ある女騎士の決意


私が騎士団に入団したのは一年と少し前のこと。「女の子なのに」と両親はすごく心配して反対したし、家族のことが心配なのは私も同じだったけれど、父さんと母さんのことは兄妹に任せて半ば強引に私は家を出た。
別に「騎士になって人々の生活を守りたい!」とか、そんな立派な理由があったわけじゃない。騎士団に入ろうと思ったのはお給料の額がそこら辺の仕事なんか比べ物にならないくらい格段に良かったから。別に野心家なわけではないけれど、あわよくば大出世の可能性有りっていうのも理由のひとつかな。

私は皇帝のお膝元、帝都ザーフィアスの生まれだ。ザーフィアスは皇帝のお住まいのお城を中心に緩い稜線を描いて裾野を広げる山のような造りの大きな街で、高い場所に行くほど住民の地位や家柄も高くなる。
居住区は大まかに三つに分けられていて、私の家は真ん中の層のいちばん下。その日一日を生き延びるのに精一杯というほど困窮しているわけではなかったけれど、父さんと母さんが一日中汗水垂らして働いても余った分を蓄えに回せるほどの余裕のある生活でもなかった。

父さんと母さんの手伝いをしながら、私はいつもきれいなお城を見上げて歯が擦り減るくらいにギリギリ奥歯を噛んでいた。時々お遣いで貴族街に行くことがあったけど、豪華なドレスを着てきれいにお化粧をした私と同じくらいの年頃の女の子が真っ白な手袋を嵌めた手で口元を覆ってころころと幸せそうに笑っているのを見た時には本当に歯が欠けるかと思った。ちらりと私を見て一瞬汚いものでも見るような目をしたその女の顔が忘れられない。その後の優越感に満ちた目で笑った顔も。
フン、あんたなんかちっとも美人じゃないわよ!高い金出して精一杯飾り立ててその程度?あんたに比べりゃ薄汚れた地味な服を着た私の方よっぽど可愛いわ!

多分、この時私は騎士団に入ろうと決めたんだと思う。何か他の仕事よりも手っ取り早くお金が稼げる職はないかといつも考えていて、思いついた選択肢の中には随分前から騎士団も加わってはいたのだ。それだけ危険だということだし、多少貧しくても普通に暮らしていれば私にとってはまだまだ遠いはずの「死」というものがとても身近なものになるということも分かっていたけれど、全部承知の上だった。
しかも騎士になって手柄を立てることができれば、あわよくばあの小憎たらしい貴族のお嬢様の鼻を明かしてやれるかもしれない。私は同い年の子と比べると身体は小さい方だけど、その分身は軽いし、運動神経も良い。男の子相手に対等のケンカをすることだってよくあった。
どれだけ上を羨んだって仕方ない。どんなに頑張ったって私は貴族にはなれないのだ。だったらほんの僅かだって可能性があるなら自力で昇り詰める道を突っ走ってやろうじゃないの。貧民街育ちの根性を舐めんじゃないわよ。

帝都には市民街と呼ばれる私達の居住区よりもさらに下層の居住区がある。そこは下町と呼ばれる最も貧しい居住区だ。
貴族街のきれいな身なりの人達は下町の人達をまるで家畜を見るような目で見て、とても育ちが良いとは思えない言葉で口汚く罵る。市民街の住民ですら「奴らよりは恵まれている」と蔑んでいる節があるけれど、私はそんなふうには思わなかった。思わなかったと言うより思えなかった。
だって市民街と下町、明確に線が引かれて区切られているわけではないんだもの。
それに私の家は半分下町に足を突っ込んでいるようなものだったし、大人はどうだか知らないけれど仲の良い子供同士には家柄だとか何だとかそんなの関係ない。下町の子供達とは毎日一緒に遊んでいたし、「ホホホ」なんてお上品を装って本当に楽しいと思ってんのかどうかも分かんない白々しい笑い方をする上流階級の子より、馬鹿みたいに大口開けて笑い合える下町の子達と一緒に遊ぶ方が絶対に楽しいに決まっている。

「臭いが移る」だの「病気がうつる」だの言うお金を持ってるだけの奴らの方がよっぽど心が貧しいわ。お金なんてその金額分の価値しかないのよ。お金はないけれど、私はお金なんかじゃ絶対に買えないものの価値を知っている。
でもやっぱりお金も大事なのよね。根性があってもお金がなければどうにもならないことも世の中にはある。つまらないことだけど事実だ。
だから私は騎士団の門を叩いた。ここまでが、私が騎士になった理由。


