はじめてのひと
人はこの世に生まれ落ち、初めての声、産声を上げて以来、多くの「初めて」を経験して成長していく。「初めて」の経験が多ければ多いほど、それは刺激的で実りある人生と言えるのかもしれない。
幼い頃はまさに「初めて」の連続だった。だが人と共に世界も成長していく。何もかも知り尽くすことなどあり得ない、幾つになろうともまだ見ぬ「初めて」の瞬間はこれからの人生に数多く用意されているのだろう。
二十歳をせいぜい数年過ぎたばかりの自分などまだまだヒヨっ子だ、とフレン・シーフォはつらつらと並べる思考の片隅で思う。
ヒヨっ子とは言ってもこれまでの人生は中々に刺激的ではあった。なにしろ帝都ザーフィアスの下町という最下層の居住区出身の身でありながら、この歳にして騎士団長という地位に就いてしまったのだから。
前だけを見て全力で突っ走ってきた。これからも突っ走り続けるのだろう。
迷わずに前だけを見ていられるのは後ろにも目があるからだ。常に後ろを見てくれている者がいる。
後ろだけではない、四方八方。何よりも幸運なことに、フレンには自分の目だけでは見られない場所、フレン自身の内面すら彼自身に代わって見守ってくれる多くの仲間がいる。もしこの目が見る力を失ったとしても迷わず歩ける自信がフレンにはあった。
その多くの仲間達の中で、誰よりも大切で、時に優しく温かで、時に鋭く厳しい目を持ったかけがえのない存在がある。
世界がまだ知らない事に溢れていた幼い頃、帝都の下町を毎日毎日飽きることなく共に駆け回っていた親友、ユーリ・ローウェル。
思えば、フレンが「初めて」を経験する時には大抵彼が隣にいた。同じものを見て、同じ刺激を受け、だがそれぞれに違う思いを抱いて成長してきた。何もかもが同じではない。違いがあるからこそ、その違いが新たな刺激になったものだ。
そう言えば、とフレンの思考はまた別の方向へ向かう。
あれはまだフレンもユーリも下町に住んでいた頃。特に約束をしていたわけではなかったけれど、互いに何の疑いも迷いもなく下町のどこかで落ち合い、今日はこっち、翌日はあっちと狭い世界の探検に夢中になっていた。
その日も「ここにいたら会える気がする」という大した根拠もない非常に動物的な勘を頼りにユーリを待っていたフレンは、果たしてその勘の通りに細い路地の向こうから駆けてくる黒髪の少年の姿に壁に寄せていた背を起こした。
「フレン!」
陽光を受けて黒い瞳がきらきらと輝いている。何か面白いことはないか、何か新しいものはないか、そうして常に楽しみを見出そうとする純粋な瞳にフレンはいつも胸の奥から沸き立つような昂揚を覚えたものだ。
ユーリがいるから走っていける。知らない場所にも足を踏み入れられる。色んなものが見えてくる。幼いフレンにとってユーリは大切なおもちゃ箱であり宝箱だった。
今日はどんなおもちゃが飛び出すのだろう、どんな宝物が増えるのだろう。そんな期待を胸に抱きながら駆けてくるユーリを待つ。
普段は前髪に隠れている額が露わになっている。結構な距離を駆けてきたのか、白い頬はほんのりと赤く染まっていた。
もしかしたらここに来るまでの間に何か新しい発見をしたのかもしれない。今日のユーリはなんだかとても楽しそうだ。
「ユーリ」
何か面白いことでもあったの?
