Anniversary
すっかり夜も更けたというのに、望想の地、オルニオンは賑やかな声とありあわせで作った楽器の軽やかなリズムに満ちていた。
「ったく、よくやるよ」
街の最も奥まった場所に建てられた建物の更にそのいちばん奥の部屋。ぴったりと窓を閉め切っているにもかかわらず絶えず漏れ聞こえるその声と音にユーリはやれやれと苦笑交じりの溜息を零した。
「主役がいないのにね」
ユーリの言葉を受け、部屋の主であるフレンも笑う。
オルニオンの上空には雲ひとつない満点の星空が広がっていた。不気味に漂う異形の姿ももう見当たらない。
たった八人と一匹の英雄達によって、全世界の人間の命を代償に世界を救おうとしたもう一人の孤独な英雄の暴挙は阻止され、古代に封じられた災厄「星喰み」は退けられた。世界は大いなる災いの脅威から解放されたのだ。
機能を失い降下を始めたタルカロンから脱出し、作戦の成功を信じて送り出してくれた仲間達の待つオルニオンに戻ってきたユーリ達を待っていたのは騎士団、ギルド、一般市民、身分も格差もまったく関係なく集まった人々の笑顔と歓声だった。
だが当の英雄達は人々のそんな盛り上がりなどまるで他人事で、「とりあえず寝たい」と満身創痍の体を引きずってそれぞれに宛がわれた部屋に早々に籠もってしまった。それきり誰も出てくる気配もないので、皆今頃はベッドと癒着するほどに深い深い眠りの中にいるのだろう。
その中でただ一人、現騎士団長代行であるフレンはそのまま公務に戻りそうな動きを見せたが、それを鋭く見咎めた副官の女騎士に「あなたもです!」と寝室に押し込められた。まったく、真面目もここまで来ると本物の馬鹿と言いたくなるというものだ。
「でもまぁ、さすがにあのバカ騒ぎに入って行く元気はないけど、とりあえず一個は片付いて良かった良かったってとこだなぁ」
ベッドの縁に腰掛けたユーリが隣に座るフレンの肩にコトンと寄り掛かる。
「本当に大変なのはこれからだけどね」
寄り掛かられたフレンがドミノ倒しのようにユーリの反対側に倒れ込んだので、ユーリは中途半端にフレンに乗り上げ腰骨の辺りを枕にする格好になった。しばらくそのまま無言で遠い歓声を聞く。
本来は他の仲間達と同じくユーリにも用意された部屋があったのだが、少し休憩した後、ユーリは表の大宴会場から祝杯を分けてもらいフレンの部屋を訪ねていた。そうでもしなければまたすぐに仕事に戻ろうとするだろうフレンの動きを抑止する意味もある。
だが互いに思った以上に疲労は深いらしく、祝いの酒はほとんど消費されることなく机の上に残されていた。考えまいとしても色々と頭を過ぎるものが多すぎて会話らしい会話もぽつりぽつりとしか交わされていない。
膝枕ならぬ腰枕、しかも女性ならまだしも鍛え上げた男の堅い体とあっては寄せる頭の収まり具合もよろしくなく、体を起こしたユーリは横にずれてフレンとの隙間を詰める。半身を横倒しにしたフレンの背に半ば覆い被さるように胸元を沿わせて体を横たえ直してようやく満足した。同じ乗り上げるにしても堅い感触に違いがないならこれくらい顔が寄っている方が良い。
「フレン騎士団長閣下……か」
無造作に額に掛かった金色の髪を指先で払いのけ、青い瞳と秀でた丸い額を露わにする。ユーリの呟きにフレンは青い双眸を微笑に撓めた。
「まだ団長代行、だよ。正式に団長に任命されるかどうかは分からないさ」
「まだそんなこと言ってんのかよ、往生際悪ぃな。もうお前が団長みたいなモンだろ、少なくともここの騎士団の連中はそう思ってる」
フレンの言わんとすることも分かる。ここにいる騎士団員は全国に散る構成員のほんの一部でしかなく、前団長アレクセイはもういないとは言え、親衛隊が解散したわけでもなければ彼らの主君に対する忠誠心が失われたわけでもない。