* * * * *


入団試験を何とか乗り越え無事に騎士に採用されたは良いものの、物事は自分の思うように滑らかには進んでいかないものだ。帝都の騎士団本部での半年ほどの新人訓練の後、私は帝都から遠く離れた地方への赴任が決まった。
お城の権力の構図なんて騎士になるまで知らなかったけれど、昔に比べて騎士団の平民採用が推されているとは言え、やはり騎士団も皇帝の補佐役である評議会も貴族の力は圧倒的だった。採用はしたものの、平民で、しかも大した能力もない女の私なんかはお偉方にとってはきっと頭数にも入っていないんだわ。

訓練で真っ先に音を上げていた私よりひ弱そうな男が団長直属の第一大隊の配属だったから「なんで?」って思ってたんだけど、よくよく聞いてみればあいつのお父さんも騎士団のエリートで、遠い遠い昔には皇帝家との繋がりもあった貴族らしい。
フン、そうやって埃被った過去の栄光に縋っていればいいわ。今に見てらっしゃい、私だって絶対にそのうちチャンスを掴み取ってやるんだから。
でも私が配属されたのは、かろうじて結界魔導器は設置されているものの住民人口はたかが知れている小さな村。隊長も下級貴族の遠縁っていう役に立つんだか立たないんだか分からない微妙な家柄のいかにもうだつの上がらないおっさんって感じで、鎧を脱いだらその辺の農夫のおじさんと普通に間違う。
かくいう私も剣を持って警備をするより鍬を持って畑を耕している時間の方が長いくらいで、剣を振り回すよりは慣れた作業だけどあの厳しい訓練の日々は何だったんだと思うような長閑な任地だった。畑を耕して作物を売り歩くのに比べたら破格のお給料を貰えてはいたけれど、手柄を立てて出世するなんて夢のまた夢。私を見て嘲笑ったお嬢様の鼻を明かすなんて夢の夢のそのまた夢だった。

でも私が村人と仲良くなって剣を置いて呑気に鍬を振っている間に、世界は後戻りができないくらいにとても危うい方向へ転がり落ちつつあったということを、災厄をこの目にするまで私は知らなかった。
私達の隊は何しろ帝都から離れた場所に駐留しているので情報が流れてくるのが異様に遅い。ただでも伝達が遅いのに加え、帝都の混乱によって私達のところに「騎士団長アレクセイ謀反」の報がようやく届いたのは、急遽団長代行に任命された何とかっていうまだ若い隊長が率いる仮の本隊が大罪人アレクセイを討ち果たしたという続報の入る直前の事だった。
けれど問題がそれで解決したわけではない。むしろその後の方が世界にとっての一大事だった。
空に穴が空いたのだ。信じられる?空に穴!私はこの目で見てもなかなか現実を理解できなかった。遠い遠い空に、遠い場所のはずなのに、はっきりと青い空に不気味に開いた黒い穴が見て取れたのだ。

元々忘れられたような弱小部隊だったけれど、そんな私達の元にすら縋るような本営からの火急の伝令が飛び込んだのは空に穴が空いて少し経ってからのことだった。
帝都のあるイリキア大陸から見ると南に位置するヒピオニア大陸の海岸に、前団長を討った現団長代行が護衛を務める難民を乗せた船が漂着したのだという。市民を守りながら移動を続けるも魔物の群れに囲まれ、交戦中ではあるものの事態は深刻、至急援軍を要するという内容だった。
ようやく騎士らしいことができるのかなと思いつつ、速やかに出立の準備を整え現場に向かう間、あんなに厳しい訓練を耐え抜いたのに私は剣で民衆を守ることよりただただ彼らが無事でありますようにと神頼みに専念していた。だって、そんな魔物の群れなんて見たこともない。有事だからと特別に支給された武醒魔導器だっていっそ笑えるくらいのポンコツであってないようなものなんだもの。それでも支給してもらえるだけマシなのかもしれないけれど。

だが、結局四苦八苦しながら私達の隊が現場に辿り着いた時にはすでに魔物が一掃された後だった。
聞いたところによると、なんだかよく分からないけれど「もうこれまでか」と誰もが諦めかけた時、駆け付けた援軍がなんだかよく分からない強大な力で次から次へと押し寄せる魔物の群れを一瞬で消滅させたのだという。話を聞いてもちっとも状況が分からなかったけれど、とんでもない魔導士でもいたのかしら。
とにかく、死者重軽傷合わせて甚大な被害は出たけれど全滅という最悪の事態は免れ、現場となった何もない平原には今急ピッチで砦が築かれている。とりあえず魔物の群れは一掃されたものの、魔物が一切襲ってこなくなったわけではない。たくさんの戦う術を持たない人達が取り残されているのに、ここには結界魔導器もない。ほとんど戦力にはならなかったけれど、資材の運搬や怪我人の世話など私達の隊もしなければならないことはたくさんあった。

