風の報せ


強い風が吹き付ける夜だった。
仮にも皇帝の居城、下町の民家ではあるまいし安普請のはずはないと分かっていても、ガタガタと忙しなく窓枠をがたつかせる風は今にも枠ごと窓を攫って行ってしまうのではないかと部屋の主、フレンを少々不安な気持ちにさせた。
こんな夜を怖いと思うような繊細な心は持ち合わせていないけれど、どこからか入り込む微かな隙間風が机の上のランプの火を揺らし、薄暗い部屋の隅にわだかまった影がゆらりゆらりと波打つ様には落ち着かない気分にさせられる。何か没頭できるものがあればいいのだが、こういう日に限って持ち帰りの仕事もすでに片付いていた。

いっそのこと寝てしまおうか。深夜と呼ぶにはまだまだ早い時間だが、床に就くには早すぎる時間というわけでもない。いつまた何日も眠れない怒涛の日々に突入するか分からない。寝られる時に寝溜めしておくに限る。そうだ、そうしよう。
そう決めて、机の上に揃えて置いた書類にしっかりと蓋をしたインクのボトルを乗せる。もし窓から不意の侵入者があって、この風に煽られて書類がバラバラに飛び散ったら厄介だ。
ランプの火を消し、座り続けで固まった肩を揉み解しながらフレンが椅子から腰を浮かせた時だった。
カタン、と明らかに風が鳴らしたものとは違う音が背後から響く。中途半端に腰を上げた姿勢で振り返ったフレンは目を見開いた。

「ユーリ……」

目に入ったのは見慣れた長く艶やかな黒い髪、同じ色の瞳。どこか気の抜けた様子で佇んでいるのは、物心つく前から帝都ザーフィアスの下町で一緒に育った幼馴染み、ユーリ・ローウェルだった。
書類に重しを乗せておいて良かった。そう思ってから、フレンは窓が開いた気配などあっただろうかと内心で首を捻る。ユーリに限って正面の扉から入ってくるとは思えない。第一じっと見ていたわけではないもののフレンはずっと扉の方に顔を向けていた。扉から入ってきたのならなおさらそれに気付くはずだ。だが扉が開いた気配もなかった。
たまたま風の向きが変わっていたのだろう。あまり深く考えることはせず、フレンはユーリに笑顔を見せた。ユーリに会えたことは素直に嬉しい。こんな天候の悪い日の夜中ではきっと彼には会えないだろうと思っていたから。

「びっくりした。人が悪いな、黙って背後に立つなんて」

ユーリは騎士団長の立場からすれば喉から手が出るほどに欲しい手練だ。今でも剣の手合わせをすればフレンの勝率の方が高いけれど、だんだんと落とす回数が増えてきた。気を抜けばあっという間に追い付かれ、追い越されてしまうだろう。

「おかえり、ギルドの仕事だったのかい?」

一度は騎士団の一員になったものの、権力を持つ者だけが甘い汁を吸い、力を持たない者は一方的に虐げられるばかりの現実に絶望して、法や規則に支配されない自分の道を歩み始めたユーリは、今や徐々に名が知れ渡りつつある新興ギルドの一員だ。ギルド名を「凛々の明星」という。
ひとりはギルドのために、ギルドはひとりのために。仲間を大切にすることを第一の信条とするギルドは、腐敗した現実に深く傷付いていたユーリの心を癒し、彼が持つ本来の輝きが一層に増す大切な場所になっていた。

「ユーリ?」

いつもはギルドとして某かの依頼を受けて片付けてきたのならそのように、守秘義務に反するから言えないのであればそのように返ってくるはずの応えがない。訝しく思ったフレンは顔を合わせてから同じ姿勢で立ち尽くしたままのユーリを見る。
胸元の開いた黒い服。腰には佩かず、柄飾りの布を左手に巻いて直接持った剣。少し疲れているようだがいつもと変わりない姿のユーリだ。
まさか何か軽々しく人には言えないような依頼を受けたのかと一瞬嫌なものがフレンの背を伝ったが、もし本当にそうだとしたらユーリは絶対にそれをフレンに悟らせまいと上手に嘘をつこうとするだろう。フレンに不審を抱かせたが最後、猛烈な質問攻めに合うと分かっているからだ。