金と権力で繋がっていた連中とは違い、アレクセイの掲げる理想に純粋に共感し心酔していた彼らの思想を覆すのは容易いことではないだろう。アレクセイは怪しげな呪術で人心を掌握していたわけではない。その心の内はどうであれ、彼の高いカリスマ性は本物だった。
「自信がない、なんてことはないんだろ?心配すんな、後ろはオレに任せりゃいい。お前は前だけ見てろ」
「頼もしいな……と言いたいところだけど、一抹の不安を感じるのはなぜだろう……」
「失礼なヤツ。せっかくちょっとカッコいいこと言ってやったのに」
フレンがわざとらしく真剣な表情を作って言うので、ユーリもわざとらしく拗ねた表情を作り、首を伸ばしてフレンの白い顎に軽く歯を立てる。ユーリを体の上に乗せたまま仰向けになったフレンは笑いながらユーリの頬に頬を寄せ、冗談を詫びるようにこめかみに唇を押し当てた。
分かっている。フレンに限ってこの期に及んで迷ったり悩んだりしているはずがないのだ。端から全ての人々に受け入れられるなどとは思っていない。妨害も陰謀も覚悟の上だ。
それでもフレンは進む。ユーリと交わした、剣の誓いのために。だからユーリも立ち止まるわけにはいかない。これからの現実がどれだけユーリにとって厳しく険しい道であっても。
馴染んだフレンの香りが鼻先を掠める。馴染んでいるのに、こんなにも近くにそれを感じるのは随分久しぶりな気がした。
少し顔を持ち上げると目の前に今しがたユーリのこめかみに触れたばかりの唇がある。長きに渡る戦闘の日々を物語ってそこは少し荒れていた。
そこにあると気付いてしまった以上、それは抗い難い誘惑となる。ゆっくりと、ユーリはそこに自身の唇を近付けた。ガラにもなく胸が高鳴る。乾いて荒れていてもその感触は柔らかい。それはユーリを迎えるフレンの気持ちそのもので、優しく、大らかにユーリを包んだ。
これほどまでに側に感じる体温と香りに酔いそうだ。
災厄を目の当たりにし、魔導器を捨てることになっても世界を破滅から救うためにこの街を発ってから、ずっとフレンとは行動を共にしている。ユーリは騎士団を辞め、フレンは騎士団に残り、それぞれが別の道を歩み始めてからこんなにも長い時間を共に過ごしたのは初めてだった。
ずっと側にいた。迷わず背中を預けられる。我流と王道、まったく剣の種類は違うのに、初めからそうすると決めていたようにフレンの動きの二手も三手も先を読んで呼吸を合わせることができた。仲間達には散々揶揄され呆れられたものだが、どう言われようとそれはもう理屈では説明できない、深い精神の奥底での繋がりだった。
だがそれほど深く繋がっていても、互いにもっと直接的で俗物的な繋がりを求めることはなかった。年端もいかない子供を含む仲間達の目もあったし、何よりそんな呑気な欲望を抱いている場合ではなかったからだ。
今その極度の緊張感から解き放たれ、揺り戻しのように湧き起こる感情に我がことながらユーリは驚いている。研ぎ澄まされた神経も未だ醒め遣らない身体を生々しい衝動は我が物顔で駆け巡った。
「……ん……っ」
ユーリの舌先が触れる皮膚の下でフレンの喉の中央の隆起が上下にうごめき、くぐもった声が耳の奥を湿らせる。髪に差し込まれた手が自分勝手に散らばろうとするユーリの長い黒髪を束ね、露わになる首筋を指先が辿る。ふるりと細波のように震えた身体は耳朶に柔らかく触れる舌の熱にさらに深く震えた。
天井知らずに上がっていく体温に頭の芯が焼き切れそうだ。とくとくと鼓動が胸を打つたびに瞼の裏が白と黒に明滅する。
「は……ぁ……」
長い距離を全力で駆けた後のように呼吸さえまともに出来ず、ユーリはくたりとフレンの肩口に顔を埋めた。ユーリの下敷きになっているフレンの胸も息を荒げて大きく上下している。
「……なぁ……フレン……」
乱れた呼吸の下から友を呼ぶ。
「……ん……?」