何もなかった場所にある程度の街らしい体裁が整い始めたある日、部隊を問わず私達騎士は街の奥に造られた騎士団本部前の広場に集められた。私達の隊はこの場所に駆け付けた隊の中でも抜きん出てショボかったので、ずらりと居並ぶ他の隊員の後ろの方にちんまりと固まり、一体何が始まるのかと様子を伺う。

「全隊、整列!前に倣え!」

その時、凛とした女の人の号令が鋭く響き渡った。皆からものの見事に一拍遅れて私も慌てて姿勢を正す。
何?何事?こんな改まったの入団式の時とか赴任式みたいな畏まった場でしかしたことないわよ?
相変わらず私は背が低いので前の方がよく見えない。ぴょんぴょん飛び跳ねたいのをぐっと堪え、気を付けの姿勢のまま心持ち顎を上げて前方を見た私は、居並ぶ隊員達の横手から颯爽と現れた人の姿に息を呑んだ。他人を見て息を呑んだのは生まれて初めてだった。
降り注ぐ太陽の光を眩しく照り返す金の髪のその人は、私が身に付けている鎧なんて千着揃えたって買えないような高貴で眩い白銀の鎧を身に纏っていた。遠目にも長身なのが分かる。こんなに離れていてもすごくきれいな青い瞳が見えた。ああいうのを「目の覚めるような鮮やかな色」って言うんだろう。

あの人がきっと新しい騎士団長なんだわ。ええと、まだ正式に任命されていないから騎士団長代行だったかしら。でもそんな肩書なんてどうでもいい。前団長のアレクセイ様が討たれた後、団長代行に任命されたのはとても若い人だっていうのを聞いたのはなんとなく覚えている。しまった、ちゃんと名前を聞いておけば良かった。
近くで会ったことはないけど、アレクセイ様もおっさんだったけどそれなりに素敵な方だったと思う。でも今私達の前にいる新しい団長は素敵なんて言葉では足りないくらいだった。なんて言うのかしら、王子様?そう、まさにおとぎ話からそのまま抜け出してきた王子様みたいにキラキラとした人だった。
あんなに素敵な人の下だったら私きっともっと頑張ってたと思う。もともとショボいうちの隊長が一層ショボく思えた。私の前に立っている隊長が時々ゆらゆらと身体を横に揺らすのでその度に団長が隊長の後頭部で隠れる。ちょっと、もっとしゃんと立ちなさいよ。

居並ぶ騎士団員達を前にした団長はこれまでの団員達の働きを労い、これからもますます励むようにと激励し、騎士団の今後の方針などを話していたようだったけれど、私は大事な話半分に完全に団長に見惚れ、声に聞き惚れていた。姿も良ければ声も良い。厳しいのに甘い、風貌によく合う柔らかな声だった。
団長と同じくこちらを向き団長の脇に控えているのは、私よりはいくらか年上だろうけれどまだ若い女性の騎士だった。さっき号令を掛けたのも彼女なのだろう。女騎士でも団長の補佐なんて重要な役に就けるものなんだ。きっとあの人はすごく努力したんだわ。何の特殊能力もない平民の女なんて物の数にも数えられてないって私は赴任先の片田舎で腐っていたのに。
その後、解散を言い渡され他の隊員達が次々と持ち場に戻っていっても、私はしばらくその場にぼんやり立ち尽くしていた。
すごい。一目惚れって本当にあるものなのね。


* * * * *


騎士団長代行に任命された金色の髪のあの人は、フレン・シーフォ様というそうだ。しかも聞いてびっくりした。あんなに見事な王子様ルックスなのに、彼は帝都の下町出身なのだという。
それを知った瞬間、私は心の中で喝采を上げた。私の功績なんて爪の先ほどもないけれど、昔私を見て嘲笑った貴族のお嬢様のつんと取り澄ました鼻っ柱を抓って捻じ曲げてやったくらいの爽快感を味わっていた。
ほら、やっぱり生まれなんか関係ないんだわ。たまたま恵まれた家系に生まれただけのヤツに嘲笑われる謂れなんてないのよ。

でもそうやって憎々しげな雰囲気しか覚えていない貴族街の女の子に「ざまぁみろ」と内心で舌を出しているうちに、私はなんだか自分が帝都の下層街でお城を見上げてギリギリ奥歯を鳴らしていた頃よりもつまらないヤツになったように思えてきた。どんなに貧しい家系に生まれていたって努力すればフレン様みたいに輝けるんだわ。私、「騎士になる!」って家を出てから何かそれらしいこと一度でもしたことあったっけ?
私が騎士になろうと決意した理由って改めて考えてみれば「手柄を立ててのし上がって金持ちお嬢様をギャフンと言わせてやるわ!」っていうすごい僻み根性の塊だった。しかも本当にそれを実現するために頑張るならまだしも、私は厳しい目がないのを良いことにのんびり畑を耕していただけ。金額分の価値しかないお金を貰ってそれで満足してたんだわ。

