青き春のある一日
窓越しの陽気は眠気を誘う。窓際の一番後ろ、何度席替えを要求されても死守し続けているそのポジションで、オレは襲い来る眠気と壮絶な戦いを繰り広げていた。
どんなに眠くても寝るわけにはいかないのだ。ちゃんと授業を聞かなければならないとかそんな下らない理由じゃない。授業ったってきっとまともな話なんかしてないんだ、あのざんばら頭の白衣のおっさんは。どうせ「俺様流スマートな美女の口説き方講座」でもしてんだろ。あいつの講座内容を実践して成功した例なんてひとつも聞いたことないけどな。
第一オレはそんな成功率の低い方法で誰かを口説く必要はない。想いがきっちりがっちり伝わり合っているヤツが目の前にいるからだ。
そいつはオレの斜め前の席でシャーペンを片手に机のノートに目を落としている。この授業のどこに書き取らなければならない要素があるのかさっぱり分からないけれど時折何かをさらさらと書き付けていた。
昨日髪を切ったばかりなのでまっすぐに揃った襟足が清々しい。横もかなり梳いたから耳とか頬のラインがよく見える。今日もぞくぞくするくらいに完璧な男前だ。
そう、男なんだ、オレのハニーは。名前をフレン・シーフォという。名前の響きだけでも男前だろ。
しかも燦然と輝く「生徒会長」なんて腕章を付けた、学園ナンバーワンの人気者だったりする。そんでもってオレの自慢の幼馴染みだ。
ガキの頃からずっと一緒に育って、今では寮の部屋も一緒で、毎日毎日前から後ろから横から散々にあいつの顔は見ているけれど、なんだかやけに今日のこの斜め後ろからの眺めがツボに入ってしまった。眠気と戦ってでも眺めていたいなと思うくらいに。
あいつもあの席固定にならないかなぁ。でもきっとあいつはある程度の期間が過ぎたら「ずっと同じ場所にいるのは不公平だから」って席変わっちまうんだろうなぁ。あの判で押したみたいな真面目な性格がもう少し丸くなればいいのに。でもあの真面目さもあいつらしさだからなぁ。
考え事をする時、下唇のあたりに手を当てて少し俯く仕種が好きだ。金色の髪が揺れているのを見ると触りたくてうずうずする。猫じゃらしに飛び付く猫の気持ちが痛いくらいに分かるなぁ。
本当にいい男だなぁ。あんなヤツがオレだけを見てオレだけに見せる顔で「ユーリ」なんて甘ったるい声で名前を呼ぶんだぜ、普通に惚れるだろ。
「あだっ!」
その時、自分だけのピンク色の世界に浸りきってめちゅくちゃうっとりしていたオレの額のど真ん中に何かがヒットした。オレのデコでぽーんと弾んで床に落ちたのは布を親指の先くらいに丸めたものだ。ふんわり丸めてあるんじゃなくてしっかと巻かれているので結構固くて痛い。
「昼下がりのポカポカ陽気は確かに眠くなるわねー、うんうん分かる分かる。でもねーユーリ・ローウェルくん、今はじゅ・ぎょ・う・ちゅ・う」
オレに布つぶてを投げつけた手をひらひらと振りながら教壇の上でざんばら頭の教師がにやりと笑う。おネエくさいふざけたしゃべり方だがこいつはかなりの曲者だ。こいつがうちのクラスの担当になって以来のオレとこいつの攻防だが、投げたものは必ずオレのどこかにヒットする。初めこそ外すことがあったけれど、最近では百発百中。まぁ、オレがずっと同じ席に座ってるから狙いやすいんだろうけど。
チョークを投げると粉が目に入ったり口に入ったりして危険なので、うちのクラス、というかオレ専用にあの丸めた布を用意する周到さと生真面目さを併せ持つ侮れないヤツだ。
「次は布つぶてじゃなくて矢を射るわよ」
おいおい、それが弓道部顧問の台詞かよ。袴姿に白ハチマキをきりっと締めた女の子は凛々しくて可愛いわねーなどといかにも女好きなスケベ発言をしているけれど、的前に立つとまるで人が変わったように雰囲気が一変するのだと弓道部の助っ人に入ったことのあるフレンが言っていた。もちろん成績はパーフェクト。そんなヤツが生徒に矢を射るとか言うんじゃねえよ、おっかない。
でもおっさんには悪いけど、さっきの一撃ですっかり目が覚めたオレはますますフレン観察に専念する気満々だった。
「へいへい、すんませーん」
「……ま、ほどほどにね……」
ひらっと手を振って適当に答えたオレに、おっさんは妙な間の後にちょっと含みのある言葉と目配せを残して授業を再開する。
ああいうのもあのおっさんが侮れない理由のひとつだ。どうもあいつはオレとフレンの本当の仲に気付いているフシがある。
でもだからといってそれをネタにからかうとか説教するってこともないので、胡散臭くはあるけど結構大らかでいいヤツなんだろうな。軽いしセクハラ発言連発だけど、男でも女でもきっぱりあいつが嫌いだって言う生徒はあまり見ない。フレンなんかちょっと尊敬してるっぽいし。だからオレも何回デコに布つぶてをぶつけられても心底嫌いにはなれなかった。
オレとおっさんのこういう遣り取りはうちのクラスの名物ってくらいよくある光景なので、「またやってるよ」みたいな感じで他の生徒達はくすくす笑ったり呆れたりしている。どんな下らない授業でも真面目に受けるフレンはオレの不真面目な態度を咎めるようにちょっと顔をしかめて睨んでいることが多い。
でも今オレの斜め前にいるフレンはさっきうっとりと眺めていた時の姿勢のまま、まるで周りの世界から切り離されたみたいに微動だにせずに真っ直ぐに前を向いてちらりともこっちを見ようとはしなかった。
怒った顔もカッコいいから睨まれるのも有りだ、とか思っているわけではないけど、それにしたってあまりにも周りに無関心すぎる。こっちを無視しているのがありありと分かるフレンのその態度が気に入らない。
オレとおっさんの遣り取りは授業ごとのお約束みたいなもんなのだ。ない方が珍しい。そのたびにちょっとずつ溜まった怒りが限界に達したのだろうか。それにしたってあの徹底した無視っぷりはないだろ。そこまで怒らせるほどのことでもないんじゃねえ?