同じく乱れた呼吸に紛れて聞き落としそうな小さな声が応えた。
「これだけ煽っといて何なんだけど……オレもう寝てもいい……?」
「……奇遇だね、僕もそれを提案しようと思ってた……」
結局のところ、ユーリもフレンも疲労は半端ではなかったということだ。どんなに気持ちが逸っても体が追い付かない。
「ふ……あはは、なーんかマヌケ。まだそんな枯れるような歳じゃないのにな、オレ達」
「しょうがないよ、激戦の連続だったんだから」
笑って答えながらフレンはベッドの端に引っ掛かるように横たわったまま胸元に乗り上げたユーリの体を抱きかかえ、くるりと体を反転させてベッドの真ん中に移動する。フレンが枕の位置を正す間にユーリは足元に畳まれた掛けのシーツを足の指に器用に挟んで引き上げた。
「そういうのはしっかり休んで体力戻るまでお預けだな」
「ああいうことまで体力勝負なんて華も色気もないなぁ」
なに、普段からどちらかが飢えたら衝動に任せてベッドに傾れ込むのが常なのだからもともと色気なんてありゃしないよとユーリは笑い、だからそういうのが色気がないというのだとフレンも笑う。
だが「おやすみ」と言葉を交わし、軽く唇を合わせた後は、ものの数秒を数える間もなくすでに互いに深い眠りに落ちていた。
まだ夜明けの遠いオルニオンの空に朗らかな笑い声と調子外れの歌、軽やかな手拍子が満ちる。
* * * * *
白々とした朝日にユーリは目を開いた。もしやと思いはしていたが、隣にすでにフレンはいない。
「……もう出んの?」
すっかり身支度を整えたフレンが振り返って微笑む。金色の髪が朝日に眩しく映えた。
「随分長い間隊を空けてしまったからね」
「……ふぅん……」
ここで何を言って引き止めても無駄なことはユーリももう承知している。お決まりの通り「ユーリはまだ休んでいていいよ」と言い置き、扉へと向かうフレンの後姿を無言で見送る。
だがその姿が扉を前にぴたりと止まった。
「…………?」
訝しげに首を捻りながらフレンはガチャガチャと扉の取っ手を回している。押しても引いても扉が開かないらしい。急ピッチで仕上げた建物なので建付けが悪いのだろうか。
「誰かいないかい?」
ドンドンと扉を叩きながらフレンが部屋の外へと声を掛ける。すぐに廊下の先から駆け付けてくる兵士の気配があった。
「は、あの……フレン隊長……」
「すまない、扉が開かないんだが、そちらからも押してもらえないかな」
「は……はぁ、いえ、あの、フレン隊長……」
そこへ来てようやく表の兵士の様子がおかしいことに気付きフレンは取っ手を回す手を止める。ユーリもベッドを下り、フレンの背後に歩み寄った。
「ヨーデル殿下より書状を預かっております。あの、隙間から失礼します」
言葉と共に扉と壁の隙間からするすると紙が差し込まれる。公式な場でも通用しそうな上質の紙だ。開いたその紙にフレンの肩越しにユーリも目を落とす。
「…………」
「……その、了解を得るまで部屋から出さぬようにとも我々一同厳命されておりまして……」
上質紙にはフレン・シーフォを名指しし、帰還後は少なくとも丸一日は公務に復帰してはならぬと休養を強制する文面が物腰柔らかく書き付けられ、末尾にはそれこそ公式文書にも通用する見事な達筆でヨーデルのフルネームが仰々しく記されていた。
固まるフレンの肩に後ろから顎を乗せ、横顔をにやにやと笑って見ながらありがたく受け取れよとユーリは耳元で囁く。
「……御意……とお伝えしてくれ」
「は!」
心なしか嬉しそうに外の兵士は即答し、すでに帝都に引き上げたヨーデルへの報告のためにいそいそと部屋の前を立ち去った。
「……ぶ……っ……あははははは」
兵士の足音が完全に聞こえなくなってから、堪りかねてユーリは吹き出す。書状を手にしたままフレンは途方に暮れた溜息を落とした。