救護室の手伝いをしながら私が一人で盛り上がったり落ち込んだりしている時だった。
木の扉が小さく軋む音を聞いて、また怪我人が出たのかと戸口に目を遣った私は手に持っていた包帯を思わず取り落としてしまった。はらはらと解けながら転がった一巻きがこつんと白銀の具足に当たって止まる。高い位置にあった金色が一旦下がって、また高い位置に上がって、白銀の手甲を嵌めた手が私の前に伸びてきたところで、私はようやく我に返った。

「も……申し訳ありません!」

言葉遣いのなっていない私が咄嗟によくこの言葉が出たなと思う。普段だったらめちゃくちゃ気を張って「すみません」だろうに。うちの隊長相手だったら「すんませーん」で済ませているところだ。

「構わないよ」

慌てて差し出した私の手に床から拾い上げた包帯を乗せたのは、騎士団本部前で解散してからこっち、何度も何度も脳裏に描いては素敵素敵と連呼していたフレン様その人だった。
実際に見たフレン様はすごく遠目だったし、記憶した姿は素敵と舞い上がるあまり若干の妄想修正が入っているんじゃないかと思っていたけど、間近で見る実物のフレン様は私の貧困な想像力なんて及ばないくらいに美しい。男の人に「美しい」っていう言葉が相応しいのかどうか分からないけど、本当にびっくりするくらいにきれいな人だった。

「作業中に裏山で崩落があったと聞いた。怪我をした人達の様子はどうだい?」
「え……えっと、あの……っ」

完全に浮足立ちひっくり返った声を出す私に、「あいつじゃ無理だ」と部屋の奥から様子を見ていたうちの隊長があたふたとすっ飛んで来る。ショボいショボいと散々言いまくっていたけれど、さすが腐っても隊長、簡潔に、正確に状況を報告してくれた。

「そうか、なるべく早く治癒術師を派遣しよう。他にも薬や備品、足りないものがあればすぐに報告してくれ」
「はっ」

胸の前に平行に腕を上げ敬礼をする隊長が、横でぽーっとしている私の爪先を見たこともない素早い動きでコツンと蹴り飛ばす。そこでようやく気付いて私も慌てて敬礼の姿勢を取った。

「まだ何も揃っていないこの街での救護活動は大変だろうが頼んだよ」

ペーペーの団員にあるまじき無礼な振る舞いを咎めるどころか淡く微笑みさえしてフレン様は私達に労いの言葉を掛けて下さった。
感激だわ。もう本当に本当に、なんて素敵な方なんだろう。ああ、行ってしまう。私みたいなのがこんなに団長の側にいられるチャンスなんてもう二度とないかもしれない。

「あ……あの……!」

気が付いたら私は戸口に向かおうとしているフレン様の背中に追い縋るように声を掛けていた。隣で隊長がぎょっと目を剥く。
何を言うつもりもなかった。ただもう少し近くで姿を見ていたかっただけなのに、フレン様は足を止めて振り返り、嫌な顔ひとつ見せずに真っ直ぐに私の目を見返してくれる。同じく足を止めて振り返った副官の女性騎士ソディア様のつり上がった目が怖い。

「何か?」
「あの……あの……」

フレン様が拾って手渡してくれた包帯を手の中に握り締め、必死で私は言葉を探す。何を言おう、何を言ったらいいんだろう。

「えっと……あの、わ……私も下層の生まれなんです、帝都の……」

言ってから私は自分の言葉に頭の中で後悔の悲鳴を上げた。だから何だっての!?しかも「私も」なんて、何自分とフレン様を同列みたいに並べてんのよ!
フレン様は虚を突かれたように目を丸くしている。そりゃそうよね、きっと「え?だから何?」とか思ってらっしゃるんだわ。あまりにもこの微妙な空気が居たたまれなくて、私が頭を下げて謝罪しようとした時だった。
フレン様がふわりと微笑んだ。言葉はない。けれど私にははっきりとフレン様の声が聞こえたような気がした。「そう、頑張ってね」って。多分ものすごく自分に都合の良い妄想なんだと思う。恋する女の子の想像力とか発想力とか妄想力ってとてつもなくパワフルなのよ。
でもそれで良かった。だって、きっとフレン様本人にあの笑顔の本当の意味を聞けることなんてきっとこの先ないもの。私が私だけに向けられた激励の微笑みって思い込んでさえいれば思い出すたびに何度だって幸せになれる。

