あの日の未来 この時の過去


ろくに舗装もされていないデコボコの道を男は一人で歩いていた。鎧こそ脱いでいるものの出で立ちは団支給の制服で、男が騎士団の一員であることは一目瞭然だ。
視線の先で住民の再三の要望と数人の騎士の働きかけでようやく設置されたばかりの水道魔導器が陽光を弾いて水を噴き上げている。だが与えられた魔導器は素人目にもそれと分かる粗悪品で、さらには当て付けのように整備を後回しにされるせいで水量が安定しない。辺りには不規則な水音が響き、水の巡りが悪いためか不衛生な饐えたようなにおいが漂っていた。
それでもそんな光景に男は日頃の緊張を忘れるほどの穏やかな心地を味わっていた。ここ帝都ザーフィアスの下町が彼の故郷だからだ。

ふと顔を正面に向けると数人の騎士がこちらに向かってくるのが見えた。装束こそ立派だが立ち居振る舞いからあまり品の良さは感じられない。すれ違いざまに「お勤めご苦労さん」と声を掛けてもちらりと横目で一瞥されただけだった。

「おとといおいで!」

立ち去る騎士達の背中にぶつけるように声が飛んでくる。凛と響くその声は男にも馴染みのあるまだ若い女のものだ。

「おーおー、相変わらず威勢がいいな」

声を掛けると騎士達と入れ違いに現れた男の姿に女は吊り上げた眦を幾分穏やかに和ませた。

「……ファイナス、帝都に戻ってたのね、おかえりなさい」
「あんまりカリカリするなよ、腹の子に障るぞ」

決まりが悪そうに視線を少し落として女が腹に手を当てる。ほっそりとした手足とは不釣り合いに、ゆったりとした服を着ていても分かるほどに女の腹は丸く膨らんでいた。

「そこでガラの悪そうな連中とすれ違ったけど、また騎士団とやり合ったのか?」
「すれ違ったのなら分かるでしょ。あいつらこっちが強く出られないと思ってお年寄りや女ばかり狙ってやりたい放題。お金が欲しいなら出したくても出せない所よりたんまり溜めこんでる貴族街の連中に言えってのよ」

箒を片手に握った女が立ち塞がり侵入を防ぐ背後の粗末な家は彼女自身の家ではない。確かこの家には老夫婦が住んでいたはずだ。夫は長年病で伏せっており、年老いた婦人だけではろくな稼ぎもない。一日を食い繋ぐのに精一杯の貧しい家だがこの下町ではこんな家庭も珍しくはなかった。

「まったく、今は人のことより自分のことだろう。まぁあの連中のことは俺からも上に報告しておくよ」

騎士が権力を笠に着て弱い者を虐げる、そんな光景もまた珍しいものではない。何とかしたいと思っても同じ騎士という立場になった男ですら尽くせる手には限りがあり、悔しさや歯痒い思いは募る一方だった。
だがそんな光景の中にも確かに希望の光はある。

「ほい、土産。しかしお前もう臨月だろ?全然太らないなぁ。うちの嫁さんなんか腹も顔もパンパンだぞ。ちゃんと食ってるのか?」

男の妻もまた次の命を腹に宿し、男に希望の光を見せてくれていた。腹を見なければ妊婦には見えない目前の女とは対照的に腹のみならず全体的に丸くなった男の妻の腹は今にも破裂しそうなほどで、周囲からはこの大きさは絶対に双子に違いないと言われるほどだ。
伴侶とは早くに死に別れた女は今は独りで暮らしているが、貧しくとも皆が家族のようにひとつになって支え合うこの下町では孤独を感じることはない。特に彼女のような妊婦のことはいつも誰かが気に掛けていて、やれ衣類だの食事だのと世話をするのが当たり前だった。男もまたこうして非番の日に下町に戻る際には妻の分と合わせて彼女の分も土産を持ってくる。

「ちゃんと食べてるわよ。お腹の子も元気よ」

礼と共に男が手渡した土産の包みを受け取った女は丸く張り出した腹を撫でて微笑んだ。
自分の命と腹の中の新たな命、二人分の命を守る女性には彼女達にしかない独特の強さと美しさがある。母がいなければ子は生まれない。母は強しとは言うものの、身近に二人の母親を見て男はようやくその言葉の本当の意味を理解したのだった。

「私が騎士団の連中とやり合ってるとね、もっとやれっていうみたいにお腹を蹴飛ばすの。私に似たのね」
「……まったく、なんでそっちに解釈するのかね。もうそのへんでやめとけって意味かもしれないだろ」