そう問い掛けようとしたフレンの言葉が声になることはなかった。
声を出す場所、つまり口を塞がれてしまったからだ。ユーリの唇によって。
柔らかな感触がフレンの口を塞いだのはほんの一瞬。初めは何が起こったのかまったく理解できなかった。なんだ、今の。
言葉を失い硬直するフレンの前でユーリは屈託ない表情を見せている。ユーリはユーリで自分が何をしたのか理解していないようだ。
「んー、特に何もねえなぁ。何なんだろうな、コレ」
「な……何って……」
何なんだろうはこっちの台詞だ。その上「特に何もない」って何だ。充分に起こっているだろう、重大な出来事が。
あっけらかんとしたユーリの一言に言葉を失った上にフレンは更に上乗せで絶句する。
「裏の通りで雑貨屋の兄ちゃんと床屋の姉ちゃんがやってた」
だから真似てみたのか。無邪気に下町の裏情報を暴露しているし。
皆が家族のように暮らす下町では珍しいことに雑貨屋のおかみさんと床屋のおかみさんはちょっと仲が悪い。詳しくは教えてもらえないけれど若い頃の恋愛事情が原因らしい。そんな親同士の関係に気を遣っての秘密の恋というやつか。
いや、今はそんな余所のことはどうでもいい。自分のことだ。
驚くべきことにユーリは本当にたった今自分がしでかした行為の意味を分かっていないらしい。時々びっくりするほどに大人びた言動をするユーリだが、その反動なのか時々びっくりするほど無知で無垢な一面を見せることがある。今がまさにその良い例だ。
知っていて知らないフリをして芝居を打っているとは思えない。フレンの良く知るユーリはそこまで小賢しくはない。事実を知ったらユーリはどんな反応を見せるのだろう。素直に受け入れるのか、怒るのか、嘆くのか。
「さ……さあ、おまじない……かな?」
もし全力で否定されたらどうしよう。そう考えた瞬間、ざわりと胸の奥を過ったざわめきに、フレンは咄嗟に知らないフリで首を傾げた。
物知りなフレンでも知らないのかと素直に納得したユーリの心はすでにここにはなく、今日はどこまで探検に行こうかと未知の世界に駆け出している。
ユーリを追って一足遅れて駆け出したフレンは、元気に揺れる黒髪を目に映しながら無意識に指先で唇に触れていた。そこにはまだ微かに柔らかな感触が残っている。
それからどこに行ったのか、何をして遊んだのか、あの日のことはよく覚えていない。ただいつまでも残る唇の感触だけが鮮明だった。
「あれが僕の初めてのキスだったんだよ」
開け放った窓から吹き込む春の気配を含んだ爽やかな風が執務机に積み上げた書類の端をはらはらと翻らせる。
飛び散らないようにきっちりと蓋を閉じたインクの瓶を乗せ、フレンはほぅと吐息を零した。
「……一人で何をぶつぶつ言ってんのかと思ったら何の話だよ」
人の部屋の人のベッドに大層横柄な態度で寝そべり、無垢な少年の面影はすっかり為りをひそめたユーリが思い切り眉間に皺を寄せて低く言い捨てる。だが胡散臭そうにフレンを見遣る横目はじっとりとしているけれど、瞳の色の美しさは幼い頃と変わらない。
ユーリがあの時のことを覚えているのかどうかは聞いてみないことには分からないが、たとえ知らぬ存ぜぬを貫き通したとしても七・八割方は覚えているのではないかというのがフレンの見立てだ。
「僕の色んな初めてにはユーリが関わってるんだよって話」
赤ん坊の頃の出来事は記憶にないけれど、おそらく生まれて初めて両親以外で対面した人はユーリだっただろうし、友達になったのもユーリが初めて。初めて手を繋いだ友達もユーリだし、喧嘩をしたのもユーリ、仲直りをしたのもユーリ、指切りをして約束を交わしたのもユーリ。
「本当に色んな初めてがあったよね」
初めてキスをしたあの時、胸の奥を過ったざわめきにフレンは咄嗟に嘘をついた。
なぜ嘘をついてしまったのか、あのざわめきは何だったのか。当時は分からなかったその意味が今ならよく分かる。
その行為の意味を知ったユーリに否定されるのが怖かった。違う、そんな意味ではないと言われるのも怖かったし、もしも気持ち悪いなどと言われてしまったらきっとショックで泣いていたのではないかとすら思う。
