初恋
「お兄ちゃん!」
薬や食材の補充のために立ち寄った街の大通り。
露店商の呼び込みや行き交う人々の雑踏に紛れて響いた高い声がまさか自身に向けられたものだとは思いもせず、ユーリはまるで明後日の方を向いていた。声に気付いたカロルがユーリを呼び止める。
「ユーリ、知り合い?」
「あ?オレ?」
カロルが見遣る先、色とりどりの野菜や果物を並べた商店の前に一人の少女が立っていた。確かに少女はユーリを真っ直ぐに見ている。歳の頃は十歳になるかならないかといったところか。下町の顔馴染みであるテッドと同じくらいだろうか。
野菜や果物を詰めた袋を両手に抱え、人混みをかき分け駆けてくる少女にユーリは内心で焦った。何か引っ掛かるものはある。だが記憶を探ろうとすればするほど思考が空回って思い出せない。
思い出せないまま、とうとう少女はユーリの目の前まで来てしまった。仲間達は何事かと興味深げに遠巻きに見守っている。
「久しぶりだね、お兄ちゃん」
少女は明らかにユーリを見知っている様子だがユーリの方は一向に思い出せない。にこにこと無邪気に見上げる眼差しに罪悪感が募る。
「あー……えっと……」
「思い出せない?」
二つに分けて結った淡い栗色の髪を揺らして小首を傾げた少女は、野菜が転がり落ちないように用心しつつ離した片手を袋に差し入れて中を探る。ややあって目当ての物を探り当て、袋から抜き出された少女の手に掴まれてのは野菜でも果物でもなく年季の入ったぬいぐるみだった。
綻びても丁寧に縫い合わせ、大事に大事に扱っているのだろうそれは物語に登場するチーグルという聖獣をデザインしたものだ。あのぬいぐるみに見覚えがある、そう思った瞬間、ユーリの記憶と目の前の少女が繋がった。
「あ……!ああ、思い出した。えっと、確か……エマ!」
少女が嬉しそうに大きく頷く。シンプルな名前で良かったとユーリは内心で胸を撫で下ろした。エステリーゼやジュディスのような名前だったらすんなりとは思い出せなかったかもしれない。
ユーリの騎士団員としての最初で最後の任地となった辺境の街シゾンタニア、あの街で母親と暮らしていた少女だ。街のすぐ側に出没した魔物に街の住民が襲われた時、馬車に一人取り残されていたこの少女を助けたことがある。
「ごめんな、すっかりお姉さんっぽくなってるからすぐには思い出せなかったよ。今はこの街にママと住んでんのか?」
腰を落として少女と目線の高さを合わせ、小さな頭にぽんと手の平を乗せると、近くなったユーリの顔に少し照れくさそうに顎を引いたエマは上目にユーリを見上げて首を横に振った。
「親戚のおばさんが住んでるの。ママはおばさんの仕事のお手伝い中でわたしはお遣いを頼まれたの」
「そっか、偉いな」
両手に抱えた袋には野菜や果物がぎっしりと詰まっている。この少女の細い腕には決して軽い量ではないだろう。カロル相手なら一人前に前頭部に盛り上げた髪を引っ掻き回す勢いで撫でてやるところだが少女相手ではそうもいかない。きれいに結った髪を崩さないようにやんわりと頭を撫でるとエマはくすぐったそうに首を竦め、それでも嬉しそうに笑った。
その目がふとユーリが手にした剣に流れる。
「……お兄ちゃんはまだ危ない所に行ったりしてるの?」
嬉しそうに笑っていた少女の目に翳りが差す。ユーリがまだ騎士団員だった頃、シゾンタニアの周囲に迫る異常の原因と思しき川上の遺跡に本国からの支援を待たず無謀とも言える手勢で出発した朝も、この少女はこうしてユーリに不安そうな目を向けた。
まったく、耳聡いと言うか目聡いと言うか。ユーリを見詰めるエマの眼差しは幼くはあるものの、その奥から滲むある種の慈愛は老若問わず女性に特有のもので、顔を合わせれば二言目には「無茶ばかりするんじゃないよ」と小言を繰り出す下町の酒場兼宿屋「箒星」のおかみが見せるそれと同じ類のものだった。
「大丈夫、兄ちゃんあの頃よりうんと強くなってるし、それに仲間もたくさんいるから」
あの時と同じように、もう一度少女の頭に乗せた手を軽く弾ませてユーリは笑う。
あの時は対する相手が何者なのかも分かっていなかった。ユーリ自身が何を為すべきなのか、何を信じるべきなのかもまだ分かってはいなかった。
