PERIOD
     

紫掛かった夜色の空には満点の星が広がっている。眠りの中にある世界の美しい光景。
ただひとつ、その空に漂う不気味な異形の姿さえなければ。
生まれ変わる世界の象徴として誕生した新しい街の外れ、草地に腰を下ろし夜空を見上げていたユーリは街の方から近付いてくる草を踏む音に顔を下ろした。さくさくと草を踏み分ける音に混ざる金属の擦れ合う音に肩を竦める。

「もう寝ろってやっとエステルを帰したと思ったら今度はお前かよ」
「見回りをしていないと落ち着かないのはもう性分みたいだ、諦めてくれ」
「面倒くせぇ性格。ま、ご苦労さん」

金属混じりの足音はユーリの横で止まり、つい先程まで淡い桃色の髪の少女が座っていた場所に金の髪の幼馴染みが腰を下ろした。エステルに場所を譲り少し離れた場所に移動していたラピードが戻ってくる。

「眠れないのかい?」

今までユーリがそうしていたように夜空を見上げ、幼馴染み、フレンが静かに問い掛けてくる。

「んー、まぁな。いよいよ明日かって思うと……って、これ確かさっきエステルにも言ったんだよな」

お前までオレを鉄で出来てるようなものの言い方はするなよと笑って、ユーリは再び満点の星の中に異形が漂う夜空を見上げた。
すぐ近くの草叢で姿の見えない小さな虫が鳴いている。街の背後にそびえる山々からは細く空気が漏れ出すような低く密やかなフクロウの声。破滅を導く災厄が目の前に迫っていても世界には多くの命が息衝いている。こんなに深い夜の中でも生命の息吹はそこかしこに感じられた。

この地に逃れてきた帝都の暮らしに慣れた者は夜の暗さに驚いていた。当たり前の夜の暗さすら忘れさせる魔導器の恩恵に浸りきった文明も間もなく終わりを迎える。夜には夜の闇が広がり、結界によって約束された安全も失われる。力を増幅させる道具がなければあまりにも弱い人間が、どうにか魔物に対抗する力を得る術となる武醒魔導器も使えなくなる。
立てた膝に乗せた左手の手首で赤く輝くユーリの武醒魔導器。夜空にかざしたそれを、フレンも言葉なく静かに見上げた。

「前にアスピオに寄ったとき、これを見た魔導士が相当使い込んでるなって感心してたんだ。武醒魔導器がこんな色になるのって珍しいんだってさ」

騎士団を脱退して帝都の下町に戻り、頼まれてもいないのに用心棒のようなことをして暇さえあれば、否、暇に飽かして騎士団との小競り合いに首を突っ込んでいた頃にはただ持っているだけでさほど武醒魔導器の有用性を実感していたわけではなかった。ただ忘れてはならない過去を胸に刻むための、託された想いが形を成したものだと強く感じていた。ともすると見失いそうになる自分の為すべきことを思い出すための道標でもあった。
その小さな結晶に秘められた本当の力の強大さを知ったのは帝都を飛び出してからだ。これがなければユーリは決してここまで辿り着くことはできなかっただろう。それでもまるで身体の一部のようにずっとそこにあるから、使い込むことで変化していることになど気付きさえしていなかった。

「……お下がり、だしな」

そこに込められた力はユーリだけのものではない。少なくとも二人分。
ユーリがかざした手を下ろすのに合わせ、静かにそれを見上げていた顔を下ろしたフレンの細波のように揺らぐ気配がユーリの肌に触れ、ユーリの心をも細かく震わせた。
そしてユーリとフレンの意識は遠く時を経た、生涯忘れることのない遥かな場所へと立ち戻る。

ユーリの持つ武醒魔導器は元騎士とはいえ騎士団の在籍期間も短く、退団の後は一市民でしかなかったユーリが持てるような物ではない。ユーリと長い旅を共にするようになる前から、それはある人物の元で彼を支え、守ってきた。
ユーリはもとより、フレンにさえ容赦のない拳骨を落としていた彼の人は、なぜか正面に向かい合った姿よりも広く大きな背中の後姿の方が印象に強い。それはきっとユーリ自身がまだ彼の前に堂々と立って見せられるほどの成長を実感できていないからだ。

「武醒魔導器って武器がなくてもスキルを修得することがあるんだってさ」

帝都を飛び出し旅を始めた頃は「スキル」という特殊な力を籠められた武器を使い続けることで修得できる能力の存在さえ知らなかった。これで元騎士だというのだから経歴が聞いて呆れる。ユーリ自身がそう思うのだから「昔は騎士団にいた」と言うたびに奇妙な反応を返した今の仲間達のことはとやかく言えない。
隣のフレンは相槌を打つでもなくユーリの言葉に耳を傾けている。

「スキルってのは元々その人が潜在的に持ってる能力で、武器はそれを引き出すキーに過ぎないんだと。シシリーって妙なヤツと変な縁があったんだけど、そいつから聞いたっておっさんが言ってた」
「へえ、そうなんだ」
「なんだ、勉強熱心なお前も知らなかったのかよ」

てっきり「何を今更」と無知を笑われるかと思いきや、意外なフレンの答えにユーリの方が軽く驚く。だが考えてみれば、あれでいて結構博識なところもあるレイヴンもシシリーからこの話を聞くまでは詳しくは知らなかったことらしいので、人はまだまだ誰しもが魔導器に関して無知ということなのかもしれない。魔導器を専門に研究しているリタも武醒魔導器は特殊だと言っていた。