おっさんには「ほどほどに」と釘を刺されたけれど、気になって仕方なくて終業のチャイムが鳴るまでオレはずっとフレンをガン見し続けた。
カランコロンと間延びしたチャイムが流れ、日直の号令に合わせて他の生徒達がだらだらと立ち上がる中、フレンはビシっと立ち上がりキリっと礼をする。真面目だなぁ、でもそういうトコもカッコいいぜ!とオレが熱い視線を送ってもやっぱりフレンは完全無視。なんなんだよ。
「そんじゃ、まったね〜」
まとめた教材を小脇に抱えたおっさんがぶらぶらと教室を出て行く。大欠伸をしながら伸びをする男子、友達の席におしゃべりをしに行く女子。ざわざわとし始めた教室の中を、素早く机の上を整理したフレンは頭を固定されたみたいに前を向いたまま一直線に扉を目指し廊下に出て行った。
なんだよ、ホンット腹立つなぁ。どんなに良心的な目で見ても完全にフレンはオレを無視している。仲は良いけどその分ケンカもしょっちゅうなのでそっぽを向き合うなんてこともザラだけど、こんなふうに理由が分からないのはそうそうあることではないから余計に気持ち悪い。
こうなったら問い詰めなくては気が済まない。オレもフレンを追って教室を飛び出した。
すでに廊下は教室から溢れ出してきた生徒でごった返していたけれどフレンの金髪は人混みの中でも一際目立つ。すぐにその後姿を見付けたオレは人の波をすり抜けて駆け寄った。
「フレン!」
「廊下は走るな」
「走らなきゃ追い付けないお前の早歩きはいいのかよ!」
この期に及んで振り返らないフレンにイライラが募る。
「用がないなら付いてくるな」
オレ何か悪いことした?って聞くのも女々しい感じがするし、こっち向けよって言うのもなんだかなぁなんてごちゃごちゃ考えていたらぴしゃんと冷たく言い放たれ、オレはかなり本気で傷付いた。
なんだよ、なんなんだよ。ちくしょう、こんな時でも散髪したてのすっきりした横顔は男前だ。思わずうっとりしてしまう。
「なあ、フレンって!」
「うるさいな!いいから付いて来るな!」
オレに走るなと注意したくせにとうとうフレンも走り出した。なんでそこまでしてオレを突き放そうとすんだよ、フレン!
