HANGOVER
目を開くとそこには見慣れた天井が広がっていた。まだ人々が起き出し活動を始める時間ではないようだが、窓の外は薄く白み始めている。目覚めは悪くないが奇妙な違和感を覚えてユーリは目を瞬いた。
ここが帝都ザーフィアスの下町の下宿であることは分かる。見上げる天井のどこにどんな染みが広がっているかまでしっかりと記憶していた。だがなぜ自分が今ここにいるのか、いつこの部屋に戻ったのか、ここに至るまでの記憶がごっそりと抜け落ちている。
落ち着け。起き抜けで少し頭が混乱しているだけに違いない。ゆっくりと順を追って思い出せば分かるはずだ。
久しぶりに帝都に戻ってくることになったのは、ギルドで請け負った物資輸送依頼の依頼主の住まいがザーフィアスに程近い場所だったからだ。物資の量と重さが結構なものだったので、別に行動していたジュディスと連絡を取り、バウルに運んでもらうことで依頼自体は特に問題もなくすぐに終了した。そこまではスムーズに思い出せる。
その後、依頼完了の報告に戻ったところ、契約の報酬以外にも気前の良い依頼主から
アレも持っていけコレも持っていけと大量の土産を持たされた。中には珍しい食材もあったので、せっかくザーフィアスの近くに戻ってきたのだから、なかなか手に入らない食材は料理上手の下宿のおかみさんに調理してもらおうということになり、ユーリ、カロル、ジュディス、ラピードの3人と1匹で下町に戻ったのが昨日の夕暮れ時。大丈夫、そこまでも難なく思い出せた。
息子同然に可愛がってくれているユーリと仲間達を満面の笑顔で迎えたおかみさんは、渡した食材に「腕が鳴るわね」とさっそく調理に取り掛かった。持たされた土産の中には気泡を多量に含んだ少し変わった水も含まれていた。飲むと気泡が喉の奥でパチパチと弾ける。その水で果汁や果実酒を割って飲むと美味しいのではないかと提案したのはジュディスだった。料理の仕上がりを待つ間、試しに飲んでみると確かに美味い。おかみさん手製の甘味の強い果実酒に弾ける気泡がよく合って飲み心地が良い。まずい、この辺りから何やら記憶が怪しくなってきた。
おかみさん手製の果実酒は甘く、軽くて飲みやすいので普段あまり酒を飲まないユーリも瓶詰めにしたものを時々貰ってはいたものの、水で割ったものをちびちびと飲む程度で酔っ払うほどの飲み方をしたことはない。そもそもほとんどジュースのような酒なので元から酔い潰れるかもしれないという危機感は薄く、喉を通り抜けていく弾ける水の爽快感に調子付き、気付けば結構なハイスピードで手元の器を空けていた。ユーリと同じか、少し早いくらいのペースで飲み進むジュディスがまるで平気な顔をしているのも災いした。
ユーリが普段人前であまり酒を飲まないのは自分の限界点を知らないからだ。酒席につく機会もほとんどなかったのでどこまで飲めばどんなふうに酔うのかユーリ自身が知らない。その未知の領域にうっかり踏み込んで醜態を晒す危険を避けるために自室で寝酒を少し飲む程度だったのが、馴染みの深い場所で、気心の知れた連中と和やかに食卓を囲んでいる状況にすっかり気が緩んでしまった。
笑い上戸でも怒り上戸でも泣き上戸でもなく、妙な絡み方をする性質の悪さもなくただひたすらにほわほわとした心地でいたのはうっすらと覚えている。これはまずい、そろそろ自室に引き上げるべきかと冷静さを残した頭の中の最後の砦で考えていたのも記憶にあった。
そうだ、そこに不意打ちで現れたのだ。ここで会うとは思っていなかったけれど、ここで会っても少しもおかしくはないヤツが。
