子犬の恩返し
    

トルビキア大陸特有のじっとりと湿った曇天の下、新興都市ヘリオードでは豊かな水量を誇る人工の滝がごうごうと音を立てている。労働者が行方不明になるなどという気味の悪い噂はもう過去のものだが、まだ住民の集まらない新しい都市は行き交う人影もまばらで、時折すれ違うのも旅人風の者か街の建設に携わる労働者がほとんどだった。
物資の補給に立ち寄ったユーリ達もすっかり見慣れた街の中を宿屋と道具屋を兼ねる建物目指して進む。すると、まだ建物の軒先も見えない場所でカロルが急に立ち止って辺りをきょろきょろと見渡し始めた。

「なんだ?ナンの姿でも見えたのか?」
「ち……違うよ! そうじゃなくて、今犬の声が聞こえなかった?まだちっちゃな……」

言いながら、カロルはまたきょろきょろと右へ左へと首を巡らせる。カロルよりも高い位置からユーリも視線を巡らせてみたもののそれらしい姿は発見できず、聞こえるのも水が流れ落ちる音ばかりだ。

「あ、本当です。今確かに聞こえました」

気のせいではないのかとユーリが言い掛けた矢先、今度はエステルも足を止めて辺りを見渡し始める。
こうなると厄介だ。声だか音だかの正体を確かめるまではこの場所から動けないだろう。まったく、こんな所に長居している場合ではないというのに。

「あ!いた!」

しかし間もなくカロルが資材が山と積まれた建設途中の建物目掛けて駆け出し、その後を追ってエステルが駆け出す。

「……やれやれ、ペットの面倒ってのは大体保護者に回ってくるもんなんだよな……」

諦め、溜息を吐きながら二人を追うユーリの後ろに続く仲間達が、何だかんだと言いつつも結局は面倒を買って出ているのはユーリ自身だろうと呆れるあまり苦笑していることを当のユーリは気付いていない。
鳴き声の主は資材と資材の隙間に蹲っているようだった。地面に膝を付いたカロルがさらに上体を倒して覗き込み、手を伸ばしている。

「大丈夫、こわくないよ」

エステルも服が汚れるのも厭わずに地面に座り込んでいる。

「届いた!」

果たして、嬉々と声を上げ資材の隙間から抜き出したカロルの手には淡い小麦色の小さな物体が絡み付いていた。手足の先だけが白く、垂れ下がった小さな耳とつぶらな瞳が庇護欲をそそる子犬だ。ユーリが世話を始めた頃のラピードよりもうんと幼いが、小さな身体のわりに白い手足は立派なので成長するとそこそこ大きくなる種なのかもしれない。

「わぁ、かわいい」
「お母さんとはぐれちゃったのかなぁ……」

改めて辺りを見渡しても親犬らしき姿はない。さりげなくラピードに目配せで尋ねてはみたものの、ラピードも同族の気配は感じないようだった。
カロルの腕の中で子犬は絶え間なく小さく震えている。抱き上げられた安堵よりも今は突然引きずり出された不安と心細さが勝っているのだろう。

「どうせ面倒見切れないならほどほどにしておけよ」

側には寄らず、少し離れた場所から投げ掛けたユーリの言葉にカロルはぎゅっと目の端を吊り上げ、珍しくユーリを厳しく睨み付けた。

「ひどいよ、ユーリ!こんな小さな子を放っとけって言うの!?」
「これからオレ達がしようとしてること忘れんなよ。危険な旅に連れて行くわけにいかねえだろ」

ユーリが言葉を発するたびにカロルの表情が強張っていく。ひどいことを言っている自覚は当然ユーリにもあった。だが駄目なものは駄目なのだ。

「最後まで面倒見切れないのに中途半端に人肌のあったかさをそいつに教える方がよっぽどひどいだろ」

あいつは駄目だ。縋るような目を見た瞬間、思い出してしまった。曇天の下でも輝くように見える明るい小麦色の毛色に思い浮かべてしまった。

「ユーリのバカ!冷血漢!今ここでこの子を見捨てたらギルドの掟に反するんだからね!」

義をもって事を成せ、不義には罰を。それがユーリの属するギルド、「凛々の明星」の掟、反すれば厳しい処罰を受ける。

「連れて行くのは無理でもボクがこの子の里親を探すよ!ユーリになんか頼まない!」
「あ、カロル、待って下さい!わたしも行きます!」

極悪人の手から守らんとぎゅっと深く腕の中に子犬を抱き締め、「ユーリのバカ!」を繰り返しながら駆けていくカロルの後をエステルが追う。馬鹿で結構だが、何事かと思わず振り返る往来の人々の姿にユーリは深々と溜息を零した。

