STAY!
俺の名前はラピード。帝都の下町で相棒と共に暮らしている。
一般的に俺は「犬」と呼ばれる種族だが、俺は俺自身を犬だとは思っていない。確かに俺は犬だが、まぁあれだ、一般的な犬とは一味違うというやつだ。
相棒のユーリは人間の男。俺がまだ技のひとつも使えず剣を左右に振り回すのがせいぜいのほんの子犬だった頃からの付き合いだが、ユーリは最近にょこにょこと背が伸びて急に大人びた。だが成長の速度が緩やかな人間のこと、見た目ばかり立派になっても中身はまだまだ子供だ。
ユーリは俺と犬ではなく相棒として対等に付き合ってくれている。だがやはり子犬の頃から一緒にいるせいか、俺の世話を「してやっている」という意識はあるらしい。とんでもないことだ。俺がユーリの世話をしているとは言わないが、ユーリがとんでもなく世話が焼けるヤツであることは確かだ。下町で面倒が起こるたびに無鉄砲に飛び出していくユーリのフォローは骨が折れる。
世界を管理する帝国に対するユーリの評価は最低ランクだが、餞別と称して城からくすねてきた左手首の武醒魔導器が示す通り、ユーリは元帝国騎士団の騎士だ。一度は意気込んで入団した騎士団で理想と現実の差に絶望し、一人下町に戻って随分になる。
自分で決めて騎士団に入団し、自分で決めて騎士を辞めた。自分の進む道は自分で決める。それは後悔しないためにユーリが貫く信念だが、下町に戻ってからのユーリはいつもどこか遠くを見ているような、逆に目の前しか見ていないような複雑な表情が定着してしまっている。いや、目の前しか見えていないのではなく、目の前しか見ないようにしていると言った方が正しいかもしれない。
絶望を知った目は、より強く高い理想を見る。けれど強く願うほどに狭くなる己の世界に閉じ込められたユーリが頑なに見て見ないふりをしているものを、多分俺は知っている。
俺に会うよりもずっと前から一緒にいるユーリのもう一人の相棒。まるで正反対なのにこれ以上ないほどぴたりと噛み合う二つのパーツ。重なり合うことはなく、混ざり合うこともない。そんなシンメトリーを描くはずの二人は今別々の場所にいた。
一人は振り返らずに前に続く道をまっすぐに駆け、一人は立ち止まり振り返って来た道を駆け戻る。だがまったく逆の方向に駆けながら、結局二人の理想は同じ場所にあるのだ。いっそのこと完璧に道が分かたれていれば難しいことは何もなかったはずなのに。ユーリがその目に渇いた色を定着させることもなかった。
しかしまぁ、そうは言ってもユーリには規律、規則に縛られた騎士団気質が合わないのは傍で見ていれば一目瞭然。騎士を辞めた理由もユーリの気性を思えば何ら不思議ではない。不思議ではないのだが、いかんせん現状がよろしくないのも一目瞭然。
自分で決めて自分で行動する、その信念を貫くユーリがはやく狭い世界から飛び立てばいいのにと願いつつ、今日も俺はユーリの部屋の扉脇、ペラペラの毛布が敷かれた定位置で身体を丸めている。
空はすっかり黒く染まり、賑やかに響いていた階下の酒場の喧騒も遠い。昼間は聞こえてこない広場の水道魔導器が滔々と噴き上げる水の音が緩やかな風に乗って聞こえてくる。下町はしんと静まり返った深夜を迎えていた。
ことんとブーツの底が木の床を踏む音に腹に埋めていた顔を上げると、深夜だというのにベッドに横にもならずに窓から広場の方を眺めていたユーリがこちらに向かって歩いてくる。手に剣は持っていないがどこかに出掛けるつもりらしい。
「お前は来なくていいよ、ラピード」
俺が立ち上がろうとするより先にその動きをユーリが制した。じっと見上げる俺にユーリは苦笑して見せる。
「心配すんなって。別に何か悪さしようとしてるわけじゃないから」
そうは言われても、これまでのことを思い返すと心配するなという方が無理な話だ。声や言葉は穏やかなものの、完璧に俺を拒絶しているのがひしひしと伝わってくるのも気になった。
夜の静まった空気に木の扉が閉まる音が響く。建物脇の階段を下りたユーリの足音は通りに出ると広場の方に向かって駆け出した。
遠ざかる足音が聞こえなくなってから俺はゆっくりと毛布の上に身体を起こす。立ち上がり、身体を二度三度と左右に振ると、放し飼い禁止の帝都の中で飼い犬だと主張するために格好程度に首から下げた鎖がチャリチャリと甲高い音を立てた。
