未だ遠き夜明け
帝都ザーフィアス。時の皇帝の住まう城を頂点に、広く裾野を拡げるテルカ・リュミレース最大の都市。
貴族街、市民街、下町の三つの地域に分けられた結界の中は帝都の名に恥じず、ひとつの街とは思えないほど広く、端から端までただ歩くだけでも相当の時間を要する。
だが最上層と最下層を本当に隔てているのは物理的な距離ではなかった。
いくら広大だとは言ってもひとつの結界の中。貴族と平民、家柄の違いが生じるのは仕方のないことだとしても、互いに手を伸ばせば届き、声を発すれば聞こえるのが普通の姿であるはずだ。
だが現実には上層に住む者は下を見ないばかりか地を這う虫でも見るように蔑み、下層に住む者は異常なまでの抑圧さえ仕方のないことだと諦め目を伏せる。
それが正しい姿であるはずがない。当たり前のように黒を白だと言う上層の在り方が誉れ高き帝都の在り方であってはならないはずだ。
離れているのは距離ではない。心が遠いのだ。同じ人でありながら、心の在処が天と地ほども遠い。
そんな歪んだ現実を正しい姿に近付けるために一歩を踏み出したのはいつのことだっただろう。まだそれほどの時は流れていない。けれど、希望に満ち溢れていたはずのそんな日は陽を浴び続け風雨に晒され続けた壁画のように、日毎に記憶の中で色を失いつつあった。
つらい記憶にしたいわけではない。立ち止まっている暇も、振り返るつもりもない。それでもどうしても胸の奥の閊えが拭えないのは、今駆ける自分が一人だからだ。
共に踏み出し、共に駆けるはずだった同じ理想を持つ友は、同じ理想を持っているからこそ絶望の中で走ることを止めた。
待っている。彼が追い付いてくるのを。自分では到底敵わない強い光を持つ彼が、時を止めたまま闇の中で燻っていることだけがもどかしくてならなかった。
しんとした静謐な空気の中に甘い花の蜜の香りが漂う城の中とは違って、市民街は様々な音と匂いに満ちている。市民街を抜け、下町へと伸びる長い坂道を下るとそれは更に濃く、深くなった。
夕飯時の家々の窓からは「これ」と献立を定めるのは難しい、だが既に食事を終えていてさえ食欲をそそる良い匂いが漂ってくる。積み上げられた木箱の上で伸びをする野良猫が突然響き渡った赤ん坊の泣き声にびくりと背中を丸めて毛を逆立てた。
久しぶりにこの道を辿りながら、フレンは次第に心と体が緩やかに解れていくのを感じていた。うっかりすると躓いてしまいそうなデコボコの石畳も、家々の窓から漏れるランプの灯りだけが頼りの薄暗い道も、どこからともなく漂う思わず眉根を寄せてしまうような何とも言えない饐えた臭いですら城の整然とした佇まいよりも居心地が良い。
ここはフレンの生まれ育った場所、友と未来を語り合った大切な場所なのだ。
細く伸びる路地の奥、一際賑やかな声が漏れ聞こえる建物が見えてくる。一階が酒場、二階が宿屋のこぢんまりとした建物はフレンにも縁の深い建物だった。
一歩、また一歩と近付くごとに懐かしさと昂揚と共に、ほんの少しの胸の重さを感じる。張り詰めた緊張の糸は緩み、早くと逸る気持ちもあるけれど、「ただいま」と笑顔で駆け込めるほど無邪気な気持ちにはなれなかった。
あの二階の一室に、今彼は住んでいる。見上げる窓に灯りはない。だが彼は確かにあの部屋にいる。それは憶測でも勘でもなく確信だった。
二階へ上がる階段は酒場の入り口を過ぎた先にある。誰にも会わないまま彼に会う決心がつかず、フレンは酒場の薄い木の扉に手を掛けた。
鈍い軋みを上げて開いた扉の隙間から、どっと談笑と料理と酒の匂いが溢れてくる。
「フレン!」
さすがと言うべきか、来客に真っ先に気付いたのは実質旦那よりもこの酒場と宿を精力的に切り盛りするおかみだった。
酔っ払いの大声に負けないおかみの一言に酒場が静まる。一瞬の後にはさらに上乗せされた喧騒が狭い店内を比喩ではなく揺らした。
「フレン、下町はあんたの噂で持ちきりだよ!出世したんだって?」
おかみからだけではなく、誰が何を言っているのか聞き取れないほどの熱烈な歓迎ぶりにフレンは思わず苦笑した。
