白昼夢
衝動というほど激しいものではなく、気まぐれというほど素っ気ないものでもない。
彼といる時に感じる「それ」は、他のどんな感情や感覚でも表現しがたい不思議なものだった。
風来坊とはよく言ったもので、ユーリは本当に風のように前触れもなくふわりと僕の前に現れる。何度正面から来いと言ってものらりくらりとかわしては白昼堂々と泥棒よろしく窓からやって来る彼は、警備に見付かっても知らない、また罪状を増やす気かと小言を通り越して呆れて言う僕に暢気に笑って見せた。
数々の出会いと別れを経たユーリは、この頃ではとても屈託のない笑い方をする。でもそれは見慣れないものではなく、世界の何も知らずに帝都の下町という限られた場所で自由に夢や理想を描いていた幼い頃に見ていた、遠い記憶を呼び起こす笑い方だった。
執務机の端に浅く腰掛けたユーリは別に興味があるわけでもないだろうに僕が目を通していた書類を一枚取り上げる。騎士団の機密に触れるような書類ではなく、ただの新人騎士の訓練経過簿なので僕も奪い返すようなことはしない。騎士団在籍時にはユーリも見たことがある書類のはずだ。斜めに目を通しながらユーリは懐かしそうに目を細めているけれど、きっと彼は真面目に書いたことはないに違いない。
ユーリは目線の高さに持ち上げた書類に目を通し、僕は机に置いた書類に目を落とす。互いの視線は別々の方を向き、言葉も交わしてはいない。
それでもその瞬間、僕は「それ」を感じ取っていた。
僕は書類から離した視線をユーリに向ける。ユーリはまだ手にした訓練経過簿に目を向けている。けれどユーリの目がそこに書かれた文字を読んでいないのはすぐに分かった。
窓からの光が斜めに差し込み、ユーリの目は柔らかな艶を帯びた紫色に見える。その瞳がすぅと僕へ流れた。それは流し目というほど艶っぽいものではなかったけれど、斜めに流れる視線が淡い光の尾を引くような静謐さと苛烈さの両方を含んだものだった。
無言のまま、ユーリは僕を静かに見下ろしている。言葉はない。
けれど僕にはユーリの中からもう一人のユーリがするりと抜け出してきたかのように、次にユーリがどう動くのか、指の先から睫毛の一本に至るまで全て見えていた。
どんな時も強気な光を湛える瞳の表がうっすらと滲む。髪と同じ色の瞼を縁取る睫毛がちらりと微かに揺れ、開けば皮肉や軽口ばかり叩く唇が緩んだように薄く開いて赤味の強い潤んだ奥が見え隠れする。執務机に腰掛けたまま、ほんの少し上体が前に倒れ、長い艶やかな黒髪が音もなくはらりと肩から一房零れ落ちた。
ゆっくりと、少しずつ、でも確実に近付くユーリの整ったきれいな顔。まだ目は開いて僕を映している。でも僕はいつユーリがその瞳を閉じた瞼の奥に隠すのか知っていた。近くなるユーリの顔が右と左、どちら側に傾けられるのかも。
ユーリが目を閉じるのを見届けてから僕もまた瞼を下ろし、向かい合うユーリとは逆に顔を傾ける。
初めに感じたのは僕の唇に触れるユーリのまだ乾いた唇の温もり。一瞬触れ、すぐに離れた互いの唇の薄い隙間にユーリの零した吐息が甘く漂う。
間を置かずまたすぐに寄せられ、今度はしっかりと深く重ねられたユーリの唇は潤いを得ようとするように柔らかく僕の唇を食んだ。
時折零れる音のない吐息が互いの唇を温かく溶かしていく。官能を呼び起こし劣情を煽る激しさはなく、眠りに落ちる間際に似た浮遊感に意識と心が揺らぐ。
やがて、僕の唇に柔らかな温もりを残してユーリの唇が離れていく。淡く漂っていた気配が少しずつ戻ってくるのに合わせてゆっくりと目を開くと、ユーリはすでにすっかり目を開いていて、目を閉じる前と寸分違わない姿勢で新人騎士の訓練経過簿に目を落としていた。
まるで僕だけが浅いまどろみの中で夢を見ていたかのような、いつもと何ら変わるところのないユーリ。
でも僕の唇には確かにユーリの唇が触れた柔らかさと温もりが残っている。前触れもなく、ふと感じ取った「それ」が訪れた瞬間を僕は覚えていた。
「こいつ、新人?」
あまりにもユーリが普通に普通のことを話し出すから、僕も「そうだよ」と普通に答える。
「誤字脱字がひどいぞ。それでもオレよりよっぽど真面目に書いてるけどな」
「ユーリみたいな報告書はまだ見たことがないな」
何事もなかったかのようなユーリの振る舞い。何事もなかったかのような室内の気配。
「それ」はふとした瞬間に訪れる、白昼に見る夢の一瞬。
真実は僕の唇に残る彼の温もりだけ。
END
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