決して広くも立派でもなく、どこを踏んでも木の床が軋むような下町の酒場に金に輝く髪のその姿が現れた瞬間、酒の作用だけでなく体温が上がった気がした。「フレン」とその名を呼ぼうとした声は果てしなく甘ったるくなりそうで寸でのところで飲み込んだ。
昨夜ここにフレンがいた。いつから会っていないだろう。ユーリはギルドの一員として、フレンは帝国騎士団の団長として、山を越え海を渡り、互いに忙しく世界を行き来している。次はいつどこで会おうなど甘ったるい約束を交わしたこともない。そのフレンが昨夜、ほんの少し前までここにいたのだ。
「フレン?」
もしかしたらと僅かな期待を抱き、ベッドに半身を起こしたユーリは不意に肌を撫でた冷たい空気にふるりと身を震わせた。上半身に衣類は身に着けていないがいつ脱いだのか記憶にない。見渡すほどでもない狭い部屋には入口脇の床に敷いた毛布の上に相棒のラピードが丸まっているだけで、期待を込めて探した姿はなかった。
無造作に空き瓶が放置された小さなテーブルの上に、馬鹿が付くほど丁寧に左右対称にきっちりと畳まれたユーリの上着が置かれている。上着の上にはこれもまたきっちりと皺を伸ばして畳まれた帯。ベッドの足元には僅かな爪先のズレもなくきちんと左右揃えられたブーツ。部屋の整理整頓の類にはまったくもって無頓着なユーリが酔った反動でこんなに几帳面になるわけがない。
「……あいつ」
あちこちに残された痕跡。それもわざとらしいほどあからさまに。
ここまでしたならおそらく、と改めて見下ろした裸に剥かれた胸元。そこに案の定残された赤い痕。いつも前を大きく開いている上着の胸元から見えるか見えないかのぎりぎりの場所。いや、これはギリギリ「見える」範囲だ。微動だにせず真っ直ぐ突っ立っていれば襟の内側に隠れている。だが立ったり座ったり、日常的に行う些細な動作をするたびにチラチラと見え隠れする絶妙に性質の悪い場所。
「あのヤロウ……」
実に数カ月ぶりのフレンとの再会にポンとどこかのネジが緩んだ自分の箍の外れた行動が少しずつ思い出されてくる。
確かに絡んだ。「部屋に戻ろう」と椅子から引き上げられ身体が密着しているのを良いことに思い切りしなだれかかり、部屋に引っ込み二人きりになってからはもっとあからさまに色々ねだった気がする。何もかもがすっかり記憶から飛んでいるわけではないが、順に思い出してみれば情けないことにその辺りになると記憶は半分夢に近い。だが自分の身体の事、身体の奥に残る鈍痛も気だるさもないことから最終的なコトにまで及んでいないのは分かった。
「やってくれんじゃねぇか……」
エステルを連れて帝都を飛び出し、世界を旅し始めた初めの頃、すれ違ってばかりのユーリにフレンは「はやく追い付いて来い」とさらりと言った。そういうヤツなのだ。なんとも微妙な言動でユーリの自尊心とも劣等感とも違う、どこか得体の知れない場所をちくちくと刺激する。本当にいやらしい。そんな安い挑発に乗る自分も自分だとは思うが、ここまでされて黙っていられるか。お望み通り追い掛けてやる。
そうと決めればユーリの行動は早い。ベッドを下りて馬鹿丁寧に四角く畳まれた上着を素早く着込む。開け放った窓から見下ろした下町はまだ濃い朝靄に包まれ、商いの準備を始める露店もなく、家々の窓もぴたりと閉じられて起き出す気配はまだない。
巡礼だか任務だか知らないが、年柄年中隊を率いて世界中どこへでも赴く生真面目な団長のこと、まだ街も眠っている早朝だからといってフレンが城に残っているとは限らないが、ユーリは確信に近い思いを抱いていた。フレンはまだ確実に帝都にいる。息せき切ってユーリが部屋に駆け込んでくるのを待っているのだ。