きっとお忙しいのだろう。フレン様もソディア様もその後すぐに救護室を出て行った。
本部前で解散を言い渡された時と同じようにぼんやりと立ち尽くしていた私はちょっとだけ隊長に叱られた。素直に謝ったらものすごくびっくりされた。何でそこでびっくりすんのよ。悪かったわね、いつも言うこと聞かない部下で。
その後も怪我をした作業員のおじさんや腰を痛めたおばあちゃんが救護室を訪れたので、説教もそこそこに私達は仕事に戻ることになった。水を汲みに行ったり足りない包帯の代わりにシーツを細く切り裂いたり泣いてる子供を宥めたり、いつもの何倍も精力的に私は働いた。
そうしていないと余計なことを考えて私の方が泣いてしまいそうだった。
知らなかったわ。恋心って切ないものなのね。叶わない恋って分かっていたらなおさら。


* * * * *


いっぱい働いてへとへとなはずなのに全然眠れない。かろうじて男女は分けられているものの、支給された毛布一枚で各々床に雑魚寝の仮眠室を抜け出した私は当てもなく表へ出た。
夜の屋外は暗い。当たり前のことだけど、私の赴任した小さな村でさえ結界魔導器の発する光が当たる場所は夜中でもぼんやり明るかった。 
その代わり、薄く雲を被っていてさえこんなにも明るく辺りを照らすものだったのかと思うくらいに月は明るい。携帯用の明かりの類は持っていなかったけれど夜道を歩くのに不安や緊張はなかった。
フクロウの声や水路の水音を聞きながらぶらぶらと歩く。元々娯楽なんてない村に住んでいたけれど、当然ここにもそんなものはない。騎士もギルドも平民も、それぞれに疲労が溜まっていてみんなきっとぐっすり眠っているのだろう。辺りはしんと静まり返っている。

まだ眠くはないけれど私も帰ろう。そう思って来た道を引き返そうとした時だった。
キンと甲高い音が微かに街の奥の方から聞こえた。訓練の時によく耳にする音、剣と剣が触れ合う音だ。一度気付くとその音は立て続けに響いているのが分かる。
なんだろう。まさか賊!?いやでもまだ建設途中のこの街には盗みたくなるほど価値のある物なんてないんじゃない?どうしよう、誰か呼んだ方がいいのかな。呼んだ方がいいよね。とか色々考えつつ、半分以上野次馬根性で私は音のする方へと息を殺して近付いていた。体が小さいっていうのはこういう時に便利だ。月は明るいけどその分あちこちに濃い影ができているから身を隠す場所はたくさんある。
音はもうすぐそこまで迫っている。目の前の茂みから覗けばきっと見えるはずだ。音を立てないよう、そーっとそーっと首を伸ばして茂みの向こうを覗う。

「…………っ!!」

思わず奇声を上げそうになった私は慌てて自分で自分の口を押さえた。こんな喜劇みたいな動作を実際に咄嗟にすることってあるのね。
見遣った闇の中で月の光を吸い込んだみたいな輝く金色の髪が上へ下へ激しく翻っていた。フレン様だ。
見た瞬間はフレン様が一人で剣の稽古をしているのかと思ったけれど、一人なら剣を打ち鳴らす音がするはずがない。当然の事ながらフレン様の他にも別の誰かがもう一人いて、互いに剣を構えているのだった。

誰だろう。見たことのない顔だ。少なくとも騎士団員ではないと思う。隊服を着ていないし、初め女かと思ったくらいに長い髪を無造作に垂らした姿はとても規則規律とうるさい騎士団の人間には見えない。
長い髪は黒いし、着ているものも上から下まで黒尽くめなのでもしや暗殺者なんじゃないのかと物騒な考えも浮かんだけれど、それにしては二人の剣には殺気が籠もっていないからやっぱり稽古なんだろう。
殺気はないけど迫力はある。ただの手合わせなんだろうけど、それにしては互いにまったく容赦がない。剣が打ち合わされるたびに比喩ではなく本当に火花が散っていた。