「ったく、良い性格なさってるぜ、殿下は。先手打たれたなぁ。扉、向こう側から板でも打ち付けられてんじゃねえの?」
ユーリが見立てるところのオンとオフの切り替えが下手なフレンは本気でこの事態をどう理解するべきかと困っているようだが、フレンが見立てるところの常にオフ状態のユーリにとってはさほど理解に苦しむことでもない。お言葉に甘え、存分に休養させてもらえば良いだけのことなのだ。
「扉に細工されてるのにも気付かずに寝こけてたんだ、そんだけ疲れてるってことだろ。そんなヤツがのこのこ現場に出てって途中でぶっ倒れでもしてみろ、その方が他の連中にとっちゃよっぽど迷惑だぜ」
フレンを羽交い締めにしたままユーリは後ろ向きにベッドに引き返す。やがて膝の後ろがベッドにぶつかり、二人して抜け出したばかりのベッドに仰向けに倒れ込んだ。
「御意」と伝えた以上、フレンも一応は諦めたらしい。腹の底ではまだごちゃごちゃと考えているのだろうけれど。
「もうちっと部下を信じてやれよ、実際お前が抜けたって連中はちゃんとここを護ってたんだ。お前はもう少しゆっくり休んで、体調万全に整えてから出張りゃいいじゃねえか」
何を呑気なことをとでも言いたげな青い眼差しを真っ向から受け止め、ユーリは散らばった金色の髪を梳き上げる。
「本当に大変なのは今よりもこれからだぞ」
この数日に世界で何が起こったのか、それを正しく知る者はまだほんの一握りの人々だけだ。これから少しずつ、人々は現実を知っていくだろう。本当の混乱はそこからだ。
「オレ達がこうしてられんのも今くらいかもしれないだろ。閣下とならず者じゃ立場に違いがありすぎるからな」
冗談めかしてユーリはフレンの額に口付ける。途端にフレンが目元に険を漂わせた。
「それ、本気で言ってるんだったら怒るよ。騎士もギルドも変わらない、そう言っただろ?」
「はは、そうだったな、悪ぃ悪ぃ。どこにいようとお前はお前、オレはオレだ」
いつのまにか後ろに回されていたフレンの手に頭を引き寄せられて唇が触れ合う。それは重なる角度を変えて少しずつ深くなり、やがて起床間もないユーリにとっては少々情熱的に過ぎるキスになった。甘さの奥にほんの少し滲む苦さには互いに気付かないフリをする。
「……そう言えば、ユーリもここにいることをみんな知っているのかな……」
そんな格好では休まるものも休まらないだろうとユーリに促されて重い鎧を脱ぎながらフレンが窓の外に視線を投げる。
さすがに昨夜のお祭り騒ぎはもう聞こえてはこないが、すっかり日も昇った街のそこかしこからは人々の生活の音が響いていた。一晩ぐっすり眠り、凛々の明星の面々も起き出してくる頃だろう。ユーリの姿がなく、フレンも見当たらないとなれば概ねの事情は察するに違いない。
「さぁな。でもその辺ひっくるめて全部殿下の策略って気がすんなぁ。ホント、侮れねぇよな、あのおぼっちゃまは」
「またそういう口の利き方をする。殿下は寛大な方だから許して下さるけど、いい加減に態度を改めないと……」
「はいはい」
手をひらひらと振って適当に答えるユーリにフレンは「まったく」と溜息を零す。
「つーか、こっから出してもらえんの?オレ達」
「そりゃ出してはもらえるだろ?台所も手洗いもない部屋なんだし」
騎士団員は皆出払っているのか、本部建物内はしんと静まっている。この部屋を目指してくる足音も今のところはない。
大丈夫かな、大丈夫じゃないの。そんな他愛もない会話を繰り返す。世の中の混乱を他所に、小さな部屋の時間は緩やかに流れた。束の間の休息。
新しい朝を迎えた世界。人々が新たな一歩を踏み出した日。
その記念の一日を、ユーリとフレンは思いがけず穏やかに過ごすことになったのだった。
END
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