真珠の魔法使い
  

オレには「泣いた」という記憶があまりない。
もちろん生まれてこの方一度も泣いたことがないわけではないし、ずっとずっと昔、自分の記憶にも残っていない赤ん坊の頃にはもっと純粋に感情のままに泣いていたんだろう。

でもいつの頃からかオレは泣かなくなっていた。
泣き方を忘れたわけではない。ただ、泣いたって腹は膨れない。むしろ余計に腹が減る。泣いたって怒りや痛みが薄れるわけでもない。「泣く」という行為は思う以上に体力を消耗する。泣いても何も始まらない、何も解決しないなら、そんなことのために体力を使う方が無駄だ。
涙を零すことはある。でもそれは目にゴミが入り込んだ時と同じ、単なる身体的な機能であって「感情」を伴うものではなかった。

だからといって泣いている他のヤツをバカにしていたわけではない。そうして感情を露わにできることが素直に羨ましかった。
腹が膨れるわけではない、怒りや痛みが薄れるわけでもないけれど、「泣く」ということは体にとって、心にとってとても大切な行為だということを忘れてしまったわけではないのだ。

そんなふうに泣かなかった子供の頃、近所に不思議なヤツがいた。
最初がいつだったのかは覚えていない。毎日のように顔を合わせていたそいつは、ある日突然オレの顔を見るなりまるで何歳も年下の子供に向けるような顔で笑って、甘ったるい声でオレを呼ぶのだ。

「ユーリ、こっちにおいで」

普段のオレならそんなふうに呼ばれても絶対に従わないだろうけれど、いつもこの時だけは不思議なことに言われる通りにしようと思った。
手招かれるままに歩み寄ったオレを正面に座らせたそいつは、しばらく青い目でじっとオレを見詰めた後、すっと手を伸ばしてオレの額の真中辺りに指先で触れる。その指先はいつもひやりと冷たく感じられた。

そこからそいつは特に何かをするわけではないし、何かを言うわけでもない。ただじっと冷たい指先でオレの額に触れているだけだ。
変化はオレの方に現れた。まるで風船に空気を入れるように体の奥の方が膨れ上がってくる。どんどん膨らんで、額に触れる指先がほんのりと温かく感じられるようになった頃、音もなくその風船は弾けた。
そうするとオレの両目からはするすると涙が零れ落ちるのだ。

涙はただ流れ落ちていく。哀しくもないし痛くもない。
泣いている感覚はなくて、ただなぜなんだろう、これは何なんだろうと思いながら、額に触れたままの手の向こうに見える青い目を見ていた。

「はい、おしまい」

しばらくして流れ落ちる涙が止まるとそいつは手を離してにっこりと笑う。
それ以外には何もしないし何も言わないのでオレも特に何も言わずに立ち上がり、そのまま連れ立って別の場所に遊びに行くこともあったしその場で別れて家に帰ることもあった。
何か違うことがあるとすれば、それがあった日の夜はいつもよりもぐっすりと深く眠ることができた。

そうして前回のことを忘れた頃にまた甘ったるい声で呼び寄せられて同じことをして、また少しずつ記憶が薄れていって。
そんなふうに繰り返しているうちにオレもそいつもいつの間にか大人と呼べる歳になっていた。いわゆる腐れ縁というやつで、昔のように毎日顔を合わせるわけではないけれど、今でもそいつとの縁は続いている。

「ユーリ、こっちにおいで」

久しぶりに帝都に戻ってきたので、気まぐれにお堅い役職に就いたそいつの顔でも拝んでやろうかと今では城住まいのそいつの部屋に夜陰に紛れて忍び込んだら、ヤツはオレを見るなり幼い子供に向けるような顔で小さく笑った。続けて甘ったるい声で呼ばれ、一気に押し寄せるように昔の記憶がよみがえってくる。
今の今まですっかり忘れていた。そういえばこんなこともしていたっけ。

思い出すと共に、オレは素直にそいつの言葉に従っていた。この後何が始まるのかは分かっていたし、お互いにもういい歳なんだけどなと少しもやっとするものは感じたけれど、やっぱり昔と同じようにこの時のオレは不思議とヤツの言葉を聞こうという気持ちになっていた。

昔と同じようにオレを正面に座らせたそいつは、変わらずきれいな青い目でじっとオレを見詰める。やがてすっと伸びてきた手の指先がオレの額の真中に触れた。その感触はひやりと冷たい。
でも今なら分かる。指先が冷たいのではなくて、オレの方が熱いのだ。
相変わらず青い目はじっとオレを見ている。オレの目だけを見ているようでもあり、目の奥の奥、目には映らない奥底まで見通しているようでもあった。

