Hello Again
     

ふたつのベッドと二揃いの事務机と椅子、壁際の物入れ、目立った物はそれくらいの簡素な部屋。
自分が占有していた窓側の半分はなぜいつもあんなに散らかっていたのだろうと、小さく纏まった荷物を前にユーリは思う。

思い返してみれば、故郷から遠く離れたこの街に赴任してきた時、確かに荷物は多かったけれどそのほとんどがユーリ自身の物ではなかったのだ。借り物の服、借り物の鎧、借り物の剣、借り物の正義、借り物の理想、何ひとつユーリの物ではなかった。
今ユーリの手に残された目に見える物は少ない。けれど託された大きな思いは目に見えずともユーリの体の奥深くに強く、重く根付き始めていた。

がらんとした部屋に目を向けるユーリの背後で遠慮がちな軋みを響かせて廊下へと繋がる扉が開かれる。振り返ったユーリの目に映ったのは、この数日で見飽きるほどに見た幼馴染みの寂しそうな青い瞳だった。

「ユルギス副隊長から聞いたよ」

どんな時も生真面目なほどに凛と張りのある声が殺風景な部屋に頼りなく落ちる。「そっか」と返したユーリも、らしくなく次の言葉を探しあぐねて視線が空を泳いだ。

「何度口うるさく言っても床を濡らすヤツがいなくなってお前も清々するだろ」
「……そんなこと……」

迷った挙げ句、結局口をついて出たユーリの小憎たらしい軽口にフレンは哀しげに眼を伏せた。
明日、ユーリは一人帝都から遠く離れたこの街、シゾンタニアを出る。帝国騎士団の名の下に命を受けた騎士としてではなく、何の権力も力も持たないただのユーリ・ローウェルとして。

歩き出そうとする先にはまだ確固たる道は見えない。騎士でもない自分に何ができるのか、何かできることがあるのか、何も分からないままユーリは一人進むことを選んだ。理想を夢物語でしか語れないこの場所にユーリのいる意味はない。
確かなことは守れるものを守るための力を手にするということ。ユーリが迷いさえしなければ、その道は生涯で最初で最後となった強く大らかな上司に託された、ユーリにはまだ分不相応な小さな赤い結晶が教えてくれるような気がしていた。だから道の先が見えなくても踏み出すことにためらいはなかったのだ。

「ユーリ……」

縋るようなフレンの声がユーリを呼ぶ。立ち尽くしたその姿は置き去りにされ行き場をなくした幼い子供のようで、どうしようもなく手を伸ばしたい衝動に駆られたけれど、今フレンに触れてしまえば何か大きな変化を招いてしまいそうでユーリは無意識に手を握り締めた。

「……ユーリ」
「なんだよ」

フレンの声がますます縋る色合いを濃くする。軽く笑って受け流そうとしてもそれを許さないフレンの瞳に溜まらずユーリは目を逸らした。
今フレンに触れればきっと何かが大きく変わってしまう。できることならこのまま。この均衡を保ったまま。

「ユーリ」

だがユーリの思考は再び名を呼ぶフレンの声にふつりと途切れる。それはたった一度の瞬きをする間の出来事。
胸元に衝撃を感じ、視界が天井に向かって反転したかと思えば、フレンの体温を胸元に感じたままユーリはシーツを整えたベッドに背を埋めていた。

「ユーリ、ユーリ、ユーリ……」
「なんだよ、聞こえてるよ」

耳に触れる声が痛い。 ユーリに縋り付く幼馴染みの腕が痛く、苦しい。
そうだ、フレンは昔からそうだった。いざとなったら体当たり、いつもいつもユーリに無理をするな無茶をするなと言うくせに、フレンこそ追い詰められると何をしでかすか分かったものではないのだ。

「……ユーリ……」

涙こそ流してはいないけれど、本当に泣いているよりもずっと哀しい瞳がユーリを映して揺らいでいる。
相当煮詰まっているな。仕様のないヤツ、とことんまで耐えるくせに、一度崩れればその落差はとんでもなく激しい。それで手詰まりになって十八番の体当たりをぶちかまして、勝手に吹っ切れて、そしてきっと明日にはけろりとしているのだ。

