緋の追憶
 

フレンに怪我をさせた。剣の手合わせの最中のことだ。
ユーリもフレンもまだ子供で親もない。意気込みはあっても先立つものがなく、親代わりに面倒をみてくれている下町の大人達も自分が生きるのに精一杯で、幼い子供に剣を買い与えるほど余裕があるわけもない。剣の手合わせとはいっても獲物が木の枝を削っただけの木刀だったのが不幸中の幸いだった。

何をやってもユーリはフレンにあと一歩及ばない。ユーリは思うよりも先に身体が動く。フレンは相手の出方を冷静に見てから動く。二人で同じ相手に向かうならそれが有効な連携プレイに繋がるけれど、一騎打ちとなると一歩及ばないユーリには分が悪かった。
動きは速いが無駄な動きも多いユーリは長期戦になるとさらに分が悪くなる。対してフレンはユーリの疲労を見抜き、僅かな隙を最小限の動きで渾身の力をこめて的確に突いてくる。
唯一のユーリの勝機は一発逆転の大技。涼しい顔をしているくせに一撃一撃がやたらと重いフレンの剣を受け続け、痺れて感覚の鈍った手で木刀を握りしめ、ユーリにしては辛抱強くその機会を待った。

そして訪れたその瞬間。フレンの構えが僅かに崩れた一瞬にユーリは返り討ち覚悟の勢いで大きく踏み込み、手にした木刀を振るった。確かな手応えが伝わる。
けれど、勝ったと思うよりも先にユーリは目の前に散った深紅に愕然とした。手合わせを遠巻きに見ていた同じ年頃の少女が悲鳴を上げる。
その声を聞き付けて大人達が駆け寄ってくるのをユーリは棒のように突っ立ってただ呆然と見ていた。フレンの白い肌の上を鮮烈な赤が歪な線を描きながら伝い落ちる。
木刀を握る手に生々しい感触が残っていた。


* * * * *


空が夕暮れに赤く染まっている。下町の外れ、結界魔導器の恩恵すら届いていないかもしれない場所にひょろりと立つ古木の根元に蹲り、ユーリは赤い太陽を睨み付けていた。
宿屋の女将にしこたま打たれた尻がじんじんと痛む。打たれたのはもう随分前なのによく痛みが持続するものだ。
けれどこの程度の痛みなど軽いものだった。既に痺れもないけれど、手の中からいつまでも消えない人を打つ鈍い感触の方が今のユーリには痛い。

ユーリががむしゃらに放った一撃は運悪くフレンの顔面を直撃した。出血のわりに本人は至って元気そうで自分で歩いて手当に向かったが、地面に滴った血を見て立ち尽くしたユーリは周囲からの一斉放火に晒されることとなった。それを締め括ったのが女将の尻への一発だったわけだが、その後誰とも顔を合わせたくなかったユーリは警備の騎士ですら見回りに来ることは滅多にない外れまでやって来て、以来ずっと同じ場所に蹲っている。

「ユーリ、こんな所にいたんだ」

寄り掛かる木の裏から聞き慣れた声が届いた。振り返らないユーリの隣に声の主、フレンも腰を落とす。横目に見たフレンの顔には鼻梁から目の下にかけて薬を塗ったガーゼが宛がわれていた。

「僕はもう大丈夫だよ、鼻血が出ただけだし。手当が大袈裟すぎるんだ」

顔にも多少の傷は負ったけれど、あの夥しく滴った血が鼻血だったとは女将から聞いている。骨にも異常はなかったらしい。

「……ったくよぉ、ただの鼻血だっつーのに女共のキーキーうるせぇことったらねぇよ。オレがお前にボコボコにやられてる時には腹抱えて大笑いしてるくせによ……」
「人徳の差かな」
「……腹立つ……」

ユーリとフレン、同い年で共に親のない境遇。物心つく前から同じ場所で、同じものを食べ、同じものを見ながら育ってきた。兄弟と呼ぶには遠く、他人と呼ぶには近すぎる存在。喧嘩をしていることの方が多いけれど、何も言わなくても互いに分かり合える。
だから今ユーリにはフレンの考えていそうなことくらい簡単に想像できるし、きっとフレンもユーリの考えなどお見通しに違いない。だから互いに何も言わないのだ。

「帰ろう、ユーリ。夕飯が冷めちゃうよ」

しばらく無言で夕日を眺めた後、フレンが先に立ち上がる。続いて立ち上がったユーリは、夕日を受けて頭の先から足の先まで赤く染め上げられたフレンの後ろ姿を目に留め、踏み出しかけた足を止めた。

おそらく今日の手合わせでフレンが隙を見せたのは誘導だったのだろう。隙を見せればユーリが必ず仕掛けてくると見越した上で、タイミングを合わせて返り討つつもりだったのだ。だがタイミングを見誤ったか、捨て身のユーリの動きは思いもよらないものだったからか、ユーリの木刀はフレンの顔を直撃した。
今回は鼻血で済んだ。女将に尻を引っぱたかれただけでそれ以上の咎めはなかった。けれど、もしユーリの太刀筋があと僅かにずれていたら、ユーリの木刀はフレンの目を直撃していたかもしれない。フレンの青い瞳はその視力を失っていたかもしれない。今日は木刀だった。けれどもし握っていたのが本物の剣だったら。
今になってユーリは足の震えを覚える。手の中に鈍い感触が甦った。

「ユーリ?」

振り返ってまっすぐにユーリを見詰めるフレンの目が夕日を映して赤く燃えている。

「……ごめん」

ぽろりと零れ落ちたユーリの小さな呟きにフレンは一瞬きょとんとした顔を見せた後、夕日色に染まる目を目一杯見開いた。

「こんなに夕日がきれいなのに明日は大雨かもしれないね」
「……やっぱ言うんじゃなかった……」

こんなふうに返されるだろうとは予測できたことだ。ユーリが深く後悔し、反省していることはわざわざ言葉にしなくてもフレンはちゃんと分っている。フレンの怪我はユーリのせいだけではなく、自分から誘っておいてそれを避けきれなかった自分にも責任があるとフレンが考えていることもユーリは分かっている。互いがそうして分かり合っているということを二人を知る下町の誰もが分かっている。

「晩ご飯のおかず、ユーリの分半分僕がもらうから。それで今日のことはチャラ」

言うや否や、これ以上はもう何も聞かないし話さないとばかりにフレンは返事もろくに聞かずにユーリに背を向け町に向かって歩き始めた。これで本当にこの話は終わり。もうユーリもフレンもこのことを口にすることは二度とないだろう。
フレンの後ろ姿が遠ざかってもユーリはその場をしばらく動けなかった。寒くもないのに指先が冷え切っている。

この手に剣を握るということ。それを振るうということ。何かを、誰かをこの手で守るということ。
そのために、いつかこの手で人を斬る時がくるのだろうか。決断できるのか。覚悟は定まるのか。
手の中に生々しく残る人の肉を打つ感触を固く握り締める。忘れてはいけない。この感触も、瞼に残る血の赤も。
 
それは、まだ未来を知らず、理想と誇りを胸に秘め、友と歩む道を誓い合った遠い日の記憶。


END