ころころと朗らかに笑う女に男はやれやれと肩を落とす。
ほっそりと伸びやかな体、白い肌に映える黒髪、少女の頃から下町でも評判の器量良しだが、黙っていれば清楚でおしとやかに見えるものを持ち前の気風の良さで自ら進んで表に立っては厄介事に首を突っ込む。口を開けば屁理屈も理屈に聞こえるほどに弁が立つ。腹に子を宿せばそれも幾分落ち着くかと思えば大差はなく、彼女の今は亡き夫に頼まれた手前もあって何くれとなく世話を焼いてしまうものの大事なことほど悟らせない。そんな彼女のことは男に限らず多くの下町の住民が放っておけない、目が離せないとまたあれこれと世話を焼いてしまうのだ。

「今日はいい天気ね。こんな日に満開のハルルの樹の下でお花見をしたらきっとすごく気持ち良いんでしょうね」

連れ立って少し歩き、暖かな陽射しの降り注ぐ石段に腰を下ろした女はさっそく男から渡された土産の包みを開き、取り出した焼き菓子を嬉しそうに口に運ぶ。焼き菓子の表面には街を守る樹の結界、ハルルの花の薄紅色の花弁があしらってあった。
以前任務でハルルの街に赴いた時に土産として買って戻ったところ、男の妻も女も殊のほかこの焼き菓子を気に入り、再びハルルに立ち寄った際にそのことを思い出して同じものを買ってきたのだった。

「子供が生まれたら行きゃいい。大抵の人間は結界の外に出て旅をすることはないが剣の握り方も知らないような商人だって街から街を行き来してんだ。度胸と知恵さえありゃ一般人だって旅くらいできる」

それが言うほど易くはないことは男も分かっている。結界の外を徘徊する魔物は増えこそすれ減ることはなく、対して人はあまりにも弱く脆い。厳しい訓練を受け、装備を整えた騎士ですら一度の任務で必ず幾人かは返らぬ人となる。一般人なら尚のことだ。
それでも男は絵空事を言っているつもりはなかった。いつかそんな時代が来ればいい。願わくば、これから生を受ける子供達にはそんな脅威のない穏やかで平和な時代を生きてほしい。

「……そうね」

丸い腹をゆっくりと撫でながら女が頷く。つい先ほどまで騎士団の男を相手に箒を片手に仁王立ちしていたとは思えないほどにその眼差しは優しく柔らかい。言葉ではなく心で腹の中の子に語りかける母親の姿はまるで一枚の絵のようだった。

「私ね」

包みの中の焼き菓子を半分ほどあっという間にぺろりと平らげた女が残りを丁寧に包み直しながら歌うような口振りで話し始める。
なぜか胸の奥をざわつかせるものを感じて男はじっと女の穏やかな横顔を見詰めた。

「この子が生まれたら男の子でも女の子でもユーリって名付けようと思ってるの」
「……おいおい、母親と子供が同じ名前だったらややこしいだろ」

胸のざわつきの原因はこれだったのかとその意味を悟り男は眉根を寄せる。

「大丈夫よ、ややこしいことにはならないわ」
「おい、ユーリ……!」
「私の体のことは私がいちばんよく分かっているの」

声を荒げた男の言葉を女の静かな、だが毅然とした声が遮った。
白い肌、もうひとつの命を宿しているとは思えない細い体。会うごとに腹を膨らませ生命力を漲らせて逞しい美しさを見せる妻とは違い、女は昔からの快活な美しさの奥に今までとはまるで違う空気を含むようになった。
ハルルの満開の花を思い出す。咲き誇る花は散る間際がもっとも美しい。
薄々感付いてはいたことだった。それでもこんなふうにはっきりと真実を打ち明けられたくはなかった。

「私、偉そうにふんぞり返ってる貴族の連中や横暴でガラの悪い騎士団の連中が大嫌いだった。嫌いだから盾突いてたの。やり方が間違ってるってのは分かってるけど、そうでもしなきゃ腹の虫が収まらないから」

眉根を寄せる男の様子などまるで気にするふうもなく女は静かに語り始める。よどみなく流れる声は今から幼い子供に絵本の読み聞かせの練習をしているかのように穏やかで耳に柔らかい。

「今でもそんな連中は大嫌い。でもね、昔とはちょっと違うの」

声音同様に柔らかな微笑を浮かべた女が再び丸い腹を愛おしげに撫でる。
男の妻もそうだ。何をしていても何かの拍子に大きく張り出した腹を撫でる。食事の支度の合間であったり、日当たりのよい窓辺で本を読んでいるときだったり、もはや意識などしていないのだろう。だがどんな場面であってもやはりその姿は絵画のようだと男は思った。