思えば思うほどおそらく外してはいないだろう自分の予測の正しさに腹が立ってくる。こうなったらもしフレンが帝都をすでに出ていても追っかけてやる。別の大陸に渡るにしても空を飛ぶ術のない騎士団はまず港の町に向わなければならない。こちらには空を自由に泳げるバウルが味方についているのだ。機動力は圧倒的にこちらの方が有利。
「そんじゃラピード、ちょっくら行ってくるわ」
無駄な闘志を燃やし、朝靄の中に飛び出していく相棒を賢い闘犬は顔さえ上げず丸まったまま静かに見送った。
* * * * *
「思ったよりも早かったね」
朝靄に紛れ、もはやユーリ専用の玄関と化した窓から忍び込んだ城の一室。部屋の主である帝国騎士団史上最年少の団長フレン・シーフォは早朝の侵入者に微塵の驚愕も見せずにさらりとそうのたまった。しかもすっかり身支度も整い、後は出発の号令を掛けるだけという出で立ちにもかかわらず、特に何をするでもなく窓に向ってベッドの縁に腰掛け、明らかにそこからユーリが飛び込んでくるのを待っている様子だった。
「たくさんの置き土産ありがとよ」
「その様子だとあまりお気に召して頂けなかったのかな」
凄むつもりはないが自然にトーンの落ちるユーリの声音にいつもと変わらない甘い微笑と柔らかな口調でフレンは応じる。ずかずかと大股でユーリが歩み寄っても腰を上げる気配もない。
「ありがとっつってんだろ、素直に受け取れよ」
「今にも殴りかかられそうでヒヤヒヤしてるんだけど。目も全然笑ってないし」
「何がヒヤヒヤだ、涼しい顔しやがって」
フレンが横にも縦にも動かないので一直線に向かうユーリはたちまち座ったままのフレンの真正面に立ち塞がる格好になる。足がベッドに当たるのも構わずさらに足を踏み出せばベッドに膝を付きフレンの腿の上に乗り上げる姿勢になった。あれこれ考えるより先に身体が動くユーリと、冷静に粘り強く動き出す最善のタイミングを伺うフレン。互いの性格の違いからユーリがフレンの上に乗り上げることはよくある。
上から押さえ付け見下ろす、一見相手の自由を奪い優位にあるようで、その実何の安全も確保されていない緊張感を孕んだこの体勢がユーリは結構好きだった。見上げる青い瞳が余裕綽々の笑みを浮かべていればなおさら。今も劣勢に怯えるどころか許しも得ずに好き勝手に伸びあがったフレンの手が背に絡む。襟元から覗く素肌に吐息を感じた次の瞬間には残された赤い痕の上に温く湿った感触を捉えていた。
「ヤな場所に痕付けやがって。隠すなら隠す、見せつけるなら見せつける、どっちかにしろっつーの」
「あれ?隠れてなかった?じゃあユーリが胸元を開けすぎてるんだよ」
「……いけしゃあしゃあと」
金色の頭を小突いても少しも悪びれる様子もなく、フレンは肌の覗く場所に唇を寄せ、頬を擦り寄せてくる。後ろに回された手は背を中ほどまで覆う髪を掻き分け、骨格をなぞるように上へ下へと遠慮の欠片もなく這い回った。
「お前、手甲外せよ。固いし、痛いし、冷てぇし」
「せっかく準備済ませたのに?装着面倒なんだよ、これ」
知ったことか、さっさとしろと無言の圧力で促すと、表向きは渋々の態を装いながら言われた通りにフレンは金具を緩めて手甲を外す。何が面倒だ、結構あっさりと外れてるじゃないか。手甲を外し、再び背後に回された手は一層細やかにユーリの背の輪郭を確かめる。肩甲骨の隆起に触れ、背の中心をすぅと下りた指先は意味深な動きで帯の縁をなぞった。
「出発どれくらい遅らせたんだよ」
