おやすみ
    

夜風に乗って獣の咆哮が聞こえてくる。魔物かもしれないが、鳴き声だけではどちらとも判別がつかなかった。
野営に使うテントには魔物が嫌う臭いが付けてある。簡易結界と呼ばれるものだが、その効果は一晩のみ、世界の異変に伴い凶暴性を増している魔物には通用しない可能性もある。
危険な気配はないか、野営地を中心に四方を見回り、とりあえずの安全を確認してテントの近くまで戻ってきたフレンは、獣除けの焚火の明かりも遠い薄闇の中に特徴的なシルエットを見付けて足を止めた。

「見回りご苦労さま」

夜目が利くと言っていた彼女はフレンが彼女に気付くよりもずっと前にフレンに気付いていたのかもしれない。労いの言葉と共に微かに首を傾げるのに合わせ、彼女の種族の特徴である長い触手がたおやかに揺れる。

「こんな所にいると危ないよ。夜行性の魔物は凶暴だからね。焚火の側に戻った方がいい」

フレンの言葉にクリティア族の美女、ジュディスは仄かな微笑で応えた。
思いがけずユーリ達と旅をすることになって数日。職業柄フレンも一癖も二癖もある人々と出会ってきたが、カロルやリタ、ユーリが旅を共にしている仲間も一風変わった面々が揃っている。

今フレンの目の前にいるジュディスという女性も中々に手強い。落ち着いた艶やかな声とグラマラスな肢体。だが素晴らしく女性的な見た目に反してその内面は驚くほどに骨太だ。これで年下だというのだからさらに驚く。動物的な勘の鋭さと、人当たりは良いのに安易に自分の領域に他人を踏み入らせない壁の厚さと高さ。少しユーリに似ているなと思う。

「あなたがいてくれて助かるわ」
「そうかな?」

前振りのないジュディスの言葉に内心で首を傾げつつフレンも微笑を返す。ジュディスに限って見回りを引き受けてくれるからという単純な理由から出た言葉とは思えなかった。

「あなたがいるとよく眠ってくれるのよ、彼」

ほら来た。変化球のような直球。
ジュディスの言う「彼」とはユーリのことだ。柔らかな微笑から悪意は感じられないが、内心でしっかり身構えてしまうのは仕方ない。何もかも見透かされているのかもしれないと思うと首の後ろがチリチリと焦がされるような緊張にも似た妙な感触を覚えた。

「よほど安心しているのね。いつもならほんの小さな音でもすぐに目を覚ますんですもの。本当にいつ眠っているのかと思うくらい。信頼されていないのかしら、私達。そう思うと、少し妬けるわね」

それを知っているジュディスこそ、いつ眠っているのかと思うくらいに深く寝入っている姿を見たことがない。言葉の割にちっとも妬いているようには見えないジュディスの様子に、フレンは笑みを深めた。

「君も安心して眠ってくれたらと思うけど、どうやら僕では役不足みたいだね」

核心には触れない回りくどい遣り取りは苦手ではない。評議会の連中やお偉方を相手にしていれば自ずとその手のあしらいは身に付いてくる。

「あら、心配してくれてるのかしら。でも私なら大丈夫よ。あなたこそゆっくり休んだらどう?ここのところ毎晩でしょう?生真面目なのね」
「はは、それならお言葉に甘えさせてもらうよ。おやすみ」
「ええ、おやすみなさい」

そうして別れた後で、フレンとジュディスの間に残ったのはお歴々を相手にした後の気疲れではなく、共犯者の企みにも似た奇妙な連帯感。
まったく、ユーリの仲間達は揃いも揃って気が抜けない。そしてこれ以上に心強い仲間もいない。そんな大切な存在に出会えたユーリを少し羨ましく思う。

野営地に戻ると、テントの外、根を張り出した木の下でユーリは荷物入れを枕に横になっていた。ジュディスの言葉通りよく眠っているようで、フレンが近付いても起きる気配を見せない。
隣りに腰を下ろすと、ユーリの傍で丸まっていた相棒のラピードがのそりと腹に埋めた顔を上げる。「キュウ」と小さく喉を鳴らすラピードに人差し指を唇に当てて見せ、寝入っているユーリの顔をそっと覗き込んだ。

「寝相悪くいつまでもゴロゴロしてる姿の方が僕には馴染み深いんだけどな……」

寝顔は幼い頃と変わらない。眠りに落ちる前、目覚めた朝、フレンの隣りにはいつもこの寝顔があった。今はもう遠い、何の力も持たずに下町で生きていた頃の記憶。

「ん……フレン……?」

一度ぎゅっと眉間に力を込め、二度三度と瞬いてからうっすらと目を開いたユーリは横目にフレンを捉えて不鮮明に呟く。

「わりぃ、寝ちまってた、見張り代わろうか……?」
「いや、構わないよ。ユーリはゆっくり休んでいればいい」

起きようとする頭を押し留めるようにそっと手で触れ、不規則に流れ落ちる長い髪を撫でて整えると、素直にユーリは「そうか」と頭を落として身体の力を抜いた。

「眠くなったらちゃんと言えよ……」
「うん、ありがとう」

目を閉じたユーリはすぐに安らかな寝息を立て始める。

―――よほど安心しているのね

そんなふうに言われて悪い気はしない。フレンが側にいることでユーリの眠りが本当に穏やかなものになるのなら嬉しい。帝都を飛び出してからのユーリはとても活き活きとしている反面、時々見ていられないほどにつらそうだから。拳を握り締め、歯を食い縛って、まっすぐに前を睨んで、決して弱音を吐かないその強さが眩しくて、痛い。
一度離れて、再び近付いたフレンとユーリの道。けれど、今こうしてユーリの側にいられるのは一時の夢のようなものだ。必ずまた道は分かれ、フレンはユーリに、ユーリはフレンに背を向けて別々の道を歩み始める。

はやく追い付いて来い。ユーリの旅立ちを知り、そう言葉を残した時、確かにフレンはユーリの前を歩いていた。
けれど今はどうだろう。大きな決断を下し、罪を背負う覚悟をも決めたユーリは、もうフレンには追い付くことのできないはるか前を走っている。
腹を決めた、とユーリは言った。フレンだけが、未だに迷いの中で足踏みをしている。

「……それでも君は僕の傍で眠ってくれるの?」

幼い頃と変わらない、安らかな寝顔で。何の心配もいらないと言うように深く、穏やかに。
なれるのだろうか。君が僕の歩む道の先を照らしてくれる光であるように、僕が君の道を照らす光になれるのだろうか。

「ユーリ……」

頬に流れる夜空の色の髪を指先で梳き上げる。目を閉じ眠っているとどこかふっくらと子供じみて見えるユーリの頬に、フレンはゆっくりと唇を落とした。安らかな眠りを妨げないよう、そっと、綿毛が舞い落ちるように。

「おやすみ」

君の眠りが穏やかなものでありますように。
いつか僕の隣りで安らかに眠る君に、僕が不安を覚えなくなるまで。
おやすみ。良い夢を。


END