ひとすじのぬくもり
長期の任務から帝都に帰還したその足で執務室に向かい、机に山積みになった書類に軽く目を通した後、部下に促されてようやく城の自室に戻ったフレンは、一歩室内に足を踏み入れた瞬間いつもとは違う微かな空気を感じ取った。
閉じられた窓、そこに掛かるカーテンを透かして部屋の中に差し込む月光は部屋を出た時のままの状態に保たれている室内を照らし出す。
ペンとインク瓶が置かれているだけの整理された机、机と直角に置かれた椅子、ぴたりと閉じられたクローゼットの戸、扉脇に立て掛けてある武具の種類も数も変わっていない。一点の曇りもなく磨き上げられた鏡、長期に渡って部屋を空ける時にはきれいに水気を拭き取っておく水差し、愛用品を詰め込んだベッドの足元に置いた物入れ。
何一つ目立った違いは見当たらない。だが確かに何かが違うのだ。
けれどその違和感は不快感や嫌悪感を覚えるものではない。むしろその逆。仄かな温かさと、ほんの少しだけ胸の奥を疼かせる寂しさを覚え、フレンはゆっくりとベッドへと歩みを進めた。
ベッドのシーツは余計な皺など一切なくきれいに整えられている。清潔、という言葉に相応しい。
だがそこに腰を下ろしたフレンは、シーツに残された一筋の白とは異なる色を見付けて目を細めた。
たった一筋の絹の艶を放つ黒。
間違いようもない。これはいつでもどんな時でもフレンの心の一部を占める大切な親友であり想い人であるユーリ・ローウェルの長い髪だ。何度も何度も指を絡め、唇を寄せたその黒をそっと手の平で掬い上げる。
「帝都に戻っていたんだね」
応えなどないと分かっていて手の中の細い黒に語りかける。
彼がもっとも活き活きと輝く瞬間、大切なものを守るための剣を手に縦横無尽に身を翻す時、その動きに合わせてユーリの髪は空気を裂いて華麗になびく。あまりに鋭く動くものだから、いったいどんな硬い髪なのだろうかと思うほどだが、実際に触れてみるとそれは手に吸い付くように滑らかで柔らかい。剣を振るう時の彼の動きがそれだけ速いということだ。
フレンは任務、ユーリは依頼。それぞれの理由でフレンもユーリも一カ所にじっとしてはいられない。
とは言え、何もかもを自分で抱え込まなくても力を貸してくれる部下、あるいは仲間がフレンにもユーリにもいるのだから上手に時間を遣り繰りすれば逢える時間くらいは捻出できそうなものだ。それでもあちらこちらへと自ら赴いては大事を為したり厄介事に巻き込まれたり、じっとしていられないのはもうお互いの性分としか言いようがなく、その性分をかれこれ二十年以上も持ち続けているのだから今更変えることもできない。
二人ともがそんなふうだからすれ違ってばかりなのもいつものことで、心の隅では寂しいと思いつつもふとした瞬間にどこかで元気にしている彼の存在を感じる時、それはなによりの安らぎと幸福に繋がるのだった。
フレンが留守の間、きっと窓からこっそりと訪れたのだろうユーリは空っぽのこの部屋に何を思ったのだろう。
彼が何の連絡も前触れもなしにこの部屋に来るようになってからフレンは窓の鍵をかけなくなった。曲がりなりにも騎士団長の私室に忍び込もうとする輩などユーリをおいて他にはいないし、外部に漏れては困るような機密の詰まったものをこの部屋に持ち込むこともないので、仮に肝の据わった泥棒が侵入したとしても盗るほどのものなどない。
あるものといえばフレンが下町に住んでいたころから愛用している品くらいで、言ってみれば使い古されたがらくた同然。フレンにとっては宝物だが泥棒にとっては1ガルドの価値もない。
唯一同じ価値を見出してくれるのがユーリだ。だから彼の侵入には心を許している。彼になら盗られても文句は言わない。小言は言うかもしれないけれど。