だが今は違う。目指す場所ははっきりとユーリの目に映っていた。思い描く未来がある。そしてその場所に共に立つ大切な仲間達の存在もしっかりと胸に刻まれている。
ほんの僅かなものかもしれないけれど、あの頃より確実に前に進んでいる。そう言い切ることに恥じらいはなかった。
少女の幼くも深い愛情に満ちた瞳がじっとユーリを見詰めている。
やがて安堵したようにふと目元を緩めて笑い返した少女は、再び手にした袋に片手を差し入れ中を探り始めた。
「これ、あげる」
抜き出した手に掴んだ真っ赤に熟れたリンゴをユーリに向けて差し出す。
反射的に受け取ってしまってから、そういえばシゾンタニアでもこんなふうに何かを「あげる」と差し出されたことを思い出した。あの時は女の子らしい可愛い色の傘だったか。真っ直ぐに差していても肩がはみ出してしまうほどの、小さな子供用の。
「いいのか?お遣いなんだろ?」
「いいの」
弾けるような笑顔を見せ、エマはしっかりと荷物を抱え直してユーリから半歩ほど身を引く。行かなければという合図なのだろう。それこそお遣いの途中なのだ、いつまでも道草を食ってはいられない。
「お兄ちゃん、また来てね」
「ああ」
「絶対よ」
背を向け往来に駆け出したかと思えば振り返り、荷物から離した手を危なっかしく振りながら通りを遠ざかって行くエマにユーリも手を振る。
「気を付けろよ、ちゃんと前見てないと転んで野菜ぶち撒けちまうぞ」
手を振る小さな少女の姿は瞬く間に人混みに飲まれて見えなくなった。
シゾンタニアでの日々を忘れていたわけではないけれど、突如記憶から現実となって飛び出してきた少女に直前までのことがやけに遠く感じられて、まるで夢から覚めたような不思議な心地を味わいながらユーリは手の中のリンゴに目を落とす。
「……ねぇ、今の子って……」
「私達のことはまるで眼中になかったわね」
感慨に耽るユーリの後ろでカロル少年がそれこそ夢でも見ていたかのような口調でぽつりと呟き、その隣で見事にくびれた腰の後ろで手を組んだクリティア族の美女ジュディスが意味ありげに妖艶に微笑んだ。
「あっちでもこっちでも罪な男ねぇ、青年」
「ホンットに子供と動物にはモテモテね。……理解できないわ」
へらへらと笑う派手な格好の中年オヤジと、本当に理解できないと言わんばかりに利発そうな眉を顰める天才魔導士少女。たった今エマに仲間だと紹介したばかりの面々それぞれの微妙な反応にユーリこそ眉を寄せる。だが迷わず背を預けられる、頼りになる大切な仲間達なのだ、これでも。
「……ユーリみたいな人ってなかなかいないよね。これから大変だね、あの子……」
「初恋ってのは往々にして実らないから美しいもんなのよ、少年」
「そうね、だからこそきっとあの子にとって大切な宝物になるわ。これからあの子がどんな恋をしても、ね」
「そうそう、何も本当のことなんて知らなくてもいいのよ。理想は理想、現実で崩しちゃうことなんてないわ」
前三人はともかく、最後の魔導士少女リタの言い分には何となく引っ掛かるものを感じつつ、ユーリは手の中でリンゴを遊ばせながら往来に背を向け仲間を振り返った。
「好き勝手なこと言ってんじゃねぇよ。おら、行くぞ」
返事も待たずにさっさと一人歩き出す。後ろから「つれない」だの「照れているのか」だのとからかいの声が追い掛けてきたが聞こえないフリを決め込んだ。
ユーリに向けられるエマの瞳の奥にあるものが恋心なのかどうか、本当のところは彼女自身にしか分からない。真相を問うつもりも問いたい気持ちもない。
ただ、思い出すたびに苦いものが込み上げていたシゾンタニアでの日々が時を経るにつれてユーリの中でその色合いを変えていったように、幼い少女にとっておそらく初めて本物の死の恐怖を味わっただろうあの街での記憶が彼女の中で恐ろしいものではなく、もっと別の温かなものになっていればいいと思う。
ポンと手の平で弾ませ齧り付いたリンゴは瑞々しく甘酸っぱかった。
END
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