先に部屋を出たユーリはきちんと扉を閉めて行ったが、そんなことは俺には何の障害にもならない。扉の開け方は心得ているし、扉が開けられなくても反対側の壁に口を開く窓からいくらでも出入りは可能だ。高さも二階程度なら何の問題もない。
どちらにしようかと少しだけ考え、俺は開け放たれたままの窓に近付く。昼間は喧騒に紛れてほとんど気にならない床に当たった爪が鳴らすカチカチという音も夜の静けさの中では大袈裟なほどに響いた。
いつもユーリが座っている窓枠にひょいと飛び乗り、躊躇なく眼下の通りに飛び降りる。爪の音と、垂らした鎖が地面を叩く音以外にほとんど物音を立てずに降り立った俺は、一帯に漂うユーリの残り香を頼りに暗い道を歩き始めた。
ユーリは真っ直ぐに水道魔導器のある広場に向かったようだ。広場も足早に駆け抜けたらしく、豊かに湧き出す水の匂いに紛れそうな微かな残り香を追って俺も広場を横切り、市民街へと続く長い坂道に差し掛かる。人々の生活の匂いがさらに濃くなり、うっすらと漂う匂いを追うのは厄介だったが、市民街に入る手前で別の匂いと混ざり二人分になった匂いは細い路地に逸れ、光の乏しい住宅地の奥へと流れていった。
右も左も分からない子供でもあるまいし、特別何かを心配しているわけではないが、無理、無茶、無謀が当たり前のユーリのこと、やはりこんな夜中に出て行くからには何かあるのではないかと気になる。だが、混ざった匂いに俺はそれが単なる取り越し苦労だと知った。
その匂いを俺はよく知っている。ユーリ同様、鼻に馴染んだもう一人の飼い主の匂いだ。
フレン・シーフォ。ユーリとともに帝国騎士団に入団し、厳しい現実に直面しながらも腐敗した帝国を内側から正そうと今もまだ団に留まっている人間の男。俺とユーリが会うよりもずっと前から一緒にいる、正反対なのになぜかよく似ているユーリのもう一人の相棒がこのフレンだ。
一緒に騎士団の門を叩いたのに、ユーリは現実から目を背けてフレンとはまったく逆の道を選んだ。ユーリとフレンの間でどんなやりとりがあったのか俺も詳しくは知らないが、ユーリが退団した直後は背中に岩でも乗せられているのではないかと思うほどに空気が重かった。ユーリは脳天気に笑って見せていたけれど笑っているのは口の形だけで目の奥は全然笑っていなかったし、寄宿舎で生活をしながらも頻繁に下町に顔を出していたフレンはユーリの退団を機にぱたりと姿を見せなくなった。
あの時は下町全体の空気がおかしかったように思う。下町が誇る二人の若者が騎士団に入団する時には皆が熱烈な声援で送り出したが、ユーリが下町に戻ったのも下町の住民を思ってのことだと皆充分に承知していたから、それぞれのやり場のない感情が複雑に絡み合い、下町の空気を重く沈ませていた。
やがてそれも過去のこととなり、大っぴらに住民の前で言葉を交わすことはないものの、最近ではユーリとフレンの仲は少しずつ修復されているように俺には見えていた。さすがに以前と同じというわけにはいかないようだったが。
だが俺が思っていた以上に二人は仲直りをしていたのかもしれない。こうして示し合わせて会うくらいなのだから。
だがなぜこんな遅い時間なのだろう。訓練の厳しさに耐えかねて夜中に寄宿舎から逃げ出す新米騎士がちらほらいるために監視の目が厳しく、こんな夜中にフレンが城を抜け出すのは簡単なことではないはずだ。規律、規則など知ったことかと自由奔放に動き回るユーリとは違って、定められたことは守るべきとそれらを重んじるフレンが人目を忍んで抜け出すというのも珍しい。時間も時間なら場所も場所なので剣の稽古というわけでもなさそうだ。
考えながら二人の匂いを追っていると、ふと前方に流れる匂いが途切れた。足を止め、ゆっくりと辺りの匂いを探る。
二人の匂いは今は誰も使っていない小さな小屋の中へと流れていた。小屋は人が住んでいた家ではなく、農作業の道具などをしまっておく倉庫のようなものらしい。積み上げられた木箱やバケツに紛れた木の扉に錠はなく押せば開くようだ。物音や声は聞こえてこないが、中に二人がいる気配は何となく感じる。俺は周辺の匂いを嗅いでいた鼻の先を扉の表面に押し当てそっと押してみた。
「……ん……っ」
