーツの端から出した手を猫でも追い払うようにひらひらと払うと、グローブを隔てても温かさの伝わるフレンの手がそれを包み込んだ。

「もう戻ってしまうのか?」
「ああ」

思い描く理想の未来は同じでも、ユーリとフレンの歩む道は違う。ユーリはユーリの、フレンはフレンの生きる場所へ戻らなければならない。こうして同じ時を過ごすのはほんの僅かな寄り道に過ぎないのだ。

「……そうか、任務から戻っても君はもういないんだね」

引かれた手の甲に柔らかなものが触れ、朝日を透かすシーツの内側でユーリはその感触が寄せられたフレンの頬だと知る。

「帝都に帰ったらまた会いに来てくれ。窓の鍵はかけないでおくから」

次いで指先に触れたのは頬よりも柔らかく温かな唇。シーツから這い出し、再び正面からフレンと目を合わせてユーリは笑った。

「法に背くフレンを見られるのはオレだけだな。どんな理由があろうと不法侵入を帝国の法は認めていないんだろ?」

かつてフレンに言われた言葉をそのまま返すと、ユーリの手を取ったままフレンも薄く笑う。

「住人が認めているんだから法には触れないよ。ただし、ユーリが警備に見付かるようなヘマをしなければの話だけどね」
「騎士団長になって堅苦しさが増すかと思ったら、お前も随分丸くなったもんだな」

取られた手を逆に引き返すと、甲冑の金具が立てる微かな金属音を響かせてフレンの上体がシーツ越しにユーリに覆い被さった。薄い布地越しに甲冑が素肌に触れているけれど痛みはなく、むしろその重みが心地良い。

「……じゃあ、行くよ」

名残惜しそうに指先でユーリの唇に触れながらフレンは倒した上体を起こす。

「ああ」

名残惜しくその指先に口付けながらユーリは答えた。
束の間交わった二人の道がまた分かれる。けれどそれは哀しいことでもつらいことでもない。互いの歩む道は違っても、向かう先に見るものは同じなのだから。

「フレン」

剣を腰に帯び、ユーリに背を向けたフレンを呼び止める。振り返ったフレンにユーリはシーツから出した手を掌を見せて差し出した。幼い企みが成功した時、何かを成し遂げようと決意を固めた時、 思い描く理想に一歩近付いた時、いつもユーリとフレンはどちらからともなくこうして手を高く掲げ、掌を打ち合わせてきた。
その手を愛しげに見たフレンがユーリの側に戻ってくる。だが掌と掌が弾ける小気味の良い音は鳴らない。代わりに指先を包むように取ったユーリの手を胸元に引き寄せたフレンは真っ直ぐに正した腰を折り、恭しく手の甲に口付けた。

「……新しいな……」

あまりにも堂に入った紳士的なその仕種にユーリは思わずとぼけた呟きを洩らす。顔を上げたフレンは幼い頃からずっと一緒でその顔を見慣れているはずのユーリでさえガラにもなく頬を染めてしまいそうな完璧な微笑を見せた。相手が女性ならその効果のほどは想像に難くない。

「今度こそ本当に行くよ。これ以上時間がかかるとソディアが余計な想像をしてしまいそうだからね」

いつもの顔で笑って言った後に少し声を落として「想像していても別に問題はないけれど」と続けたフレンの背中にユーリは枕を投げつける。

「いいからもう早く行けよ」
「はいはい。僕がここを出たらこの部屋は無人ということになるからね。誰も来ないからユーリは好きなだけゆっくりしていくといい。出ていく時はくれぐれも警備に見付からないように」

無意識なのか唇に残る感触を確かめるように指先で触れ、投げつけられた枕をユーリに向かって放り返してからフレンは穏やかに緩んでいた表情を騎士団長らしく引き締めた。

「オレを誰だと思ってんだ?そんなヘマするかよ。そんじゃ、吊目の姉さんによろしくな」

いつまでも見ているとらしくもなく別れが惜しくなる。うっすらと甲に唇の感触の残る手をひらりと振って、ユーリはシーツの中に潜り込んだ。 
シーツに隔たれ顔は見えず、声も聞こえないけれど、確かにフレンが微笑む気配が肌に伝わる。やがて静かに扉の閉じられる音を最後に、部屋の中はしんと静まり返った。

遠ざかる足音が完全に聞こえなくなってからシーツから這い出したユーリは朝日の中に小さく溜息を落とす。

「どう考えても完璧にあの姉さんにはバレたよなぁ……フレンの部屋の周りだけ警備の数増やされたらどうすっかな……」

下らない話だがあり得ないことではない。枕に頬を埋めてしばらくぼんやりとしていたユーリは、いくら考えたところで埒の明かない思考はばっさりと中断してシーツに包まり直した。

「考えたところで無駄だな。なるようになるさ。……さてと、お言葉に甘えてもうちょっと寝させてもらうかな。腰だるいし……」

戦闘後の疲れや痛みとは趣の違う身体のだるさはフレンのせいだ。そこでふとユーリは思う。

「……真っ最中のフレンを見たらあの姉さん卒倒するだろうな。荒っぽいし、優しくねぇし、無駄にエロいし……」

おまけに持久力もあるのでユーリが先に根を上げて気を失ってしまうことも多い。後で何故こんなところにまでと思うような場所に吸い付かれた痕が残っていて驚くこともある。

「ま、わざわざ教えてやることもねぇな。フレンのあんな顔知ってんのはオレだけで充分だ」

胸で渦を巻く子供じみた優越感に苦笑しながらユーリは再びシーツを被った。
ふわりと甘い香りが鼻先を掠める。てっきり庭の花の香りだと思っていたその香りはどうやらフレンの香りらしい。体臭なのか香水の類なのかは知らないけれど、この香りがユーリにとって安心できる心地の良いものであることに違いはなかった。
取り澄ました顔で部下に指示を出すフレンを思うと笑いが込み上げてくる。そうやってせいぜい真面目くさった清廉な顔をしていればいい。本能が剥き出しになった顔など誰にも知られることなく。

清々しい朝の光の中で思い出すには少々生々しい記憶が脳裏に甦りそうになり、ユーリは軽く頭を振るって目を閉じた。
行為を思い返すと同時に身体の奥深くにまで残る昨夜の疲れも思い出す。甘い香りは瞬く間にユーリに眠気をもたらした。

「……知ってるのはオレだけだ……」

睡魔に抗わず、呟きを残してユーリはあっという間に眠りに落ちる。
闖入者が堂々と団長のベッドで寝入っていることなど露知らず、帝国に仕える真面目な騎士達は今日も忠実にその職務を全うし帝都の警備にあたっていた。


END