ラピードも食わない
   

人間の世界には「犬も食わない」という言葉があるそうだ。馬鹿馬鹿しくて相手にしていられない、というような意味らしい。
俺は人間にラピードという名を付けられた一般的に「犬」と呼ばれる種族の獣だ。騎士団の軍用犬を務めた父母を持つため、街中で人間に飼われている同種族達と比べると少々特殊ではあるが「犬」であることに違いはない。「犬」としての誇りもある。

そんな「犬」の俺は自分で言うのも何だが雑食だ。人間があれこれと手を加えて作る食事はあまり好きではないが、食えないということもない。
人間に飼われていなければただの獣にすぎないので、火を通して調理をしていない生の肉だって食えるし、食ったからといって特段腹を壊したりもしない。もっとも、俺の飼い主は俺をまるで人間の相棒のように思ってくれているので妙なものを食わされることはないが。

そんな犬でも食わないと人間が言う「馬鹿馬鹿しいこと」というのはいったいどれほどのことなんだろう。
と、何となく思っていたら、ある日思いがけず俺はその「犬も食わない」という馬鹿馬鹿しい光景を目の当たりにすることとなった。

「だから何回同じこと言わせんだ!」

声を荒げ、バンと手の平を手近な机に叩き付けたのは俺の飼い主で相棒のユーリ・ローウェル。
帝都ザーフィアスの下町出身の男で、少々無理をするきらいがあるものの情に厚い良い男だ。俺がまだ剣の代わりに木の枝やスプーンを咥えていた頃からの付き合いになる。

「僕は僕なりに考えているんだ!」

そのユーリと真っ向から向かい合い、同じく声を荒げているのは俺のもう一人の飼い主、フレン・シーフォだ。フレンもザーフィアスの下町出身で、ユーリとは幼馴染みの関係にある。フレンとは帝都から遠く離れた街でユーリと時期を同じくして出会った。
だが同じ道を歩むかに思えたユーリとフレンの道が半ばで分かれ、俺はユーリと共に行くと決めたために、もう一人の飼い主とはいえ俺はずっとフレンの傍にいたわけではない。それでも一緒にいた時間の長短に関係なく、俺にとってはフレンもまた大切な相棒だった。

人間というのは非常に不自由な生き物で、ユーリもフレンも目指すものは同じなのに、それぞれが自分達で作ったルールに縛られて窮屈な生き方をしている。
だが犬の世界には法だの何だのという面倒なものは存在しない。だから俺は俺の心が動くままにユーリに味方し、時には諫め、フレンを頼り、彼らを見守る。それが俺の歩む道だ。
見守ると決めた。種族が違えば寿命も違う。確実に俺の方が彼らより先に逝くだろうが、剣を振るえなくなり、動けなくなるその日まで。
そう、見守ると決めたのだ。それがどんなに馬鹿馬鹿しい光景であったとしても。

「だからその考えが浅いって言ってんだよ!この分からず屋!!」
「僕が浅はかだって言うのかい!?」
「ああ、浅いね!考えに考えた結果がそれかよ!騎士団長が聞いて呆れるぜ!!」
「そうだ、騎士団長だ!僕の後ろには何千何万の部下が控えているんだ!その責任の重みが君に分かるかい!?」

そういえば、出会った頃もこの二人はよく喧嘩をしていたな。
今では精神的に成長して互いに手を出すことはなくなったけれど、当時は取っ組み合いの喧嘩も日常茶飯事だった。今となってはそんな二人も懐かしいものだ。

「はっ、今更泣き事かよ!部下の人生背負ってんのがそんなに苦痛なら騎士団長閣下なんてご立派な肩書きなんかどこぞの貴族のボンクラにくれちまえよ!泣いて喜ぶだろうよ!」

騎士団長という重責を担うだけあって、フレンは剣の腕も立てば頭も切れる。だが少々真面目が過ぎて視野が狭まることがあった。
方やユーリは縛られることを嫌う自由奔放な気質で、こうと決めたら一直線なのはフレンと似たり寄ったりだがある程度の柔軟性はある。しかも普段はあまり多くを語らないが、一度箍が外れればその饒舌さたるや驚くべきものがあった。
言い返す余地もないほどに説得力があることもあれば口八丁で煙に巻かれることもあるけれど、何をやっても敵わないというユーリが唯一フレンに勝てる手段が「口」なのだそうだ。今もフレンはユーリの勢いに押され気味で、返す言葉の出が鈍くなりつつある。

「どっかの偉い人が言ってたぜ。上に立つ者は下の者の気持ちは汲んでも顔色は窺っちゃいけねぇってな」
「…………っ」

とうとうフレンが口を噤み、ユーリから外した視線を床に落とした。引き結ばれた唇に悔しさが滲んでいる。

「フレン、おまえ騎士団長なんだろ?堂々としてろよ。おまえ自分で言ってたじゃねぇか、もし自分が傲慢な振る舞いをするなら鼻っ柱をへし折ってくれる仲間がいるって。ヨーデルがいる、エステルがいる、猫目の姉ちゃんがいる、オレだっている。何も怖いことなんてねぇだろ?」
「……ユーリ……」

ゆっくりと上げられ、再びユーリに向けられたフレンの目は立派な肩書きなど微塵も感じられない少年のように頼りなかった。

「大丈夫。まだおまえは何も間違っちゃいねぇよ」

ユーリの声音にはもう荒々しさはない。一歩二歩と歩み寄り、先ほど机に叩き付けた手をすっとフレンの金色の髪に伸ばす。

「だからオールバックにするなんて言うなよ。そんなのアレクセイくらいのおっさんになってからでいいじゃねぇか。少々の童顔なんか気にすんな。そんなことでおまえを馬鹿にするような奴こそ本物の馬鹿なんだよ」
「ユーリ……」

驚くべきことにこれが今回の喧嘩の発端だ。どうやらようやく話が纏ったらしい。
髪に触れたユーリの手を自分の手で包み込み、胸元に引き寄せてフレンは目を伏せる。

「うん、そうだね。どうかしていたよ。ほんの些細なことが気になって……」

そのまま倒れ込むようにユーリの肩口に顔を埋めたフレンは深く息を吐き出した。

「おまえきっと疲れてんだよ。ちょっと休んで行け。小一時間経ったら起こしてやるから」
「……うん。ありがとう、ユーリ……」

ユーリに支えられて寝台に横になったフレンは信頼しきった眼差しでユーリを見上げる。そんなフレンを見るユーリの眼差しもまた、ユーリが大好きな菓子のように甘ったるいことこの上ない。
しばらく見詰め合った二人は、やがてゆっくりと顔を寄せ合い、互いの唇を重ね合わせた。俺達犬にも顔を寄せ合う挨拶はあるが、人間のそれは犬のそれ以上に深い親愛の情を意味するものらしい。

室内に静けさが戻る。長きに渡る舌戦はこうして終わりを迎えたわけだが……。
なるほど。犬も食わない、ね。
確かにこればかりは俺も食えない。


END