神出鬼没のユーリはいつ何時現れるのか予測がつかないけれど、大抵は夜の闇に紛れてやって来る。暗い時間に来たのなら光の漏れていない窓に窓辺に辿り着くまでもなく彼はフレンの不在に気付いただろう。
それでもわざわざここまで来たのはフレンにこのたった一筋の存在の証を残すためだろうか。
もしかしたらこのベッドでひと寝入りしていたのかもしれない。よく彼は長旅で疲れた体には下宿のぺらぺらでごわごわのシーツよりもこっちのシーツの方が柔らかくて寝心地が良いと言っているから。
でもシーツはフレンが部屋を出た時のままに皺ひとつなくきれいに整えられていた。
ひと寝入りした後、自身の痕跡を消すために元通りに皺を伸ばして整えている間に気付かず髪が落ちたのか。あるいはすぐに部屋を出たけれどフレンが彼の訪れに気付くようにわざとベッドに髪を残して行ったのか。
前者であれば万事に於いて抜かりのない彼にしてはうっかりミスだが、痕跡を消そうと苦心した方を重視すればどちらにしてもユーリらしい。
猫のようにしなやかな身のこなしでするりと窓から侵入し、勝手知ったる動作で自由に室内を動き回るユーリの姿を思い描く。さらりと肩を流れる長い髪の動きまでまるで実際に目にしたかのように鮮明に描くことができた。それくらいユーリの姿はフレンの目に焼き付き、馴染んでいる。
「ユーリ、今も君はどこかで元気にしているんだね。言っておくけど無理だけはしないように、いいね」
おまえの無理をするなは聞き飽きた、と室内を行き来するユーリの残像が生意気に笑う。飽きるほどに言わせているのは君だろうとフレンも笑う。お互い様だとまたユーリが言葉を返し、今度は二人で一緒に笑った。
たった一筋の黒髪が手の平を温める。愛しさが溢れ出す。
やっぱり駄目だ。何日も経っているのか、ほんの数時間前のことなのか、どれだけ時間が経過しているのかは分からないけれど、確かにこの部屋にユーリがいたのだと知ってしまえば逢いたい気持ちが強くなる。溢れた愛しさの分だけ恋しさが募っていく。
逢いたい。きっとどこかでユーリは笑っている、そうと知っていてもやはり逢いたい。たった一筋でさえこれだけ温かい髪を手で束ね、想いのままに指先で梳き、頬を寄せ、唇を寄せればどれだけの幸福に包まれるだろう。
「……逢いたいよ、ユーリ。今君はどこにいる……?」
手の中の温もりを逃がさないよう、そっと開いた手を閉じる。だがその手の中に絹の艶を放つ一筋の黒髪は残っていなかった。
ほんの少しの間も意識を逸らしたつもりはない。それなのに何の心残りも感じさせないくらいにあっさりと姿を消してしまうところはたった一筋の髪でさえやはりユーリなのだ。
本当に小憎たらしい。憎らしくて愛おしい。
たった一筋の髪でこれほどまでにフレンの心を掻き乱す。心の奥深くに押し込めた本当の気持ちを思い知らされる。
逢いたい。思い描く残像などではなく、触れて、温もりを感じられる本当のユーリに逢いたい。
もう残り香もないけれど、きっと彼が触れただろうシーツに身を包んでとりあえず今は何もかもを忘れて眠り、明るくなって目が覚めたら時間を取って下町に行ってみよう。
明かりの点いた窓を見ても訪ねて来ないということは、もうすでにユーリは帝都を発っているのだろう。
だがフレンの部屋に気付くかどうかも分からないほんの僅かな痕跡を残して行ったユーリなら、下町の下宿や懇意にしている誰かの元に彼の足取りの手掛かりとなる何らかの情報を残しているかもしれない。
逢いに行くよ。
たった一筋の温もりさえ冷えた心と体を包み込んでくれるけれど、その強くしなやかな両腕に包み込まれる温かさとは比べようもないから。
END
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