恐れるように、それでももう引き返すつもりはないとその目の奥に確かな意思を宿して、見飽きるほどに見た幼馴染みの顔が少しずつユーリに寄せられる。
本当に仕様がない、こっちの気も知らないで。だから手を伸ばしたくなかったのだ。何もかも全部持っていくはずだったのに、心の一部を残していかなければならないではないか。この甘ったれめ。
フレンの体温と鼓動を胸の上に感じながらユーリはやれやれと口元を緩め、近付きすぎてフレンの目鼻が見えなくなる前に目を閉じた。

見た目の想像以上に柔らかな感触がユーリの唇を覆う。思い切りは良いけれど物慣れないふうのぎこちない仕種に心の片隅で安堵し、そんな自分にユーリは苦笑した。
ここで巧みに翻弄されようものならきっと今安堵に緩んでいる心の片隅はぐらぐらと煮えたぎっていたに違いない。それを人は「嫉妬」という。

本当は分かっていた。どんなにいがみ合っていても、殴り合うほどのケンカを繰り返していても、幼い頃の一時を帝都の下町で兄弟のように過ごした幼馴染みとの時間は身寄りのないユーリにとっては大事な温かい記憶なのだ。
大人達が揃って口を閉ざし、幼いユーリには詳しい事情を知らされないままフレンが下町を去ってからもその温かさは変わらなかった。時を経て再会したフレンは少々頑固さに拍車がかかってはいたものの記憶の中のフレンのままで、生真面目な物言いも相変わらずだと思うくらいで多少の気持ちのズレも気にはならなかった。ただ時折見せる度を過ぎた頑なさと苦しげな横顔に焦燥に似たものが積もっていくのは感じていた。

その焦りの意味も分かっている。どんな事情があったにしろ、幼い頃あんなに慕っていた父親をフレンが本当に心の底から憎めるはずがない。同じ騎士としてフレンの父親を尊敬し、彼と同じように上層の命令に背いてでも目の前で危機に晒されている人達を命を賭して守り抜いた隊長の正義をフレンが理解しなかったはずがない。
相反する感情がただでさえ不安定な時の中でせめぎあっていたのだ。どちらにも寄り添えず、どちらも切り離せないその姿がもどかしく、痛々しかった。

そして二人を心の奥では認めているフレンが、彼らの正義に共感し、遺志を継いで歩み出すユーリをどんな思いで見送ろうとしているのか。全部分かっている。

「……ユーリ」
「うん……」

ユーリにはユーリの、フレンにはフレンの生き方がある。それを否定する権利や止めさせる権利はどちらにもない。それも分かっている。
ただそれを認め合い笑って別れるには、再会してからの日々はあまりにも駆け足すぎた。
要するに、ただ不安なのだ。確かに心の奥底に芽吹いたものはあるけれど、今二人して先の見えない長い道の分岐点に立ち、それぞれ別の道に初めの一歩を踏み出す決意がまだ定まっていない。

「ユーリ」

不安な声がユーリを呼ぶ。触れる掌は熱く、二人を隔てる布が取り払われれば触れる素肌はなお熱い。鼓動は言葉にできない心を代わりに語って打ち付ける速度を増し、混ざり合って髪の先まで揺らした。

「……ユーリ」
「うん……聞こえてるよ……」

全部聞こえている。不安な声も、新たな道を歩き出そうとする力強い鼓動の響きも、今までとは少し違うユーリを想うフレンの気持ちも、同じように響きを変えたユーリ自身がフレンを想う気持ちも、何もかも。
僅かな不安が確かな決意へと形を変えていく。何にも隔たれることなく肌を寄せ合い、拙い仕種で言葉にならない想いを伝え合い、混ざり合う鼓動の中から自分の鼓動を手繰り寄せ、分かたれたそれぞれの道の前に立つ。一歩を踏み出す。