フレンなんか嫌いだと言われるのが怖かった。ひるがえせば、それはフレンがユーリのことが好きだということ。
その時初めてフレンは心の内に潜むユーリへの恋心に気付いたのだ。初恋だった。もちろんその当時はユーリを見るだけで胸が苦しくなる意味なんてまだ分かってはいなかったけれど。
「この先どんな初めてが僕達に用意されてるんだろうね」
互いが正しい意味を理解して唇を寄せ合ったのは初めてのあの時から随分と時を経た後だった。誰かを深く想うこと、その想いが一方通行ではなくなることで、人は大きく変わるということをフレンは初めて知った。
人は誰かを想うことで強くなり、また己の弱さを知る。だがその弱さは想う相手が補ってくれる。逆もまた然り。だからこそ惹かれ合うのだ。それもまたフレンがユーリを深く想うことで初めて知ったことだった。
「初めても結構だけどな、繰り返すことも大事だとオレは思うぞ」
感慨に耽り再びほぅと零したフレンの吐息に淡々とした口調のユーリの言葉が被る。妙に達観したその物言いに引っ掛かるものを感じてフレンはベッドに寝そべったままのユーリをまじまじと見遣った。
黒い瞳と視線がぶつかる。真意などないと言わんばかりの無表情がかえって胡散臭い。なるほど、そういうことか。
すぐさまピンとくるものを感じ取り、執務机を離れたフレンは背を起こそうともしないユーリの横に腰掛け、上半身を折って覆い被さるようにユーリの顔に自身の顔を寄せる。
「キスしてほしいのならそう言えばいいのに」
唇に触れる温かな感触。幼い頃の柔らかさに比べるとほんの少し硬くなったような気はするけれど、何度唇を重ねてもその度に胸をくすぐる甘さは初めてのあの時からずっと変わらない。
「どんな解釈だよ、それ」
「素直じゃないなぁ。昔はあんなに純粋で可愛かったのに」
「悪かったな、可愛くないひねくれ者で」
その唇から零れ落ちる言葉も昔のように純粋で無垢なものではなくなったけれど、いくら言葉は粗野でも根の部分が変わっていないのだから裏を返してみればやっぱりあの時から変わっていない。
ただ「裏を返して真意を探る」というひと手間が加えられたのは確かなので、それを思うと少し面倒にはなった。だがそれも「面倒」と取るか「駆け引き」と取るかで楽しみは変わってくる。
もちろんフレンにとってユーリとの駆け引きは心地良い緊張感を伴った最高に楽しいゲームだ。勝ちを得た時の爽快感はたまらない。こんな楽しみもユーリとの関係の中で初めて知った。
「解釈違いだっていうなら甘んじて受けていないで拒否すればいいじゃないか」
「いいんだよ、違ってないから」
「それならそうと初めから言えばいいじゃないか、本当に素直じゃないな君は」
「あーうるせぇうるせぇ」
いいんだよ、そんな細かいコトなんかどうでも。
背に回されたユーリの手にぐいと強引に引き寄せられる。支えを失い遠慮のない重みを預けるフレンをユーリの若木のようにしなやかな体が受け止めた。
言葉も行動も乱暴だ。けれど、それ以上に温かい。
素直ではないけれど素直でないことは分かっているからそう思えばものすごく素直で、ぶっきらぼうな物言いをしてもその裏の優しさは誰にも筒抜けで、どんなにひねくれ者を装ってもいつもしゃんと伸びている背中の通りにその信念はどこまでも真っ直ぐで。
それがフレンが初めて恋をした人。これからもきっとたくさんの「初めて」を与えてくれる人。
この先僕達にはどんな「初めて」が用意されているのだろう。
春の陽だまりでまどろむような温かさと心地良さを感じながらふとそんな考えを頭に過らせると、途端に感付いたユーリに「集中しろ」と頭を軽く小突かれた。
こういう時のユーリは自分から意識が逸れる瞬間に驚くほど敏感。それもフレンがユーリとの関係の中で初めて知ったことだった。
END
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