双方が走ればオレは僅かにフレンには敵わない。少しずつ引き離され、それでも粘り強く食らいついてしばらく廊下を駆けた後、くるりと向きを変えたフレンはひとつの扉の内側に飛び込んだ。
あれ、男子トイレ?ここは周りには普段は使わない特別教室が多く、各学年の教室からも少し離れているので時間の短い休憩時間にはあまり生徒は利用しないトイレだ。
フレンから少し遅れて中に入ると、ひとつの個室の扉が閉まりガチャンと中から鍵が掛けられたところだった。
「なんだ、お前大きい方我慢してたのか?」
「違う!」
「わざわざこんな人の来ないトイレまで来て、アイドルは小も大もしないなんてありえねえだろって都市伝説を守ろうとでもしてんの?」
「うるさい!違う!いいからユーリは教室に帰れ!」
なんとなくフレンがオレの方を見ようとしなかった理由が分かってきて、今までの女々しさはどこへやら、オレは余裕の態でポケットに手を突っ込み個室の扉に背を預ける。これでフレンはオレがいる限り出て来られない。
「なんでオレの方を見ようとしなかったんだよ」
「……別に……」
「言えよ、じゃなきゃオレもお前も次の授業遅刻だぜ」
フレンはだんまりを決め込んでいる。でもオレの方が精神的に優位に立てばもう勝負はついたも同然だ。
やがて、扉を隔てた内側から短い諦めの溜息が聞こえた。
「……見るからだ、君が……」
フレンの小さな小さな呟きにオレはにんまりと目元と口元を緩める。やっぱりそうだったのか。おっさんの「ほどほどに」はこういう意味だったんだな。
フレンが中から出てくる気配がないので、個室の扉の上部に手を掛け懸垂の要領でよじ登る。
「こら、バカ!壊れる!」
「壊れない壊れない」
仕切りを乗り越えポンと個室内に飛び降りたオレは、顔を真っ赤にして壁に凭れ掛かっているフレンが逃げられないように身体の両側に手を付いてフレンを閉じ込めた。真っ向勝負では敵わないけれど、完全に腰が引けたフレンなら楽勝だ。
「抜くつもりだった?オレのあつーい視線を受けて勃っちゃったんだ。箸が転げても勃つお年頃だもんなぁ」
「……ユーリ……」
ぐっと身体を寄せ、いかにもインテリくさい眼鏡のフレームに手を掛ける。フレンは別に目が悪いわけじゃない、むしろ良い方だ。
そんなフレンが眼鏡を掛けているのは口ほどにものを言うという目の表情を隠すため。フレンの目はびっくりするくらいにきれいな空の色で、対する者は否が応にもその色に見惚れ、じっと見詰めてしまう。ポーカーフェイスはお手の物のフレンだけど、根が正直者なので時々隠しきれずに目に表れてしまう本心をレンズで隠しているのだそうだ。
「オレにまで隠す必要ねえだろ?」
奪い取った眼鏡を自分のブレザーのポケットに捻じ込み、吸い込まれそうに青い目を真正面から覗き込む。
こんな狭い場所でこんなに密着して、オレの理性がそうそう持つはずがない。俯くフレンの顔に下から掬い上げるように顔を寄せて唇を重ね、すぐに音が立つくらいにきつく吸い付いた。
フレンは拒まない。舌を出せと舌先で唇を突けば素直に舌を差し出してくる。
「……リっ……ユーリ……っ」
けれどオレの手がきっちりと几帳面に留められたブレザーのボタンに伸びるとぎゅっとその手首を握られ、抗い難い力で押し戻された。
なんだよこの馬鹿力、せっかくの雰囲気が台無しじゃないか。
「ユーリ……寮に戻ってからにしよう……」
「はぁ?何言ってんだよ、オレももう勃っちまったぞ」
とてもじゃないけど頷きかねるフレンの提案に、証拠とばかりにオレはフレンに下肢を押し付ける。フレンの下肢にも同じ感触があった。だいたい抜こうとしてこんな離れたトイレまで猛ダッシュしてきたのはフレンなのだ。
それにまだ授業は一時限分丸々残っている。苦行好きのフレンには耐えられても、この状態で放置はオレには到底無理な相談だ。
「次の授業が……始まる……」
必死に理性を保とうと懲りずに伸びるオレの手を押し戻そうとしているけれど、目尻がほんのりと赤く色付いたフレンの目はとろとろと今にも蕩けそうなくらいに潤んでいる。フレンはよくオレの視線やにおいは「酔う」と言う。実際に酒を飲める歳じゃないから本当の酔っ払うっていう感覚とは違うんだろうけど。
今のフレンはまさにその酔った状態。いつも真面目で清々しくてキリっとしているフレンがこんなふうになるのを知っているのはオレだけだ。もうあと一押しすれば、さらに一味違う表情をフレンは見せるに違いない。
「大丈夫だって。次の授業はセンセーが出張中で自習。朝担任が言ってただろ?だから……な?」
耳元に口を寄せ、フレンが「酔う」というとびっきり甘ったるい声でオレは駄目押しの一言をフレンの耳の奥に吹き込んだ。
観念したようにすぅと力の抜けていくフレンの身体に、オレは内心で快哉を叫ぶ。フレンがこっち側に落ちた瞬間だ。
かなり追い詰めるようなことをしたからなぁ、ちょっとお仕置きされるかもしれない。でもそんなのは願ったり叶ったりだ。ずっと頑固にオレを押し返そうとしていたフレンの手がするりとオレの腰に回される。それだけでぞくぞくと背筋が震えた。
いつも眼鏡で本心を隠している青い瞳が隠しきれない妖しい艶を纏ってオレの上で止まる。
ちょっと怯えたふうを装ってみたけれど、「何をいまさら」と下手な芝居はすぐに見抜かれ、ゆるりと唇の端を吊り上げたオレは同じく笑みに撓むフレンの唇を見て、目を閉じた。
教師不在の自習中の教室、オレはともかもフレンまで揃って席を外している状況を、優しいクラスメイト達は黙って見逃してくれるだろう、多分。
END
|