「さすがユーリ、何もかもお見通しってわけだね。……そうだな、あと一時間くらい、かな」
「ふぅん、一時間、ね」
ちらりと窓に視線を走らせる。街はまだ朝靄に沈み、白んではいるものの空にはまだ青は広がっていない。靄が晴れ、青空が広がるまでがリミットか。
「ギリギリか?面倒くせぇ鎧も脱いでもう一回着直すくらいの余裕はあんのかな。それとも、やっぱ不能なんで無理かもってか?」
唇の端を吊り上げにやりと挑発的に笑み自ら帯を解いて見せたユーリに、フレンは挑発を軽く受け流す可愛げのない笑みを見せる。手甲を外したその手はユーリに促されるまでもなく甲冑の留め金へと伸びていた。
「記憶が飛ぶタイプではないんだね。でもそれを言うならユーリこそ、二日酔いで感度落ちてますなんて言わないでくれよ」
「ばぁか、そんなもんお前のテクニック次第だろうが」
「……まったく口の減らない、昨夜のほろ酔いユーリの方が素直で可愛かったな。盛大に誘惑しておいてさっさと寝潰れたけど」
それを言われるとユーリとしては分が悪い。確かに昨夜の出来事は途中までは思い出せても徐々に黒く塗り潰され、最後の最後でぷっつりと途切れている。その気になったフレンが中途半端に投げ出されて途方に暮れているのを想像すると笑えるけれど、おそらく結果を先読みしたフレンは抜かりなくそんな間の抜けた結末は回避したのだろう。だからこそ小憎たらしい痕跡を残してユーリを挑発した。
「うるせぇな。お前こそ無駄口叩いてっと貴重な時間がどんどん過ぎてくぜ」
「大丈夫だよ、僕のテクニック次第なんだろ?余裕余裕」
「減らず口はどっちだか」
早朝のしんと張り詰めた静謐な気配の満ちる部屋の中、場の空気にそぐわない妖艶な衣擦れの音が響く。ユーリの袖の裏返った上着が無造作に床に放り出され、それを追ってフレンの肩を覆う甲冑が落とされた。
柔らかなベッドに背を埋めながら、ユーリは視界の端にふわりと翻るフレンのマントを捉える。表の白と青の清らかさに反し、その裏は静かな情熱を湛えた深い紅。隊服の色味を決めるのは本人なのか別の誰かなのかは知らないが、どちらにせよフレンの隊服はフレン自身をよく表していると思う。
フレンが内に秘めている本当の激しさを知る者はきっとユーリだけ。ユーリだけがフレンの内にその激情を生むことができ、そこに触れることができる。他の誰にも許されない、ユーリだけが触れることのできる場所。その優越感がもたらす酩酊感はこの上もなく深く甘い。それはどんなに強い酒を口にしても得られるものではない。
元々ユーリは積極的に酒を飲むことはない。飲めないのではなく、限界を知らないから迂闊に飲まないのだ。そんなユーリの警戒心をあっさりと突き崩し、あっという間にユーリを酔わせるフレンはユーリにとっては火種を寄せれば炎が噴き上がるほどの強い酒に等しい。昨夜だってフレンが不意打ちで現れなければあんなにご陽気になることもなかった。それを思えば、今ユーリは確実に酷い二日酔い状態だ。安い挑発に乗ったとは言え、こんな早朝からわざわざこんな所まで出向いてきたのはさながら迎え酒と言ったところか。
酒は飲んでも飲まれるなとはよく言うけれど、こんなにも甘く極上の酒なら喜んで溺れるほどに飲んでやる。
街を包む朝靄がこのままずっと晴れなければいいのにと呆気なく過ぎていく時間を惜しみながら、瞬く間に白く霞んでいく意識に抗わず、ユーリは深く甘い酩酊の底へと身を投げ出した。
END
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