「ユーリ?」
「……あ……ああ、うん……」

二度目の呼び声でようやくユーリはぼんやりと応え、表情に乏しい顔をフレンに向ける。

「疲れているみたいだね。熱いお茶でも淹れようか、この間美味しい茶葉を貰ったんだ。座って待ってて」

腑に落ちないものはあったけれど、疲れているのならなおさらあれこれと畳み掛けるのは気の毒だ。
強靭な精神力の持ち主ではあるけれど、ユーリとてフレンと同い年の生身の青年。少しくらい様子がおかしくなることくらいあって当たり前だ。

「すごい風だね。気温も下がったし大変だっただろう?ここまで壁をよじ登ってくるのは」

茶器の用意をしながら若干の小言と皮肉を混ぜて冗談めかして言う。背後のユーリの気配はやはり希薄だ。

「……ああ、まぁ……」

フレンが声を掛けたことすら忘れた頃になってユーリの応えが返ってくる。明らかに様子がおかしいが、茶でも飲んで身体が温まって落ち着けば普段のユーリに戻るだろう。
しかし、そう思って二人分のカップを持って戻ったフレンは、気に掛けまいと追い払った奇妙な感覚を否応もなく手元に引き戻さなければならなかった。

「ユーリ……」

剣を置くこともなく、およそ寛ぐには程遠い出で立ちのまま、ユーリはまるで初めて訪れた客のようにさも居心地が悪そうに視線を彷徨わせている。か細い悲鳴のような音を立てて吹き抜ける風が窓枠をガタガタと揺らす。ざわざわと唸り、狂ったように枝を振り回す木の影が薄いカーテンの向こうに見え、突風に巻き上げられた飛礫が窓に当たって硬質な音を立てた。
ユーリは何も言わずにただ立ち尽くしている。

「ユーリ、君はここに居てもいいのかい?」

カップから立ち昇る湯気の向こうでユーリがゆっくりと顔を上げる。黒い瞳に壁に掛けたランプの光が映り込み、ゆらゆらと瞬く。

「……ああ、そうか。そうだな」

やがて、ぼんやりとフレンを捉えていたユーリの目の中に、確かに一筋の光が射した。
もう大丈夫だ。何が大丈夫なのかは分からないままフレンがそう思った時、廊下を駆ける足音がフレンの部屋の前で止まり、扉が向こう側からコンコンと忙しなく叩かれ始めた。

「フレン様、お休み中失礼します」

くぐもって聞こえるのは副官のソディアの声だ。その声音にはいつもの余裕がない。

「ああ、入って構わないよ」

扉に向かって応え、再び室内に顔を戻す。フレンの目がユーリから離れたのはほんの一瞬。
けれど、視線を戻した窓際にはもうユーリの姿はなかった。

「夜分遅くに申し訳ありません」

部屋に入り、一礼したソディアの顔は強張って青褪めていた。

「フレン様、先程ハルル駐留の部隊から火急の報せが入りました」
「ユーリ、だね」

ソディアが言葉を続けるよりも先にフレンが言った一言に、ソディアは両目を丸く見開く。

「は……はい。帝国、ギルド、アスピオの魔導士が共同で発掘調査を進めていたタルカロン遺跡に護衛および案内役として彼らのギルドも参加していたのですが、現場で大規模な崩落が発生、崩落は予測されていたので大半は避難した後だったのですが逃げ遅れた者を助けに戻ったユーリ殿が……」

またかとフレンは溜息を零す。いつだって彼は自分のためではなく誰かのために傷付くのだ。

「すぐに瓦礫の下から救出はされたものの意識不明の重体。彼の仲間によってただちにハルルのエステリーゼ様の元に搬送され、治癒術は施されたとのことなのですが……」

そこでソディアは言葉を切り、苦しげに視線を落とした。握り締めた手が震えている。

「少し前に……心臓が止まったと……」

言葉にするのを恐れるようにソディアの声は低く掠れていた。
少し前、か。まったく、一体何をしているのだ、あの幼馴染みは。震える細い肩に手を添え、フレンは悲痛な面持ちのソディアに微笑んで見せる。

「心配いらないよ、ユーリならさっき追い返したから」
「……は?」

上官の言葉に、生真面目な女騎士は訳が分からないと大きく顔に書いて見開いた目を瞬いた。

「ハルルだね。すぐに向かおう。今夜は冷えるから上着を取ってくるよ」
「あ……あの、フレン様……?」

ユーリは大丈夫だ。希望的観測なんかではない。フレンには絶対の確信があった。
外に一歩出るなり、防寒用のマントが大きく翻った。あまりの突風に思わずぎゅっと目を閉じる。