魔導士の素養がないからとりあえずひたすら剣の稽古をするくらいしか騎士団でやっていく道のない私みたいなのが偉そうに言えることではないけれど、フレン様も誰だか分かんない黒いのも相当な手練だ。純粋な力比べだとフレン様が上、でも速さと予測の出来ないトリッキーな動きでは黒いのが圧倒的。
剣と剣がぶつかる音が冷えて固くなった夜の空気に少しずつヒビを入れていくみたいに高く響く。初めはフレン様だけを目で追って「頑張れ、負けるな」と応援していた私は、いつの間にか黒いのが上下左右、空間をフルに使って身軽に剣を翻す姿にもじっと見入っていた。
そうして見ていると、まるでフレン様と黒いのが二人で剣舞を舞っているように見えてくる。
互いにしっかり目を見合って、動きを読み、呼吸を読む。打ち合っては間合いを取り、また距離を縮めては華麗に打ち合う。なかなか勝負がつかないんじゃなくて美しい舞いを終わらせたくないんじゃないか、そんなふうに思えるくらいだった。

だがふとした瞬間にあっさりと決着はついた。
私には全然分からなかったけれど、一瞬の隙があったのだろう。キンと一際高い音を響かせ、フレン様の剣が黒い方の剣を弾き飛ばした。目にも止まらない速さで突き出された剣の切っ先がぴたりと黒いのの喉元に向けられて止まる。
獲物を失った両手をだらりと脇に下げ動きを止めていた黒いのは、急に緊張の糸が切れたように「だぁ」とか「うがぁ」みたいな声を上げながら後ろに仰向けに引っくり返った。

「まぁたオレの負けかよ。おっかしーなぁ、こないだ勝ったの、アレまぐれだったのか?」
「いや、あと少し長引いていたらきっと僕の方が剣を弾かれていたよ」

剣を鞘に収め、フレン様も黒いのの隣に腰を下ろす。
今「僕」って言った?フレン様って普段は自分のことを「僕」っていうのね。昼間隊員達の前で話していた時は自分も騎士団員もひっくるめて「我々は」とか「我らは」って言ってたから気にしていなかった。でもやっぱりフレン様は「オレ」っていうより「僕」って感じかな。

「……ったく、お前のそういうトコむかつくんだよなぁ。何が「僕の方が」だよ、涼しい顔しやがって」

はぁ!?あの黒いヤツ、フレン様をお前呼ばわり!?なにアレ、誰アレ!!馴れ馴れしい!ガラ悪い!!

「そこで何をしている」

ちょっと見惚れていたさっきまでのことなんかすっかり頭から消し去って黒いのをギリギリと睨んでいた私は、背後からの押し殺した声に心臓が口から飛び出しそうなくらい驚いた。跳ね上がった心臓が喉を塞いで悲鳴を上げなかったのが不幸中の幸いだ。
おそるおそる振り返って、私はなぜだかちょっとほっとした。本当なら説教どころじゃないってビビるところなんだけど。

「……お前は」

薄闇の中に立っていたのはソディア様だった。ソディア様も私を覚えていたらしい。そりゃそうか、フレン様に向かって唐突に「私も貧民です」宣言をしたのを間近で見ていたんだもの。
私の顔を確認したソディア様は剣の柄に添えていた手を下ろす。

「こんな夜中に何をしている」
「あ……あの……その……」

もう一度、さっきと比べると若干声音は和らいでいるものの、やっぱり迫力のある声で問われ、私はどう答えたものかと言葉を濁し、落ち着きなく視線を彷徨わせた。
けれどそれ以上きつく問い詰める気配もなく、私が覗き込んでいた茂みの向こうに視線を遣ったソディア様は隣り合っているフレン様と黒いのに気付いたらしい。ちょっと呆れた顔で再度私を見る。

「す……すみません。でも別に追っかけて来たとかそんなんじゃなくて、眠れなくてぶらぶら散歩してたら剣を打ち合う音が聞こえてきて……」
「賊の類だったらどうするつもりだったんだ」
「それならすぐに誰かを呼んでます」

フレン様だったから出歯亀に勤しんでいたわけで、あまりにも馬鹿正直すぎる私の弁明にソディア様は完全に毒気を抜かれたように肩の力を抜き、キリキリと吊り上がった目尻を和ませた。

「もう宿舎に戻って休め。明日がつらくなるぞ」
「……はい」

潮時だ、最後にもう一度だけと未練がましくちらりと横目にフレン様を見遣った私は、次の瞬間にはソディア様の目の前だってことを忘れて顔ごと真横に向けてフレン様と黒いのをまじまじと見た。
仰向けに転がっていた黒いのが上半身を起こす。その髪にゴミだか草だかが付いていたのだろう、フレン様が黒いのの長い髪にそっと手を伸ばした。付いていたものを取る、捨てる、手を引く、普通はそれで終わるはずだ。だが一向にフレン様の手は黒いのの髪から離れない。そればかりか、長い髪を撫でるように上から下へと滑らせた手の指先を今度は顔の横側から髪の下に差し込み、耳に掛けるようにさらりと持ち上げた。
なんじゃありゃあぁ!!ああいうことって、普通あれくらいの歳の男の人同士がする!?あれって普通なの!?
目を離せないでいると、黒いのがちらりと上目にフレン様を見上げ、ふわりと目尻を下げて笑うのが見えた。剣を振り回していた時とは全然違う顔だ。フレン様も笑っているのだろう、両肩が微かに揺れていた。