「ま、青年の気持ちも分からなくはないけどねぇ」
「そうね、せめてもっと濃い茶色とか黒い毛並みの子だったら良かったのに」
「情が移ったら離れがたくなっちゃうもんねぇ。反応があからさますぎて意外だったけど」

みるみる小さくなっていく二つの後姿を見送りながら、残された面々が口々に落とした呟きにユーリは眉根を寄せる。自分の反応が分かりやすかったにしても、それを差し引いても補って余りある仲間達の鋭さはユーリには脅威だ。

「……何の話だよ」
「今更とぼけてどうすんのよ。さーて、あたしらは先に宿に行って休みましょ」
「もう日も落ちるし、諦めてすぐに戻ってくるでしょ」

この頃仲間達とのパワーバランスが崩れてきたような気がする。どんどん自分の発言権、決定権が失われていくのを感じながら、暮れ始めた街をユーリは不貞腐れたようにぶらぶらとした足取りで仲間を追って歩き始めた。




すっかり陽も落ちてから、子犬を抱えたカロルとエステルはしょんぼりとした様子で宿屋に戻ってきた。未完成の街に定住する者はまだ少なく、滞在者のほとんどを占める労働者達も仕事が最優先で手のかかる子犬の面倒を引き受けられる状況ではないとことごとく断られたらしい。

「ご苦労さん、腹減っただろ」

ユーリの「放っておけ」発言がよほど気に入らなかったのか、ユーリの言葉にカロルは膨れ面でぷいとそっぽを向く。
どんどん薄暗くなっていく街を当てもなく駆け回り、頼んでは断られ、また頼んではまた断られ、それを繰り返して身体的にも精神的にも疲労がピークを越えたエステルもまた肩を落とし、空いた椅子にストンと崩れ落ちるように腰を下ろした。

「そいつにはコレな」

やれやれと吐息を零しつつ、ユーリは先に注文しておいたミルクの器を差し出す。湯気は立っていないがほんのりとした温かさが器越しに手に伝わっていた。

「ちょうどいいくらいの温度になってるだろ」
「……ユーリ」
「街に着いた時間が遅かったからな。明日になったらもう少し人増えてるって」

一瞬今にも泣き出しそうに口をへの字に引き結んで俯いたカロルは、「うん」と小さく頷きミルクの器を手元に引き寄せる。仄かな甘い香りが鼻先を掠めたのか、カロルの腕の中でうとうととまどろんだまま子犬は小さな黒い鼻をくんくんと動かした。
明日の朝には早々に出発するつもりだったが、この街を出られるのはいつになることやら。




真夜中、遠く窓の外から聞こえる滝の水音に混ざるか弱い鳴き声にユーリは浅い眠りから覚めた。宿屋の主に用意してもらった布を敷いた空き箱の中でしばらくはおとなしく眠っていた子犬が目を覚まし、温もりを求めて親を呼んでいるのだろう。
今夜一晩はその親代わりのはずのカロルは魔物退治と里親探しで気力体力を使い果たしたのか、得意の寝言も言わずにぐっすりと眠っている。エステルもまた然り。他の面々は気付いて起きているのかもしれないが、見た目には皆静かにシーツに包まっていた。

「……ったく、ラピード」

ユーリの声に足元で丸まっていたラピードがのそりと立ち上がり、空き箱から子犬を咥え上げて戻ってくる。
ぽとんと床に落とされ、しばらく短い足でよたよたと頼りなく歩いていた子犬はぶつかったユーリの足にじゃれつき始めた。カロルに拾い上げられてからはほとんど眠っていたので、どうやら目が冴えてしまったらしい。

「オレよりこっちの方がいいだろ」

ひょいと首根っこを掴み上げ、再び足元で丸くなったラピードの背中に乗せてやる。しばらくラピードの毛皮の中でもごもごと蠢いていた子犬は、やがてころりと床に転げ落ちるや、一直線にユーリの足元に戻ってじゃれ始めた。もう一度掴み上げて同じことをやっても今度は一回目よりも素早くユーリの足元に戻ってくる。どうやら遊んでもらっているものと思っているらしく、何度繰り返しても子犬は喜んで必ずユーリの足元に戻ってきた。
短い尻尾を千切れんばかりに振り、ユーリの足に飛びついたりブーツの爪先に噛み付いてみたり、子犬は実に楽しそうにころころと遊んでいる。その顔はまるで無邪気に笑っているようだ。
間近に同族の大人がいるというのになぜかユーリにばかりじゃれつく小さな身体を仰向けにひっくり返し、丸くぽっこりと膨らんだ腹を少し乱暴なくらいに擦ってやる。するとまるで背泳ぎをするように身をくねらせて手から逃れ、くるりと身体を反転させ四足を踏ん張って立ち上がった子犬は、「反撃だ」と言わんばかりに勇ましく尻尾をぶんぶんと振り回しながらユーリの手に飛び掛かった。