隙間から漏れる聞き慣れた声に耳が反応してぱたりと揺れる。だが何か様子がおかしい。
声は間違いなくユーリのものだが途切れ途切れで意味を持った言葉はなく呻きや唸りに近い。声音の違うもうひとつの声もフレンのものだと分かるがそれもまた然りで、その途切れがちな声もほとんどが呼吸音に紛れていた。
ここへきてようやくこの場にいては非常にまずいのではないかという思いが頭を過ぎる。荒い息遣いは剣の稽古で息が上がっている時のそれとは明らかに様子が違うし、時折聞こえるユーリの声も今までに聞いたことのない種類のものだ。
俺ももうこの状況の何たるかが分からないほどの子犬ではない。一人でまた無茶なことをするのではないかと心配で後を追ってきてしまったが、やっとユーリが「来なくていい」と俺を完全に拒絶していた意味が理解できた。子供だ子供だと思っていた俺の飼い主もいつの間にかいろんな意味で大人になっていたんだなぁ……。
「う……ぁっ……んっ」
ユーリの声が一層その甘さを増す。これはいよいよまずい。早々にこの場を立ち去らなければ。
だがこういう時に限って下らないミスをしてしまうのがお約束というヤツだ。自覚以上に動揺しているのか、普段は意識していなくても自在に操る尾の先を、俺はうっかり扉の横に積み上げられた木箱に当ててしまった。しかも運の悪いことに転がり落ちたひとつがぶつかって薄く開いていた扉を中ほどまで押し開いてしまう。
「……っ!」
先に我に返ったのはフレンの方で、息を詰め動きを止めたフレンは素早く戸口へと視線を走らせた。
音を立てしまった時点ですぐに駆け出していればそこにいたのが俺だったとは気付かれずに済んだかもしれない。けれどやはり動揺から抜け切れていなかった俺はすぐに動くこともできず、まともにフレンと目を合わせてしまった。無意識に耳が頭の丸みに沿うほどに垂れる。
「……ラ……ピード……?」
呆然としたユーリの声はフレンの下から。端から溶けていきそうなほどにぼんやりとしていた顔が俺を見るなりみるみる強張り、火を噴きそうなほどに赤く染まっていく。
「……馬鹿……!だから来なくていいって言ったのに……っ!」
悲痛と言えるような声で言うなり、ユーリは腕で真っ赤になった顔を覆い隠してそっぽを向いてしまった。
もっともだ。俺もちゃんと言うことを聞いていればよかったと激しく後悔している。
「ラピード」
俺を呼ぶもう一人の飼い主、フレンの声に垂れていた耳がぴんと立ち上がる。顔を覆ったユーリの頭をさらに腕で抱え込むようにしたフレンは、ユーリや俺とは正反対で動揺の欠片も見えない。穏やかに笑ってさえいる。フレンのこういう肝の据わり方はさすがだと思う。
「ごめん、先に宿に戻ってくれないか。ラピードがそこにいるとユーリが顔を上げてくれないからね」
もちろん言われるまでもなく帰るつもりだ。今更気を付けてももう遅いけれど、尾が周囲に触れないように注意しながら立ち上がり、帰る意思を示して身体の向きを変える。
「ありがとう。大丈夫、夜明けまでには帰るから」
とんでもない、人の言葉を話せたら「ごゆっくり」と言いたいところだが、もし話せたとしてもそんなことを言えば余計にユーリが大変なことになりそうだな。「ごゆっくり」の代わりに俺は喉の奥で「キュウ」と低く鳴いてから、暗い路地を引き返し始めた。
「……お前もうどけよ!」
「そんな……ユーリはいいかもしれないけど……」
「うるせぇ!オレはいいって何だよ!」
「痛っ!」
小屋から漏れ聞こえる二人のやりとりが次第に小さくなっていく。
俺は脇目も振らずに来た時の数倍の速さで下町の宿屋に駆け戻り、定位置の毛布の上で腹に鼻先を突っ込んで丸くなった。
* * * * *
空の端がうっすらと白み始める頃にユーリは部屋に戻ってきた。
遠くから近付く気配と足音で帰宅には気付いていたが、扉が開いてユーリが入ってきても俺は毛布の上で丸まったまま顔を上げられない。
部屋に入ってきたユーリが俺の真横で足を止める。
「……お前、今日一日飯抜きな」
落とされた声に俺は低く唸って答えた。
大反省の意を込めて、自主的に三日間は絶食しようと思う。
END
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