「まるで少し前の自分を見ているようだな」

ぽつんと呟かれたソディア様の声に、目をひん剥いて二人を凝視していた私は我に返って慌てて顔を正面に向ける。

「え?」
「いや、なんでもない」

よく聞き取れなくて問い返したけれど、ソディア様は首を緩く左右に振って言葉を繰り返すことはなかった。
それにしても、本当にあの黒いのはフレン様の何なんだろう。仲が良いとか親密とかそういう次元をはるかに超えているような気がする。なにかしら、この直感にも似た感覚は。

「フレン様の友人だ」
「……え?」
「ユーリ・ローウェル殿、フレン様が幼少を共に過ごされた大切な方だ」

ソディア様は肩を寄せ合って座り、夜空を見上げて仲良さそうに話している二人を見ている。
ユーリ・ローウェル、フレン様の大切な方。

「あの素行の悪そうなのが?」

人のことを言えた義理では全然ない私だけど、思わずぽろりと本音を零したら、ソディア様は一瞬息を呑んだ後に小さく笑った。キリっと吊り上がった目と頭の堅そうな口調で取っ付きにくそうな人だなと思っていたけど、そうやって笑うと案外可愛い。

「機会があればお前も一度ユーリ殿と話してみるといい。きっとフレン様が守ろうとしているものも分かるはずだ」

ぽかんとしている私になるべく早く宿舎に戻るようにと言い置いて、ソディア様は薄闇の中を静かに去って行く。残された私はもう一度茂みの向こうに目を向けた。
相変わらず二人は仲良く笑いながら話している。何を話題にしているのかまでは分からないけれど、ちらりと見えたフレン様の横顔はとても楽しそうで、騎士とか団長とかそんなものは全部取り払った、年相応のごくごく普通の男の子に見えた。

「よし!」

おもむろに黒いの、もといユーリ・ローウェルがひょいと身軽に立ちあがり、弾き飛ばされ草に埋もれていた剣を拾い上げて構える。抜き身の剣を肩に担ぎ、咄嗟に上下左右どの方向にも動けるように身体を揺らす、独特の構えだ。

「もっかい!」
「望むところだ」

遅れて立ちあがったフレン様もすらりと鞘から剣を抜き、一度身体の前に真っ直ぐ縦に立てて構える。切っ先をユーリ・ローウェルに向けて正面に突き出された刀身に月の光が当たって冴えた光を放った。
ユーリ・ローウェルもまた左手に握った剣をゆらりと正面に突き出す。同じ月光を受けていてもなぜかその光を弾くというよりは吸い込んでいるように見えるユーリ・ローウェルの剣の先がフレン様の剣の先に触れ、キンと澄んだ音を響かせた。
それを合図に、再び二人の剣舞のような手合わせが始まる。遊びのない真剣勝負。それでも二人はそうして言葉なく仲良く会話をしているようだと思った。想いを伝え合っているように見えた。

フレン様と幼少を共に過ごしたということは、あのユーリという人も帝都の下町の生まれということだろうか。
ふと辺りが暗くなるまで飽きずに遊び回っていた帝都での子供時代を思い出す。毎日毎日泥んこになって、今思えば何がそんなに面白かったんだろうと思うようなことで一日中大口を開けて笑っていた。フレン様もそうやって大きくなったのかな。

「フレン様が守ろうとしているもの……」

分かったのかもしれない。まだ本当には分かっていないのかもしれない。
でもこれ以上ここにいて、二人の大切な時間を邪魔してはいけないということは分かったから、もう未練がましく振り返ったりせずに、私は宿舎への道を真っ直ぐに引き返した。


* * * * *


翌朝、私達は魔核のない形だけの結界魔導器が建てられた街の中央広場に呼び集められた。前みたいに騎士団だけじゃなくて、作業をしているギルドの人達も避難してきた市民も、みんな一緒に。
そこで聞かされた話はあまりにも唐突な大きすぎる世界の変貌に関することで、一時辺りはちょっとした混乱状態に陥った。
結界魔導器をはじめ、すべての魔導器が使えなくなる。水道魔導器も武醒魔導器も、全部。そうすることが世界を守り、私達が生き残るために出来る唯一の方法だから。残された時間はもうあと僅か、迷っている暇はない。