子供が拾ったペットの世話は往々にして保護者に回ってくるもの。こうなるのが目に見えていたから非情と分かっていても関わり合いたくなかったのだ。
よく動く淡い小麦色の尻尾とそよ風にふわふわとなびく金色の髪の面影が重なる。真っ直ぐな邪気のない目で見上げられれば「ユーリ」と名を呼ぶ声が耳の奥によみがえる。

「お前はこっちな」

何もしていない手に果敢に挑みかかっては勝手に転ぶ毬のような小さな身体を抱き上げ、顎を床に付けてはいるものの目は開いているラピードの、今度は背の上ではなく腹の脇に置いてやる。床から顔を上げたラピードと鼻先を合わせて挨拶を交わしているうちにユーリはソファに足を上げてごろりと横になった。

子犬の姿にうっかり思い出してしまった旧知の友は今頃どこでどうしているだろう。もう随分会っていない。だいたいなぜ子犬と彼の面影を重ねてしまったのだろう。毛色はどことなく彷彿とさせるものがあるけれど、それを除けばまったくもって似ていない。ヤツはあんなにかわいくない。
どこで何をしていようと元気でいるならそれでいい、会いたいなんて思っちゃいない。なのになぜ閉じた瞼の裏にあいつの顔が貼り付いているのか。これではおちおち眠れやしない。まったく、あいつはどこまでしつこいんだろう。

頭の中の盛大な悪態に「キュウ」と切ない響きが混ざる。次いで細かな振動が背に伝わった。ラピードの側から戻ってきた子犬が前足でソファの足を掻いているのだろう。事情を話したところ快く子犬の寝床を用意してくれた宿屋の主だが、部屋の備品に傷を付けられてはさすがに良い顔はしないに違いない。修繕費を請求されてもかなわない。

「……なんでこういうちっこいのには好かれちまうのかね」

出会った頃のラピードを思い出す。ユーリがどれだけ邪険に扱っても小さなラピードは懲りずにユーリの足元に駆けてきた。
知らんフリは早々に諦め、ユーリは頭の下に敷いていた手を床に向けて伸ばす。探るほどの苦労もなく自ら絡み付いてきた塊を引き上げ腹に乗せると、しばらくもごもごと動き回った後胸元にぺたりと腹這いになった子犬はユーリの脇に鼻先を突っ込み、やがて長閑な寝息を立て始めた。
どうせ狸寝入りを決め込んでいる連中は事の次第を全て知っているのだろうが、明るくなったら誰よりも早く起きようと決め、ユーリもまた目を閉じる。
ユーリとはリズムの揃わない鼓動をコトコトと響かせる小さな身体は胸に温かかった。




明けて翌日、前日の騒動を思えばあっけなさすぎるほどあっさりと子犬の貰い手は見付かった。探しに出掛けるまでもなく、朝食を摂っている最中の食堂で相手の方からユーリ達に話し掛けてきたのだ。

引き取ってくれたのは同じ宿に宿泊していたユーリよりもいくらか年嵩らしい行商人の男で、昨日ユーリ達が子犬の寝床を宿の主に用意してもらっているのを遠巻きに見ていたらしい。本当はすぐにでも声を掛けたかったのだが、一人きりで結界の外を街から街へ渡り歩く身、本当に面倒が見切れるのか一晩冷静に考えてから決めようと一時は我慢したものの、やはりどうしても忘れ難く声を掛けたのだという。
よほど危険な地域でもない限りは護衛を頼むこともない行商の旅は子犬には過酷かもしれないが、語り合う連れもない孤独な旅に寂しさも募っていたし、賢く主人に寄り添うラピードを連れているユーリが少し羨ましかったというのも理由のひとつだと男は屈託のない笑顔を見せた。

「元気でね」

男に抱き上げられ、状況が分かっているのかいないのかやけに嬉しそうに尾を揺らす子犬の丸い頭をカロルが撫でる。連れていくことはできないと百も承知でも一晩共に過ごせば当然別れはつらく、「貰い手が見つかって良かった」と言いつつも一歩引いた場所から様子を見守るエステルは寂しそうだ。

「じゃあな」

男が背負う道具袋に入れてもらい、紐で緩く縛った口から顔だけ出した子犬は簡潔なユーリの別れの言葉に元気よく一声高く吠えて見せた。何度も振り返っては頭を下げ、手を振り去っていく男の後姿が見えなくなるまで宿の前で見送る。