「でもまぁ、言われてみりゃ確かに同じ武器使ってもオレは修得できんのにお前はできないスキルもあればその逆もあるもんな。身に付くスキルもそれぞれらしいモンばっかだし。……なんだよ、お前のあのディボーションってヤツ、まさか部下全員のダメージ肩代わりするつもりじゃねぇだろうな」
「はは、それは大変だね」

まるで他人事のように呑気に笑うフレンにユーリは肩を竦める。
近くにいる者のダメージを肩代わりする、確かに騎士の鑑であるフレンが潜在的に持っていそうな力ではあるけれど、今やフレンの後ろには多くの部下がいるのだ。共に戦場に立てば一人二人の肩代わりだけでは済まない。いくらフレンが頑丈でも限界というものがあるだろう。もっとも、ほいほい肩代わりするうちに自分が真っ先に倒れるほどフレンは鈍くもなければ馬鹿でもないとは思うけれど。

「ったく、笑いごとじゃねえぞ」
「身に付いてしまったものはしょうがないじゃないか」

戦いを繰り返すうちに知らず身に付いたものが多すぎて、どんな能力が自分のものになったのか、正直なところ全てを正確に把握、理解しているわけではない。ただユーリが身に付けたのは自分勝手なものが多くて、フレンが身に付けたのは仲間を守るための力と仲間を守るために自身が強くあるための力が多かったような気がする。
スキルは元々それを修得した者が潜在的に持っている力。なるほど、確かにそうなのかもしれない。

「……隊長はどんなスキルを持ってたんだろうな……」
「どうだろう、なんだかあまり想像がつかないな」

ユーリの問いにフレンは薄い笑みを見せて首を傾げる。
誰のことかと問い返しはしない。ユーリの隊長は後にも先にもたった一人しかいないからだ。

ユーリが騎士団に在籍していた僅かな期間、共に帝都から遠く離れた街に赴任することになったユーリとフレンに武醒魔導器は支給されなかった。それも当然だ、現代の技術では生産不可能で数の限られた貴重な武醒魔導器は入団したばかりのヒヨっ子には過ぎた代物。だからこそ憧れは募り、その能力を見せてくれと先輩騎士にねだったこともある。
だが思い返してみても、ユーリにとって最初で最後となった隊長が今ユーリの左手首で赤く輝く魔導器を介して技らしい技を放ったのを見た記憶がない。もっとも、あの時は高濃度のエアルの影響を受けるため迂闊に魔導器を使用できない状況ではあったのだけれど。

長い間、魔導器は人々の生活を支えてきた。だがここ数年の僅かな期間での魔導器技術の進歩は目を瞠るものがある。ユーリの騎士団在籍時と退団後を比べてもその違いは明らかだ。
帝国による管理という名の独占、古代遺跡の発掘、研究、禁止されているはずの新開発、戦争で失われたはずの新技術の現存。長い旅の中で、無関係に見えていた過去と現在に散らばるいくつもの点がひとつ、またひとつと繋がっていくのを感じていた。

「なぁ、フレン」
「……ん?」
「あの時もやっぱり裏で糸を引いていたのはアレクセイだったのかな」

黙って闇の向こうに目を向けていたフレンはやがてゆっくりと首を横に振る。

「……分からないよ、今となってはもう……」

次々と繋がって行く点と点の先にいた男はもういない。ユーリにとっての彼との決着も、フレンにとっての彼との決着も既についている。もうこの世にいない者のことを今更蒸し返すつもりはない。 彼の目的が何であれ、明日ユーリ達が立ち向かおうとしている災厄に対抗するための最後の望みに彼の研究成果が役立っていることも事実だ。だからといって彼の所業は許せるものではないけれど。

「……嫁さんと子供と一緒に写った隊長の写真、今にして思えば隊長が身に着けていた鎧の色は親衛隊のものだった」

思い返してみれば色々と苦く思い出されることがある。
片田舎に配備された小さな部隊の軍師に過ぎない男がなぜあれほどの規模の魔導器研究を行うことができたのか。彼が口にした「実験場」という言葉と、長い旅の間で目にしたアレクセイの数々の実験の跡。辺境とはいえ多くの住民の命がかかっているにもかかわらず、援軍要請と本国の式典を天秤に掛けた結果、市民を守るのが本分であるはずの騎士団の最高司令官が下した援軍要請の却下という判断の真意。

数々の点と点が結びついて繋がった線の先はあの場所にも伸びるのか。何も知らず、正義とは何なのかも見出せず、何もできない自分に苛立ち、無力を痛感したあの時、あの場所にも。
今ここにいるユーリの旅は、あの場所から知らぬ間に始まっていたのか。
泥棒に盗まれた下町の水道魔導器の魔核を取り戻せばそれで終わるはずの旅だった。それがいつの間にか国の中枢、世界の中枢へと深く関わるものになり、果ては世界を救うための旅になることも、あの時から定められたものだったのか。

「終わりにしよう。明日で、全部」

結末の見えない未来に対する恐れも、味方を鼓舞し奮い立たせる力強さもなく、淡々としたフレンの言葉は静かに夜の空へと吸い込まれる。

「ああ」

ユーリもまた淡々と応える。
何もかも終わらせよう。新しく始めるために。

「だからあと少し、あと少しだけ頼むな、隊長」

長い長い文明の中、師から託され、最後にユーリを守った武醒魔導器は明日その役目を終える。
夜空に掲げたユーリの左の手首で、終わりの時を間近に控えた小さな赤い結晶が鮮やかな光を放った。



END