やがて、昔と同じようにオレの体の内側が風船のように膨らみ始める。触れる指先がオレの体温と馴染んで次第に温かみを帯びてくる。
そして互いの熱が同じになった時、一杯まで膨らんだ風船はオレの体の奥で音もなく弾けた。

両の目から雫が溢れ出し、頬を転がり落ちていく。
不思議だ。涙ってこんなに熱かったっけ?
そう思うと同時に、オレはもう随分長い間こうして涙を流していなかったことを思い出した。「泣く」ということが体と心にとってとても大切な行為だということを忘れていた。

ふと額から指先が離れていく。記憶の中にある「はい、おしまい」の一言はない。まだ涙は止まっていないから。
額から頬へと滑った指先は流れる涙の痕を辿る。雫の細い線を辿った指先が再び目の縁へと戻り、今度は伝い落ちる雫を受け止めるように手の平で頬を包み込まれた。
じっとオレを見詰める青い目が少しずつ近付いてくる。近付いて、近付いて、近付き過ぎて見えなくなるくらいに近付いた頃、オレの唇に柔らかく温かなものが触れていた。それは涙を含んで少し塩辛い。

「……んだよ、昔はこんなことしなかっただろ……」

塩辛い柔らかな感触が離れていって、また青い目が視界に戻ってくる。
穏やかに笑うその目はもう幼い子供を見るようなものではなくなっていた。

「こうすることの意味も、こんな気持ちの意味も知らなかったからだよ。知っていたらきっと同じようにしていた」

こうすることの意味。こんな気持ちの意味。
いつもは従わないのにこの時だけ「おいで」という甘ったるい声に素直に従う意味。こいつがオレを呼ぶから寄るのか、オレが寄るからこいつが呼ぶのか。幼い子供を見るような笑顔の意味。こうして「泣いた」日の夜はいつもよりぐっすりと深く眠れる意味。
知らなかった。気付いていなかった。でも今ならその意味が分かった。
ゆっくりと体を倒し、正面に座ったヤツの胸元に濡れた頬を寄せる。

「ユーリこそ、昔はこんなことしなかったじゃないか」

揺らぎもせず凭れ掛かるオレを受け止め、からかうような、でも耳の奥がくすぐったくなるくらいに甘い声が笑う。上手く泣けないオレが体の奥に溜め込んだ涙を汲み上げ溢れ出させる魔法使いの声だ。
「はい、おしまい」の一言を聞いたら今までのことなんてまるで忘れたような顔でフラっと遊びに行ったり家に帰ってしまうオレを、こいつはどんな顔で、どんな気持ちで見ていたんだろう。

「……同じだろ、知らなかったんだ」

お互いに子供だった。何も知らなくて、ただ呼べば寄り、寄れば呼ぶ互いの存在が唯一だった。
そしてその意味を知った今でも、やっぱり互いの存在が唯一であることに変わりはない。

「ああ、でも舐めてみたいなって思ったことはあったかな」
「……なんだそれ」

少し大人になった涙の魔法使いの言葉に力が抜ける。
緩んでより深く寄り掛かるオレの背を、逃がすまいとするかのように長く力強い腕が抱き寄せた。

「だって、とてもきれいなんだよ。キラキラ光って真珠みたいにまん丸で。きっときれいな味だと思った」
「……なんだよ、きれいな味って……味オンチのくせに。……で、どうだったよ実際の味は」

オレの問いに対する味オンチの答えはない。ただ僅かな気配の流れが濡れた頬を優しく撫でた。きっと笑ったのだろう。
まだ唇には柔らかな感触の名残と共に涙の味が残っている。美味くはないけど不味くもない。これがオレから溢れ出たものの味なんだと思うと少し不思議な感じがした。

最初がいつだったのか覚えていない。下町が世界の全てだった子供の頃、ある日突然甘ったるい声で名前を呼ばれた。それから「その日」は前回を忘れた頃に訪れて、そのたびに繰り返された魔法のようなささやかな遊び。遊びのような魔法、かな。

「またいつでもおいで、不器用さん」

甘ったるい声が耳元に囁きを落とす。次の約束なんてしたことはなかったのに。
名前を呼ばれる意味も、素直にその言葉に従おうという気持ちになる意味も分かっている。
でももうお互いにいい歳なんだけどなと内心では呆れても、この時ばかりはやっぱりこいつの言葉を素直に聞こうという気持ちになってしまうのだ。
まったくもって面倒な話だ。面倒だけど悪い気はしない。

子供の頃、下町の近所に不思議なヤツが住んでいた。
それは今でもオレの隣にいる、甘ったるい声でオレを呼び、上手く泣けないオレが体の奥に溜め込んだ涙を指先ひとつで容易く汲み上げ溢れ出させる涙の魔法使い。


END