「随分のんびり屋さんなのね。歩いてハルルまで行くつもり?」

目を開く前に上空から風に紛れて女性の声が降り注いだ。 腕で風を避けて顔を上げると、巨大な竜の引く宙に浮いた船から馴染みのある女性がフレンを見下ろしていた。強い風に長い触手が真横になびいている。
なるほど、ハルルからの少し前の報せがなぜ帝都にこんなにも早く届いたのかと不思議に思っていたけれど、彼女の力添えがあったのなら頷ける。

「乗って」

引き上げられ、フレンが甲板に降り立つと同時にバウルという名の巨大な竜は強風をものともせずにふわりと空に浮かび上がった。

「話は聞いたんでしょう?」

やれやれと息をつく普段と変わりない様子のフレンに、いつも飄々として内心を悟らせないクリティア族の女性、ジュディスは珍しく苛々とした棘のある声で鋭く言う。

「聞いたよ」
「呆れたわ、心配ではないの?」
「心配だよ、またユーリが無茶しやしないかって」

落ち着き払ったフレンの声にジュディスは目に見えて不愉快そうに眉間を寄せ、ふいと背を向けてしまった。どうやらかの美女を本格的に怒らせてしまったらしい。
だがあっという間に辿り着いた花の街ハルルの奇妙に落ち着いた様子にジュディスは怪訝そうに首を傾げた。最悪の事態に悲しみに沈んでいるという様子とは少し違う。

「あ!ジュディスが帰ってきた!フレンも一緒だよ!」

ユーリが運び込まれた長の家の玄関から特徴的な髪形の少年が飛び出してくる。ギルド凛々の明星の若き首領、カロル・カペルだ。

「ジュディス!フレン!聞いて!ユーリが生き返ったんだよ!!」

少年の言葉に声にこそ出さないものの、ジュディスの身体が歓喜に震えたのが分かった。丸く開いた目を向けたジュディスにフレンは笑んで頷き、カロルを追って長の家に入る。

「まったく!何度心配させたら気が済むのよ、このバカは!!」

まず聞こえたのは天井を突き破るかのような少女の高い声。アスピオの天才魔導士、リタ・モルディオだ。

「やっぱり俺様の見込んだ男は一味違うわね、ホントにしぶとい御仁だわ。でもさすがに今回ばっかはおっさんもヒヤヒヤしたわねー、まったくこの青年と一緒だといくつ心臓があっても足りないわよ」

カラカラと笑いながらあっけらかんと言うのは、フレンにとっては帝国騎士団隊長主席シュバーン・オルトレインとしての馴染みの方が深いギルドユニオンの幹部レイヴン。
言っていることは皆バラバラだが、その表情は一様に安堵に笑んで嬉しそうだった。ユーリがどれだけ皆に深く愛されているのかが分かる。

「フレン」

部屋の奥、ユーリの横たわるベッドの脇から鮮やかな新緑の色の瞳をフレンに向けるのは、今や皇帝を補佐する副帝となったエステリーゼだ。柔らかな笑みを浮かべてはいるものの、さすがに疲れの色は隠せていない。
彼女の持つ特殊な能力を厭うある種族からは「世界の毒」とも呼ばれたエステリーゼだが、魔導器を介さずに治癒術を使うことのできる彼女にフレン達は何度助けられたことだろう。

「今はよく眠っています。良かった……本当に」
「ええ」

頬は青白く血の気に乏しいものの、一時拍動が途絶えて死の世界に旅立ちかけたことを思えばユーリは穏やかに眠っている。呼吸に合わせ、胸がゆっくりと上下しているのが見えた。

「さっき、ほんの一瞬だけユーリが目を覚ましたんです」

治癒術を施すために前に差し出されていた手を膝の上に引き戻し、エステリーゼは小さく笑う。

「フレン、茶は?って言って、またすぐに眠っちゃいました」
「はぁ!?なにそれ!まさかそのために生き返ったんじゃないでしょうね!」

すぐさま飛んできたまたひとつ音域を上げたリタの声を聞きながら、やはり身体が冷えていたんだなとフレンは思う。

「それじゃあお湯を沸かし直さないと。さっき淹れたのはきっともう冷めてしまったでしょうから」

長閑なフレンの言葉にリタは更に高い声を上げ、他の面々も何のことだと目を丸くする。
笑って眠っているユーリの枕元に腰を下ろしたフレンの隣で、ラピードが長い尾を一振りして「ワフン」と甘えた声を出した。

夜明けが近付き、風は少しずつ収まってきたようだ。


END