「今までは全部自分のためだった。気に入らない、嫌い、泣き寝入りしたくない、全部自分の気持ちを満足させるためだったの。でも先に逝っちゃったけどあの人と逢って、この子ができてからはそういう気持ちが少し違うのよ。自分のためじゃなくてあの人やこの子のために何かしようって思うようになったの」

男の知る限り、この女が自分のためだけに行動していたことはない。剣を携えた騎士にすら無鉄砲に食って掛かるのはいつでも自分のためではなく誰かのためだった。
それでもそれによって救われた者が礼を述べても自分がやりたいようにやっただけなのだから礼には及ばないと明るく笑う。恩着せがましいことなど一度として言ったことのない女だからこそ誰もがその身を案じているのだ。

「あんただってそうでしょう?」
「……ああ、そうだな」

澄んだ黒い瞳に見詰められて男は頷く。
男もかつてはこの下町で無鉄砲の限りを尽くしていた。だが下から吠えているだけでは変えられない、守れないものがある。
だから男は騎士になる道を選んだ。貴族が大多数を占める騎士団の中では下町出身の男の立場は決して強いものではなく、歯痒い思いを強いられることも少なくはないけれど、妻が子を宿し、新しい未来が見え始めた頃から男の中にも今までとは違う想いが生まれていた。その想いの根源はきっと女と同じものなのだろう。

「私、この子には怖い思いとかひもじい思いとかさせたくない。 税金の徴収に来た騎士を箒で追い払ったって滞納額が上乗せされるだけで何の解決にもなっていないことは分かってるわ。でもそうやっているうちに何かが変わるかもしれない。この子が生まれて大きくなる頃にはこの下町がもっと豊かになっているかもしれない。だから今私にできることならなんでもしておきたいの。幸せになってほしいから」

誰もが幸せになりたいと願っている。不幸を望む者などどこにもいない。
だが願えば願うほどに理想が遠退く現実にいつしか望むことを諦める、この下町にはそれとは知らずにそんな空気が根付いてしまっているのは哀しい事実だった。
だからこそ諦めずに願う。これから生まれてくる命が希望を忘れないようにするために。

「……でもそういうのも全部結局は自分のためだっていうことも分かってる。この子にとって本当に私が必要なときにきっと私はいないから」

女の白い頬に初めてうっすらと愁いの色が差す。手を当てた丸い腹に落とされた視線は今この場所ではなく、どこか遥か遠い場所を見ているようだった。

「この子をユーリって名付けるのも結局は私の我侭。たとえ名前だけでも側にいてあげたいんじゃなくて、私が側にいたい、離れたくないからなの。……自分勝手な母親だわ」

母が子を想うことが悪いことであるはずがない。たとえ側にいることができなくても、その想いはきっと子に伝わる。たったひとつの命をこの世に送り出すということがどれほど尊いことであるか、子を待つ親の身になって男は初めて知った。

「ファイナス」

そんな想いを伝えようと男が口を開きかけたところで女が静かに男を呼ぶ。夜空の広さと海の深さを思わせる黒い瞳が真っ直ぐに男を見詰めていた。

「この子をお願いね」
「ああ」

続く女の言葉を半ば確信していた男は間を置くことなく頷く。
どんなことがあっても守り抜いてみせよう。たとえ引き換えに自らが命を失うことになろうとも。
生きていればこそ、ずっとそう思っていた。だが命を賭してでも守りたい存在がある、その想いは何よりも強い生きる力となるのだと女の強く輝く瞳と誕生の時を今か今かと待つ新たな命に男は改めて教えられた気がした。

「嫁に続いて子供の面倒まで頼むなんて、本当にとんでもない夫婦ね」

眩い陽光の中で女は笑う。そこにあったのは生きることを諦めた者ではなく、いつの日か誰にも等しく訪れる終わりの時を受け入れた者の力強さだった。

「任せておけ。どんなことがあっても俺が守り抜いてみせる」

男の誓いを聞き届け、暖かく降り注ぐ陽を浴びながら女はもう一度柔らかく微笑んだ。

それから程なく、時をほぼ同じくして下町にふたつの新たな命が誕生する。生命力に溢れた力強い泣き声に、下町には安堵と歓喜の笑い声が満ちた。
そして世界は人々の知らない所で少しずつ歪み、軋みを上げ始める。
捻じれ、終焉へと向かう世界を、光となり影となって駆け抜けることとなるふたつの名を今はまだ誰も知る由もなく。



END