人恋しき秋の夜話
暑過ぎることもなく寒過ぎることもない、一年を通して比較的過ごしやすい温暖な気候に恵まれているはずの帝都だが、今年の夏はうんざりするほど暑かった。その異常な暑さもようやく落ち着き、街並を縫って吹き抜ける風にも秋らしい気配が含まれ始める。
気温も下がり、空が夕暮れの色に染まり始めたかと思うとあっという間に辺りは暗くなる。これくらいのことで感傷的な気分になってどうすると思わないでもないけれど、冬から春にかけての昂揚とは違って夏から秋へと季節が移る時期に覚える寂寥感は半ば本能に近いものなので自分ではどうしようもない。すっかり暗くなってしまった下町への道を辿るフレンの足取りは自然に速いものになった。
帝都にユーリが戻っていると教えてくれたのは下町の宿屋「箒星」の看板息子テッドだ。帝都の上層に住む貴族の女の子と仲良くなった彼は最近では頻繁に貴族街にも遊びに来ており、偶然城門前で出会った任務帰りのフレンにそれを伝えてくれた。
あっという間に暗くなる空の色に勝手に湧き上がってくる物寂しさに加え、報告書作成に残務処理にと片付いていない仕事の量を思ってひと心地つく間もないと鬱々と沈みかけていた気分が一気に浮上する。
あれほど「下町を離れるわけにはいかない」と外界に目を向けようとしなかったユーリだが一度旅立てば世界の広さに味をしめたのか、今では少しもじっとしていない。いつまでも下町にいるとは限らないので残った仕事の処理もそこそこに時間を見付けて城を抜け出しては来たものの、はやくはやくと急くフレンの気持ちは薄暗い道の向こうに見慣れた建物が見えてくると共に瞬く間に鎮まった。目指す部屋の窓に明かりが点いていなかったからだ。
なんだ、もう行ってしまったのか。考えてみれば辺りがすっかり闇に包まれているからついつい遅い時間のように思っていたけれど、時刻はまだ夜には遠い夕方なのだ。早々に次の目的地に旅立っていてもおかしくはない。
久しくユーリには逢っていないので期待が大きかっただけに寂しさに拍車がかかる。でもせっかくここまで来たのだし、下町の昔馴染みに挨拶だけでもして帰ろうと、夕飯時も近付きそろそろ客が集まり始めているだろう食堂へと向かいかけたフレンは、ふと水の弾ける音に足を止めた。
かつて水道魔導器が設置されていた下町の中央広場。世界から魔導器が消えた今は井戸が掘られ、下町の住人の共同の水場になっている。その場所に何者かの影があった。
「フレン?騎士団長閣下がこんなトコで何してんだよ」
フレンの足音に気付いた影が俯けていた顔を上げる。
「……ユーリ」
そこにいたのは逢えなかったかと残念に思っていたユーリ
その人だった。
まるで昨日も顔を合わせたかのような普段と変わらないユーリの口振りに少なからず気持ちの温度差を感じるけれど、そんな淡白な反応もまたユーリらしさだ。
「君が戻ってるって聞いて……どうしたんだい?それ」
ブーツを脱ぎ、パンツの裾を捲り上げたユーリは井戸から汲み上げた水で足を洗っていたらしい。
「帰って来たんなら畑仕事手伝えって言われてハンクスじいさんとこの畑で芋掘りしてた。二日ほど前に雨が降っただろ?手も足も泥だらけになって靴ん中まで泥水が沁み込んじまったからここで洗わせてもらってた」
普段と何ら変わらないユーリの様子と声音。
夜に足を洗うと色を呼ぶ。そんな言葉を聞いたことがある。夜と呼ぶほど深い時間ではないけれど、辺りには濃い闇が満ち始めていた。
闇の中に浮かび上がる素足の青白さに、唐突にぞくりと体の芯が震えて疼く。
素足が見えると言っても覗いているのはせいぜい膝から下だけだ。確かにユーリの肌は白いし骨格も成人男性にしてはほっそりとしているけれど女性のような柔らかさや丸みはなく、色や欲を感じる要素は乏しい。
そのはずなのに、一度体の底で燻り始めた熱はどんどんその勢いを増していった。
漆黒ではなく僅かに青味の混ざる闇の中で、白い肌がぼんやりと浮かび上がり、輪郭を曖昧に暈かして闇に溶ける。肌の上に残った雫がするりと脛を伝って流れ落ちた。
秋の冷えた風が吹き抜け、遠く木々の葉鳴りが聞こえる。闇に浮かぶ素肌が仄かに光を放つような青白さに目を留めたまま離すことができない。
「フレン」
水を汲み上げる桶がコンと地に置かれる音と呼ばれた名に滞っていた時間と思考が動き出す。
我に返り慌てて戻した視界の中で、裸足のままのユーリがいい加減に手足を振って水滴を弾いていた。その両手がにょきりとフレンに向かって差し出される。
「おんぶ」
「え?」
聞き慣れない単語に間の抜けた声で尋ね返したフレンにユーリはもう一度「おんぶ」と同じ単語を繰り返した。
「とりあえず泥は落としたけど靴も一緒に洗っちまったし、濡れた靴履いて歩くのは気持ち悪いし、だからってせっかく足洗ったのに裸足で歩くのはもっと嫌だし」
だからおんぶ、などとやけに可愛らしい言葉を使いながらも、差し出した手をぷらぷらと揺らすユーリの顔は何を考えているのかよく分からない無表情で、闇に溶けそうな白い肌を洗う妖艶な姿からはかけ離れたその様子にフレンの中で燻る熱も次第に冷めていく。
「よく分からないけどすごく珍しいことっぽいから仰せのままに。何ならお姫様抱っこしようか?」
「そいつは結構。おんぶで」
「はいはい」
また伸ばされた両手がゆらゆらと揺れる。それはさっさとしろと急かしているようでもあり、溶けていく闇の向こうへ誘うようでもあった。
その手に目を留め、立ち尽くしていた場所からゆっくりと距離を詰めたフレンはユーリの前に背を向けて立ち、乗りやすいように少しだけ屈む。
「どうぞ」
間を置かずに勢いよく覆い被さる体を受け止め、濡れたブーツを拾い上げて立った瞬間。
「…………っ」
背中に触れるものに気付いて思わずフレンは動きも息も止めた。
腰の辺りに当たったはっきりとその意味を主張するもの。
「おまえ、久々に逢ったと思ったら何て目で人を見んだよ、このむっつりスケベ」
フレンが口を開くよりも先にユーリが耳の奥に吹き込むように低く囁く。おんぶを要求した時と同じぞんざいな声なのにその響きはやけに甘い。
「どうすんだよ。そんな気まったくなかったのにこのザマ…」
「……あー……えーっと……」
どうすると言われても、フレン自身ここに来るまではまったくその気なんてなかった。
そもそもユーリがこんな闇の中で無防備に足なんか洗っているから空気がおかしくなり始めたのだ。完全に責任転嫁の言い訳だが、普段と変わらないように見えたユーリもその実おかしくなっていたのなら同罪だ。
「きっちり責任取れよ」
凄んでいるのに、秘めやかな甘い響きを含んだ誘う声。両側から回された手がゆったりとその輪を縮めて首を絞め上げる。
鎮まりかけていた熱が急速にぶり返した。
「了解」
短いフレンの応えにユーリは満足そうに笑う。
夜に足を洗うと色を呼ぶという。まだ夜と呼ぶには早い時間。だが辺りはすっかり闇に包まれている。
秋の夜は長い。空が白む時間はまだまだ先だ。
END
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