肌と心で感じる傍らの確かな存在の温かさに、少しだけ涙が零れた。



* * * * *



瞼の向こうから目を刺す朝日の鋭さに負けてユーリは目を開いた。
シゾンタニアで迎える最後の朝。これで見納めになる宿舎の天井をしばらく見上げ、ゆっくりと寝台に体を起こす。
フレンの姿は既にない。結界魔導器も壊れ、帝国の決定によって放棄されることが決まったこの街は今引き上げの準備で大わらわなのだろう。この街で騎士団が住民のためにできる最後の仕事が引っ越しの手伝いというわけだ。

作夜の出来事は現実というには儚く、夢というには鮮やかにユーリの記憶に刻まれている。
いつ意識が途切れたのか定かではないけれど、きれいに清められた体には洗いたての清潔な香りのする寝巻をきっちりと几帳面に着せられ、起き抜けはいつもボサボサと毛先を散らしている長い髪も丁寧に梳かし付けられていた。
体の奥にほんのりと気だるさを感じるものの、頭の中をもやもやと曇らせていた靄はすっかり晴れている。この街で迎える最後の朝は、今までで最も清々しい朝だった。

遠く馬の嘶きと荷車の車輪が石畳を転がる音が聞こえてくる。
寝台を下りたユーリはいつもは抜け殻のごとく起き出した形のままで放置していたシーツを伸ばして整え、脱いだ寝巻もきれいに畳んだ。
騎士団の規則で定められた制服ではない服を身に着ける。何者にも縛られない、自由で、けれど不安定で不確かな道をユーリはもう歩き始めていた。僅かに残っていた不安は同じ不安を抱えた馴染みと昨夜一緒に振り払った。

机の上の小さな荷物。ユーリ自身のものではない物をあれも不要、これも不要と間引いていけばユーリの手元にはたったこれだけしか残らなかった。
その小さな袋の隣りに丁寧に置かれた赤い結晶、武醒魔導器。助かる者を助けろと生涯ただ一人の隊長から託された道標。ユーリが迷いさえしなければ、きっと歩むべき道はこの結晶が示してくれる。

隊長がしていたように、そっとそれを左の手首に嵌める。その感触は少し硬く肌に馴染まない。貴重な古代の遺産であり人智を超えた力を秘めたその結晶を身に付けることに、今はまだユーリ自身が分不相応なことなのではないかとほんの僅かな気後れを感じている。
けれどユーリは大きな思いと共に託されたそれを確かに受け取ったのだ。それを誇りに思えるように、いつか一足先に隊長が旅立った遠い場所にユーリが辿り着いた時、堂々と胸を張って彼の人の前に立てるように、お前に託したことは間違いではなかったと笑ってもらえるように、しっかりと前を見据えて歩いて行く。

道の先に描く理想はまだ漠然としていて確かな形を成してはいない。きっと迷うことも立ち止ることもあるだろう。
でもそのたびに思い出せばいい。決してユーリは独りではない。

引き上げの準備でざわざわと慌ただしい街を新たな旅の連れとなった小さな相棒と共に正門に向かって進む。やがて視界に捉えた正門のアーチの下に半ば予想通りの姿を認めたユーリは無意識に口元を綻ばせた。
ほぼ同時にユーリに気付き、正門の石組に預けていた背を起こしたフレンに昨夜の切羽詰まった様子は微塵もない。朝日を受けるフレンは迷いを振り払った眩いほどの晴れやかな微笑を見せた。

ほら、やはり何の心配も要らなかった。十八番の体当たりを発動すればこの優しげな面立ちに反した強靭な精神力を持ち合わせた幼馴染みはものの見事にスコンと勝手に吹っ切れて、悶々としていたことなどすっかり忘れたようにけろりとしているのだ。
もう大丈夫。フレンはフレンの歩む道を見付けた。

これからはユーリはユーリの、フレンはフレンの、それぞれ定めた道を歩いて行く。道の先にはまだ何も見えない。
けれど不安はなかった。ユーリはフレンに心の一部を預け、フレンはユーリに心の一部を託した。たとえどちらかが闇の中にいたとしても、預けた互いの心の一部が互いの居場所を教えてくれる。
どんな時も独りではない。だから笑って言うことができる。

「じゃあな」
「またな」

別れの言葉ではなく、いつかまたどこかで出会うための言葉。


END