「行っちゃった」
「優しそうな人で良かったです。きっとあの子、幸せになれますね」

袋の口から突き出した小さな小麦色の頭が見えなくなった頃、しんみりとカロルとエステルが呟いた。親を恋しがって鳴く子犬を昨夜一晩腹に乗せて面倒見てたのは誰だと思っているのかとユーリは内心で呆れたが、それはもう過ぎたことだし、ちゃんと飼い主も見付かったのだからくどくどと言うほどのことでもない。

「さて、オレ達もそろそろ出発の準備を始めるか」

姿が見えなくなってもまだそこに立ちつくしているカロルとエステルを置いてさっさと背を向けたユーリにジュディスが妖艶な微笑を見せた。言いたいことは大体分かったがユーリは気付いていないフリを決め込む。

「困った子達ね、いちばん別れ難いのはあなたなのに」
「どうせ連れて行けないんだ。これがベストだろ」

手の中に残る小さな命の温もりに寂しさを感じないと言えば嘘になる。ついでに思い出してしまった面影の方がしつこくまだ瞼の裏に残っているのも事実だが、それこそ仲間達には何の関係もないことでわざわざ気遣ってもらうほどのことではない。どうせ敏い連中には何もかも見透かされているのだろうけれど。

「あら」

声を上げるジュディスにまだ何か言いたいことがあるのかと言葉を繋ごうとしたユーリは、彼女の視線がユーリを通り越してその背後を見ていることに気付いて振り返った。

「やっぱり君達だったんだね」

今日もどんよりと曇った空の下、一条の光が射したかのように輝く金の髪と白銀の鎧にユーリは声もなく目を微かに見開く。共も連れず、穏やかな笑みを浮かべて一人きりでユーリ達の方へ歩み寄ってくるのは、まぎれもなく昨夜からユーリの瞼に貼り付いたまま一向に消える気配を見せない幼馴染み、フレンその人だった。ジュディスに見えているのだからユーリだけの幻影ではない。

「今朝早くにここに到着してね、一旦隊を解散して本部で次の出発の準備をしていたら窓から見覚えのある集団が見えたものだから」

街の東側の入り口に近い大きな建物が帝国騎士団の本部だ。この街そのものが帝国の主導により建設が進められているものなので、ここから近くはあるがそれぞれにギルド「幸福の市場」の本部がある港町のカプワ・トリムやギルドユニオンの本部があるダングレストよりも騎士団が駐留するには都合が良い。
それぞれが別々の目的を持って行動しているユーリとフレンが旅の中で偶然会う可能性としては他の場所より高いと言えば高いかもしれない。過去にも何度かこの街で会っている。だが今このタイミングでとは。

「……フレン」
「ユーリ?」

ようやく口を開いたかと思えば、名を呼んだきりまた口を噤んでしまったユーリにフレンが不思議そうに首を傾げて見せる。

「子犬の恩返し、かしらね」
「結局出発時間は遅れるのね。積もる話もあんでしょ、お子ちゃまの面倒はおっさんが引き受けるから行っといで」
「んじゃ、あたしは研究結果のまとめでもするかなー」

口々に行っては一人、また一人と去っていくユーリの仲間達にますます訳が分からないとフレンは頭の上に疑問符を散りばめる。説明を求めるフレンの視線にユーリは苦笑で答えた。

「何でもねえよ。それよりお前、ひとりでフラフラ出歩いてていいのかよ。時間あんならその辺でちょっと情報交換でもしようぜ」
「え?ああ……うん、そうだね。僕もユーリと話したいことがあったし……」

不思議顔のままのフレンを伴ってユーリが宿の前を離れ始めたところでようやくカロルとエステルがフレンに気付く。久しぶりの馴染みの顔にいつものごとく「怪我はないか」と駆け寄ろうとするエステルを、二人はこれから大事な話があるから行っちゃ駄目と引き止めるレイヴンの声が聞こえた。
まったくもって、持つべきは理解のあるの仲間達だ。快く送り出してくれた仲間達の厚意に存分に甘えさせてもらおうではないいか。「いいのか」と問うフレンに「いいのいいの」と答えつつ、さて邪魔者は引き離したがこれからどこへ向かうかとユーリは算段を巡らせる。

こんな恩返しがあるのなら、たまには幼馴染みを彷彿とさせる心細げな子犬を拾ってみるのもいいものだ。温もりが去り、少しずつ冷え始めていた手の中と胸の内が瞬く間に温もっていく。
鈍色の曇り空の下、緩やかな風に吹かれて隣りを歩くフレンの金色の髪がふわりと優しく揺らいだ。
 

END