「出世って言っても平の隊員から小隊長になっただけだよ」
世界各地に散る騎士団員の総数は膨大な数になる。その中で最も小さな集団である小隊も数知れず、何か事があればまず駆り出されるのは小隊だ。小隊だけで事が足りればそれで良し、収拾の見込みが立たなければ増員され、現場の指揮官が代わる。
増減の幅も広く、不要と見なされればさほどの存続期間もなく隊が消滅して小隊長が平の隊員に逆戻りするのもよくあることだった。隊長と言えば聞こえは良いが、要するに使い勝手の良い便利屋というわけだ。
「それでも充分立派だよ」
酒をなみなみと注いだ大きな器を差し出し、おかみは「よく頑張ったね」とまるで母親のような顔で笑う。悪酔い覚悟の安い酒だが下町で酒は貴重だ。酒場にいる者達が我も我もとそれを惜し気もなく振舞おうとしてくれる。騎士団長直々に昇格祝いの言葉を掛けられた時にも身の内から震えるような感動を覚えたが、おかみや下町の見知った面々からの賛辞はそれとはまったく種類の違う温かさがあった。
だがフレンがここに来た本当の理由は別にある。差し出された器を言葉には出さずにやんわりと断りフレンが僅かな仕種で酒場の上階を示すと、その仕種の意味をすぐに理解したおかみは表現の難しい表情を見せた。
「さぁ、今日はフレンの出世祝いだ。じゃんじゃん飲んでちょうだい。私の奢り……と言いたいところだけど、うちも余裕はないからお代はしっかり頂くよ」
おかみの頓狂な言葉に酒場が沸き、祝いだ何だと主役扱いをするわりにあっさりと自らへの集中の途切れた酒場からフレンは引き止められることもなくそっと抜け出す。薄い木の扉一枚を隔てただけだというのに、酒場の外はしんと静まり空気も冷えていた。
酒場の入り口を離れ、建物の横手に回る。外壁に寄せて設えられた階段は一段上がるごとに闇が濃さを増し、登り切った先の廊下は月明かりも射さない夜の闇に暗く口を開ける洞窟の入り口のように見えた。
階段を踏みしめる音を消さず、気配も隠さずに階段を登る。灯りを消した部屋の中にいるはずの彼はとうの昔にフレンの訪問に気付いているはずだ。今更隠す必要はない。
薄暗い廊下の、一番手前の部屋。堅く閉ざされた木の扉に緩く握った手の甲を二度、三度と軽く打ち付ける。
「開いてるぜ」
ややあって返されたくぐもった声にフレンは無意識に小さく震え、唇を引き結んだ。
お世辞にも広いとはいえない部屋の中、通りに向かって開け放たれた窓から結界魔導器の放つ青白い光と月明かりがぼんやりと射し込んでいる。よく窓枠に座ってどこへともなく視線を投げ掛ける住人の姿は今その場所にはない。
窓の内側、光が射しきらず手前に来るにつれて闇の深くなるベッドの上で、半ば闇と同化した影が衣擦れと共にうごめいた。
「よう、フレン。出世だってな、おめでとさん。下町は朝から鬼の首取ったみたいな騒ぎだぜ」
いつもなら皮肉な物言いとは裏腹に独特の艶のある声が今は少し掠れて聞こえる。寝起きのためなのか、それとも手元の瓶の中身を飲み干したからなのか。
「……ありがとう、ユーリ」
闇よりもなお濃い闇色の長い髪が僅かな灯りの中で静かに波打ち、いつものように前を大きくはだけた服は帯が解かれ、壁に凭れ掛かる体を緩く覆う。ブーツはベッドの下に無造作に脱ぎ捨てられ、黒い衣のせいか奇妙に青白く見える素足が闇の中にぼんやりと浮かび上がっていた。
「お祭り騒ぎも悪くないが、オレは一人で静かに祝杯だ。悪ぃな、とっておきはついさっき飲み干しちまった」
来ると分かっていたら一口くらい残しておいたのにと声は出さず肩だけ揺らしてユーリは笑い、中身のない手の中の瓶を軽く揺する。
「……そう、それは残念だ」
一歩を踏み出すフレンの靴音がやけに大きく狭い部屋に響いた。ゆっくりと歩み寄るフレンから目を離さないユーリは身じろぎすらしない。
「じゃあユーリからは別のお祝いを貰うよ」
片膝だけベッドに乗り上げ、フレンはユーリに手を伸ばす。指先が頬に触れる寸前、魔法が解けたように唐突に身を引こうとしたユーリの顎を捉えて上向かせ、もはや逃げられないと分かれば途端に再び魔法に掛かったように動きを止めたユーリの唇をフレンは無言で自らの唇を押し当てて塞いだ。