そんな、マジで?って初めは思ったけれど、案外平気なんじゃないかって私はすぐに思い直した。根が楽観的だからかもしれない。
だってここ数日の間、実際に私達は結界魔導器のない街で生活していた。そりゃ魔物の襲撃には武醒魔導器に頼ってる部分が大きかったかもしれないけど、騎士だからって全員が全員高性能な武醒魔導器を持っているわけじゃない。私みたいなポンコツしか支給されない下っ端だって腹を括ればそれなりに対抗できる。

新しい未来を切り拓くために、フレン様は一時この場を離れ、最後の戦いの場に発たれたらしい。どこにいても、どんなに離れていても我々は仲間だからと言葉を残して。
今フレン様の隣にはきっと昨夜の黒いの、じゃなくてユーリ・ローウェルがいるのだろう。
あの人にも一度「あなたが守りたいものは何?」と聞いてみたい。なんとなくフレン様と同じ答えが返ってくるような気がする。それが何なのかはやっぱりまだ私には分からないけれど。
ただ、漠然と私は今のこの混乱が収まったら赴任地を帝都に、帝都がダメでももう少し故郷から近い場所に変えてもらえないか頼んでみようかなと思い始めていた。功績もへったくれもない下っ端の下っ端が頼んだって「無理」の一言で片付けられるかもしれないけど、言ってみるくらいならバチは当たらないだろう。

一度帝都が壊滅状態に陥った後、市民街に住む私の家族からはかろうじて全員無事だという手紙が届いていた。家はなくなったみたいだけど。
何かを、誰かを守りたくて私は騎士になったわけじゃない。あえて言うなら自分のプライドを守るためかもしれないけど、考えれば考えるほどそれってすごく馬鹿馬鹿しい理由だわ。私を嘲笑ったきれいに着飾ったお嬢様の顔なんてちっとも覚えていないんだもの。今どこかですれ違ったって気付かない。
でも昨日フレン様とユーリ・ローウェルが真剣に、でも楽しそうに剣を打ち合っているのを見ていたら、一日中下らないことで笑い合って一生懸命遊んでいた子供の頃とあの時の友達のことを思い出していた。
お前に騎士なんて絶対無理って大笑いして私をからかってたけど、入団が決まったよって報告したら手を叩いて喜んでくれて、頑張ったね、頑張れよってみんなひとつずつ自分の宝物を餞別にプレゼントしてくれた。1ガルドにもならない笑っちゃうくらいつまんない物ばっかりだけど、大事に箱に詰めたそれらは今では私の宝物だ。

なんかそういうこと、私今まで全部忘れてた。私にも守りたいものがある。守れる力を手に入れるために出来ることを、私は騎士になることで叶えていたのに、もうずっと長い間それを無駄にしてたんだわ。
今までいた赴任地の村がイヤだと思ったことはない。晩ご飯のおかずにどうぞって野菜を毎日てんこ盛りくれた農夫のおじさんとか、着られなくなった若い頃の服を娘ができたみたいで嬉しいからって私にくれたおばさんとか、騎士様にお菓子を分けてあげるって小さな飴玉を手の平に乗せてくれた女の子とか、みんな大好きだった。ショボい隊長も実を言うとそんなに嫌いじゃない。
あの人達に何も恩返しができないまま出て行くっていうのはとても不義理な気がする。でも家族や故郷の友達、本当に守りたい人達を守りもしないで他の人を立派に守れるはずがない。

決めた。やっぱり異動を願い出よう。そしていっぱい努力して、大切な人達を守って、もしいつか隊長に昇格できたら、そうしたら私が私の隊を率いてあの村に恩返しに帰ろう。
ヤバいわ、なんかすっごい楽しくなってきた。きっとこれから世界は今よりずっとずっと生きていくのが大変になるのに。目標があるって励みになるのね。
まずは帝都に帰ること。それからせめて小隊長くらいには昇格できるように頑張ること。でも願いは大きく、やっぱり隊長くらいには狙いを定めないとね。隊長になって大活躍なんかしちゃったら騎士団長閣下の目に留まることもあるかもしれないじゃない?

先は長いんだもの。今はユーリ・ローウェルが自然にしっくりと収まっているフレン団長の隣の座、私だって諦めたわけじゃない。
恋なのかただの憧れなのかなんだかちょっと曖昧になってきたけど、大切なことを思い出させてくれたフレン様の存在は一番星みたいに掲げた目標の向こうでキラキラと輝いていた。
本当にヤバいわ。頭の中で何か変なものがふつふつと沸いてる感じ。
よっしゃ!見てらっしゃい、私だって黒いのには負けないんだからね!


END