背中
 

窓枠に四角く切り取られた空がうっすらと白み始めている。視界の端にその空の色を映した僕はなるべく音を立てないようにそっとシーツから抜け出して身を起こした。
程よく温もったシーツの中。温めたのは二人分の体温。
隣を伺うと白いシーツの上でユーリの長い黒髪が柔らかく波打っていた。

まだ眠っているのか狸寝入りをしているのか、ユーリの瞼は落とされたままだ。
けれど十中八九彼は目覚めているだろう。ただでさえ周囲の気配に敏感で眠りの浅い彼のこと、音を抑えているとはいってもすぐ隣でごそごそと身動きをされたら嫌でも目は覚めるに違いない。

いつからユーリはこんなふうに深く眠らなくなったのだろう。昔は早く起きろと急かしても「あと少し」「もうちょっとだけ」となかなか起きなかったし、寝相ももっと悪かった。シーツから手足が飛び出しているのもしょっちゅうで、それを見付けるたびに風邪でもひいたら大変だと僕がシーツの中に突っ込んでいたものだ。
当時は焼かなくてもいい世話を焼きつつ「なぜ僕がこんなことまで」とおせっかいな自分に憤っていたものだが、その必要がなくなってしまうと今度はそれが少し寂しくなる。人と心というのは実に勝手なものだ。

まるで人形のように微かな寝息さえ聞こえないユーリから視線を外し、僕は寝台の端から両足を床に下ろす。
ベッドの周りには昨夜脱ぎ捨てた僕とユーリの服が散乱していた。随分派手に放り出したものだ。皺になっていなければいいけれど。
身を屈め、一番近くに落ちていた塊を拾い上げる。ユーリの黒い上着だ。

「…………」

屈めた上体を起こした瞬間、僕は朝の空気の中に声にならない声を落とした。
背中につい先ほどまで固く目を閉じていたユーリの手が触れたからだ。

「……悪ぃ、驚かせたか……?」
「……いや」

少し掠れたユーリの声に僕は首を振って答える。
驚いたわけではない。ユーリが眠っていないことは分かっていたし、手が伸びてくるかもしれないというのも薄々勘付いていたから。
たださっきまでの人形のような印象とは裏腹にその指先は思った以上に熱を含んでいて、瞬く間に僕の体の奥の奥へと届いたその熱が僕を深く内側から震わせた。

「オレ……おまえの背中、好きだな……」

ひとしきり背中の輪郭を確かめるように指先で触れた後、衣擦れの音を立てて背後でユーリの気配が動く。
次にはゆっくりと背中に心地良い重みが掛かり、絹のように滑らかな髪が僕の肌をくすぐった。背に吐息が触れる。

「どうしたんだい?珍しく甘えん坊さんだね」

肩越しに黒髪を撫でると、声を出さず肩を少しだけ揺らしてユーリは笑った。そしてそのまま胸元を背中に押し付けるようにして僕の背中により深く寄り掛かってくる。
窓の外では鳥が軽やかに囀り始め、空は白々と明け始めていた。背中と胸元を寄せ合って、僕達はそんな時の流れを静かに眺める。

「……重い?」

小鳥の囀りにすら掻き消されてしまいそうな、小さな小さなユーリの問い。
僕の背に寄り掛かりながら、この背中に掛かるものは重くはないかとユーリは問う。それはただ今この時の彼自身が掛ける重さのことではないのだろう。
僕が僕の理想のためにこの背に負った全てのもの。夢、希望、力、現実、命、罪。

「温かいよ」

僕の答えにユーリの反応はなかった。ただ背から腹に回された両腕がゆっくりとその輪を縮めて僕を引き寄せる。
確かに僕が背負ったものは大きく重い。けれどそれを辛いとか投げ出したいと思ったことはなかった。
僕が負ったものの中には、今僕の背に触れているこの温もりも含まれているから。それこそが僕が望んで引き受けた重さだから。

「なぁ、フレン……」
「……ん?」

背に甘い吐息が触れる。寄り掛かる心地良い重みを押し遣るには忍びなく、脇から腹へと回された腕に手を合わせて僕は小さな呼び掛けに答える。

「服着るの……もうちょっと後にしねえ?」
「うん……」

回された両腕の力がほんの僅かに緩められるのに合わせ、僕はユーリに向けていた背を返して一度は離れた温かいシーツの中へと戻った。
空が白むのに合わせて早起きをしなければならない特別な理由などない。ただもし何か急な報せがあればすぐにでも動けるようにと身支度を整えておくのはもはや日々の習慣になっていた。何もなければそれに越したことはないのだ。職業柄、僕が暇であればあるほどそれは世界にとっては良いことなのだから。

胸と胸を合わせて温もったシーツに包まり、唇と唇を合わせて互いの体温を分け合う。
ユーリの温かな指先はその造形をしっかりと記憶しようとするかのように繰り返し僕の背を縦へ横へと移ろった。

「フレン……」
「……ん?」

僅かに離れた唇と唇の隙間、互いの吐息が混ざり合うそこにユーリの声が甘くたゆたう。
近すぎて視界で滲むユーリの黒い瞳を見ようと顔を起こそうとすると、背から頭の後ろへと移ったユーリの手にそれを阻まれた。頬をユーリの吐息が湿らせる。

「あんまりこういうコト言わねえけど……無性に言いたくなったから言うわ」

心して聞けよとユーリは笑った。頭を起こせないように手を添えられているからユーリの表情を確かめることはできない。
でも僕には分かる。僕しか知らない、僕にしか見せない、脆く、繊細で、泣きたくなるほどに清らかなユーリの美しさ。

「愛してる」

同じ言葉を返そうとした。
けれどたとえ同じ言葉を返したとしても同じだけの意味と尊さを持つ言葉にはならないだろうから、ただ僕は「うん」と頷いた。
少しだけ笑って、ユーリは僕を抱きしめた。

僕の背中には多くのものが掛かっている。夢や希望、権力、目に見えないものを追うほどに突き付けられる現実、自分の命、他人の命、罰した罪、犯した罪。
けれど決して軽くはないそれらのものも、たったひとつの温もりがあれば辛いものでも投げ出したいものでもなくなる。

今僕の背中で、その温もりがまたひとつその温かさを増した。


END