きみを守ると決めた日
    

その日、暗くなってもおとうさんは帰ってこなかった。一緒に出かけたはずの初めての人間の「ともだち」も。「たいちょう」も戻っていない。
ひとりでるすばんをしている間に見たことやおぼえたことがいっぱいある。はやく話したくてじっと待っていられず、ぼくはふかふかの干し草が敷きつめられた小屋を飛び出した。
ぼくはまだ小さいからぜったいにひとりで「けっかい」の外に出てはいけないとおとうさんからきつく言いつけられている。でも「けっかい」の中だったらぼくは自由にどこへでも行くことができた。どこに何があって、どんな人がいるのかぼくはちゃんとおぼえている。今だってまよわずに、もしおとうさんが帰ってきてもすれ違いにならないように道をえらんで走っていた。

はやくもっと大きくなりたいな。おとうさんが一歩歩く間にぼくは五歩くらい歩かないといけない。おとうさんくらい大きくなったらきっともっとはやく迎えに行けて、街の外にだって一緒に行けるのに。
おとうさんは「きしだん」の一員だ。「たいちょう」と一緒に「けっかい」の外にも行って、こわい「まもの」にだって怯まずに立ち向かう。強くてかっこいい、そんなおとうさんがぼくは大好きだった。

目の前に大きな門が見えてくる。走るスピードを上げたぼくは、何か固いものが地面に落ちた音に耳をぱたりと動かした。
門を越えた向こう側にぼんやりと人の形が見える。「ともだち」のユーリだ。ユーリもおとうさんや「たいちょう」と同じ「きしだん」の一員だ。
ずっと下を向いていたユーリは、ぼくが一声吠えて「おかえり」と告げると顔を上げ、ようやく近くまで来ているぼくに気付いた。

「……ラピード……」

名前を呼ばれて駆け寄ったぼくはユーリの足元をくるくると走り回る。少しはなれた所にいつもユーリが持っている剣が落ちていて、さっき聞こえた固いものの音はこの剣だったことが分かった。

おとうさんはいない。後から来るのかな。
ユーリの足元をはなれ、地面に落ちている剣に鼻を寄せる。ユーリのにおいと、ほんの少しだけどたしかにおとうさんのにおいもした。でもなんでだろう、よく知っているおとうさんのにおいなのに、ちょっとだけいつもとちがうふしぎな感じがした。
剣からもはなれ、まっくらな道の向こうに目をこらす。いっぱいに首を伸ばしたけれどおとうさんは見えない。体がふくらむくらい、いっぱいにおいを吸い込んだけれどおとうさんのにおいはしなかった。

「ラピード……」

後ろから伸びてきたユーリの手に抱き上げられる。背中に顔を押し当てられて、そうやって甘えるのはいつもぼくの方なのにとまた少しふしぎな気持ちになった。

「ごめん……オレ……お前の父ちゃん……」

すごく悲しい声でユーリが言ったから、ぼくはすーっと何かが染み込んでくるみたいに全部が分かった。ああそうか、このことだったんだなと思った。
おとうさんのにおいの中にあったふしぎな感じ。あれが何なのか、ぼくはちゃんと知ってるよ。あれは「血」のにおいだ。
おとうさんがぼくに何度か言ったことがある。もしかしたら、ある日とつぜん帰ってこなくなるかもしれない。でもそれは誰のせいでもないから、誰かを疑ったり責めたりしてはいけない、そこにはそうなる理由があったのだからって。

おとうさんを探すのをやめて、ぼくは首をひねって後ろを向いた。ぼくを抱き上げたままのユーリのほっぺを舐める。ユーリのほっぺはとても冷たい。
ぽつんともっと冷たいしずくが鼻の頭に落ちてきた。雨だ。はじめはぽつぽつと少しずつ降っていた雨は、すぐにサーサーと小さなしずくをいっぱいに散らす雨になった。

「帰ろう、ラピード。あったかいミルクを用意してやるからな」

雨から守るようにぼくを抱いたままユーリは立ち上がり、地面に落ちた剣を拾う。少しの間、ユーリは雨の中でその剣をじっと見ていたようだったけれど、ぼくは胸に顔を伏せてユーリの顔は見なかった。
外へとつながる暗い道も、ぼくはもう振り返らなかった。