見た目の硬質な印象に反した柔らかな唇は拒むでもなく、そうかと言って受け入れるわけでもなく閉じられたまま動かない。無味の唇。
重なる角度を変えながらフレンが緩く吸い上げるように唇をうごめかせても息さえ抜くことなく、ユーリは全ての動きを止め、されるままにフレンの行為を受け止める。解され一層柔らかくなった唇の合わせを舌先でなぞっても結局何の応えも得られないまま、フレンはゆっくりと倒した上体を起こした。
闇を吸い込んで黒く艶めくユーリの瞳が目の前のフレンを映してゆるりと笑みに撓る。
「出世祝いがこんなんでいいのかよ、安上がりなヤツ」
「……そうかな」
ユーリが笑えば笑うほど、フレンは自分の中で何かが脆く崩れていくのを感じていた。崩れ落ちたものは深く胸の奥に降り積もる。これ以上長居をすれば自分が何を言うか、何をするか分からない。
「水で酔えるユーリほどじゃないよ」
絡む視線を断ち切り、顔を背け、背を向けてフレンは薄暗い部屋の扉に手を掛ける。呼び止めるユーリの声はなかった。
乾いた音を立てて閉じられた木の扉は遠くフレンとユーリを引き離す。けれど二人を本当に隔てているのは物理的な距離ではなかった。心が遠い。その隔たりは天と地よりも遠かった。
誰よりも近くにいると思っている。手を伸ばせば触れられる、言葉を発すれば耳に届く。たとえ立つ場所は遠く離れていても心は共にある、呼吸をするように互いが互いの思いを受け取れる。そう信じる気持ちは今でも、そしてこれからもきっと変わらないと言い切れるのに。
それなのに、今フレンは本当に触れたい場所には触れられず、本当に届けたい言葉を届けられずにいる。それはもどかしいだとか歯痒いなどという言葉で言い表せるものではなかった。
胸の奥に降り積もったものに火が点き、目の前が暗くなるほどに体の内側で熱風が巻き起こる。だが頭の芯は氷海のように冷え切っていた。吐く息は喉を焦がすほどに熱いのに、指先はどんどん冷えていく。
「…………っ!」
振り上げ打ち付けた拳が宿屋の壁面で鈍い音を立てる。痛みは感じない。痛むのは打ち付けた手などではなかった。
待っている。彼が追い付いてくるのを。彼がいつか必ず光を取り戻すと信じている。
フレンの激情など知ったことかとでも言いたげに酒場の賑やかな談笑が静かな下町の夜を漂っていた。彼らの酒の肴はすでにフレンの出世祝いなどではないはずだ。そう思えば急に力が抜けて、今までの感情の乱れが呆気なく散っていく。
振り返らず、立ち止まることもなくフレンは夜に沈む下町の暗い道を進む。
月明かりを受ける酒場の上階の開け放たれた窓の傍に、かの姿はあるだろうか。どこへともなく向けられる漆黒の瞳が確かな光と熱を取り戻すのはいつの日のことだろう。
下町はフレンにとっても大切な場所だ。任務でどれだけ遠くに赴いても「帰りたい」と心から思える、無条件に自分という存在を温かく迎え入れてくれる故郷。失いたくはない。
けれどそれを守るという使命と、守らなければと雁字搦めに縛られる使命感はまるで違う。何がしたいのか、何をすべきなのか、本当はユーリにも分かっているはずだ。いつでも飛び立てるはずの大きく力強い翼をユーリは自ら堅く折りたたんでしまっている。
ユーリが思うほど下町に住む者達は弱くはない。懸命に今を生きながら、したたかに明日を見据えている。フレンとユーリを育んだ場所に住む者達なのだから。
「ユーリ、僕は先に行くよ。だから早く追い付いて来い」
ユーリがフレンの隣に立つその日まで、決して己は振り返ってはいけない。フレンが立ち止まって待つ必要などないのだとユーリには知って欲しい。
今は遠く離れているフレンとユーリの心の距離も、いつか必ずその隔たりがなくなる日がくる。それはきっとそれほど遠い日のことではない。
待っている。たとえ立つ場所は遠く離れていても、それぞれの進むべき道を心を共に駆け抜けていける日を。
END
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