その夜、ユーリはぼくと一緒にいてくれた。
雨はずっと降っていて、昼間はふかふかだった干し草もちょっとしょんぼりしていて冷たい。

「寒いだろ」

そう言ってユーリはずっとぼくをすっぽりと腕の中に抱いていてくれたけれど、ぼくはユーリの方がぼくよりもずっとずっと寒そうだと思った。
ユーリは何も話さないし、ぼくも何があったのか本当のことは知らない。でもぼくはちゃんと分かっていた。もう二度とおとうさんには会えないんだ。ぼくがどんなに大きくなっても、どんなに強くなっても行けない場所におとうさんは行ってしまった。

もしおとうさんが帰ってこなくなっても、それは誰のせいでもないし、誰も責めてはいけないとおとうさんは言っていた。それから、いつまでも悲しんでいてはいけないと。
鼻先をユーリの体に擦り付ける。

「まだ寒いか?ラピード」

ユーリはぼくを太陽のにおいのするシーツですっぽりとくるんで、もっと深く抱き寄せてくれた。ユーリの手は冷たい。あっためようとぼくが舐めても、ぼくがさみしがってるんだと思ってその手でぼくを撫でてくれる。
ちがうよ、ユーリ。ぼくがユーリをあっためてあげたいんだ。
はやく大きくなりたい。はやくおとうさんみたいに強くなりたい。そうすれば、もっともっといろんなことをユーリにしてあげられるのに。

ごめんね、ユーリ。ぼくはまだ小さくて、思っていることの半分も本当にすることができないんだ。
でもいつかきっともっと大きくなって、もっともっと強く、おとうさんを越えるくらいに強くなって、ぼくがユーリを守るから。
約束するよ。甘えん坊も今日でおわりにする。

だから今日だけ、あと少しだけ甘えさせてね。




* * * * *




それから何度か朝と夜を繰り返す間、ぼくには分からない場所でいろんなことがあって、「たいちょう」もおとうさんみたいに帰ってこなくなった。きっと、「たいちょう」もおとうさんと同じ場所に行ったんだろう。
そして、ユーリはこの街から出ていくことになった。

「ラピード、お前はどうする?父ちゃんみたいな立派な軍用犬になるか?それとも、オレと一緒に来るか?」

いつも着ていた「きしだん」の服ではない服を着たユーリは、なんだかちょっとすっきりとした顔でぼくに聞く。
考えるほどむずかしいことではない。もちろんユーリと一緒に行く。一声でぼくがそう答えると、ユーリは笑って「そうか」と言った。
ぼくの前で屈みこんだユーリはぼくが口に咥えた木の枝を抜き取ると、手にした袋から取り出したものをそっとぼくの口元に寄せる。何度も見たことのあるそれを、ぼくは喜んで咥えた。「たいちょう」がよく口の端っこに咥えていたものだ。ちょっとにがいにおいがする。

「はは、男前だぜ、ラピード」

得意になってぼくが咥えた長い棒みたいなものを振り上げると、ユーリは笑ってぼくの頭をがしがしと撫でてくれた。その手付きはちょっと「たいちょう」に似ている。撫でられたすぐ後は目の前がクラクラするくらいに乱暴だけど、とてもやさしい撫で方だ。

「んじゃ、行こうか」

歩き出したユーリの足元にぴったりと寄り添ってぼくも歩き始めた。一歩の幅がぼくとユーリでは全然ちがう。遅れないように時々小走りになるくらいにぼくがあまりにもちょこまかと歩くものだから途中でユーリがぼくを抱き上げようとしたけれど、ぼくは低く唸ってそれを拒否した。
生意気なぼくの態度にユーリはちょっとおどろいて、でもすぐに笑って、それからはぼくに合わせて時々歩く速さを遅くすることはあってもあれこれとぼくの世話を焼くことはなくなった。

初めての「けっかい」の外、こわい「まもの」がいっぱいいるのだとおとうさんから教わった。「けっかい」の外は広くて、今までいた街の中みたいにどこに何があって、どんな人がいるのか全然分からない。でもそんなのぼくはちっともこわくなんかなかった。だってぼくは「きしだん」の、ランバートの子供なんだから。それにぼくの隣りにはユーリがいるから大丈夫。

決めたんだ。強くなって、ぼくがユーリを守るんだって。
ユーリを守れるくらいに強くなるためにはどれくらいの時間がかかるのか分からない。どれだけ時間がかかってもいいんだ。ぼくはどこまでも、どこへでもユーリと一緒に行くんだ。

少し遅れたぼくを、ユーリがほとんど止まっているみたいな歩き方で待ってくれている。
はやく大きく長くなれと念じながら、ぼくは思い切り手と足を伸ばして力いっぱい駆け出した。


END