新月の夜の訪問者
街の家々の窓から大方の灯りが消える深夜。
しんと静まり返った城の中、自室で部下から提出された報告書に目を通していたフレンは、ふと背後の窓辺に気配を感じて仕事の手を止め振り返った。
「ユーリか?」
窓から侵入してくる者の心当たりなど幼馴染の彼くらいだ。ほとんど条件反射で問い掛けながら窓辺に目を遣ったフレンはそこに見付けた姿に一瞬息を呑んだ。
確かにそこには侵入者の姿がある。だがそれはフレンの確信に近い予想を大きく裏切る姿だった。
艶やかな黒い毛並みとしなやかな体躯はユーリによく似ている。だがピンと尖った三角の耳と、すらりと伸び、思案げに先端を小さく揺らしている長い尾は彼にはないものだ。
「世を忍ぶ仮の姿かい?」
今夜は新月、闇が最も深くなる夜。何か特別なことが起こっても不思議ではないかもしれない。
一瞬の驚きもすぐに治まり笑って投げ掛けたフレンの問いに、下らないと言わんばかりに風変りな侵入者、漆黒の毛並みが美しい猫はアーモンド型の瞳をすぅと細めてそっぽを向いた。瞳はフレンに似た晴れた空の色だ。
「好きなだけそこにいればいいよ」
心を開いてはいないようだが人を恐れてもいないらしい黒猫は、フレンの許可を待っていたように窓辺に腰を下ろすと遥か眼下に広がる街並みに顔を向け、長い髭を心地良さそうに穏やかな夜風にそよがせ始める。
期待は大きく外れたものの不思議と満ち足りた気分で再開した仕事は思いのほかはかどった。
ほどなくして未処理の書類の束が全て処理済みの束になる。さりげなく振り返った背後の窓辺では先程と寸分違わぬ姿勢のまま黒猫が月明かりのない真夜中の街を見下ろしていた。
視界の端に振り向いたフレンの姿を捉えているはずだが、耳がこちらを向くこともなければ尾の先が揺れることもない。だがむしろその徹底した無関心さが逆にこちらをありありと意識しているようで、フレンも「彼」に合わせてなるべく無関心を装い、笑いを堪えながら続きの部屋へと向かった。
湯を使い、長時間座った姿勢のままで凝り固まった身体を解しながら、「彼」はいつまでここにいてくれるだろうかと思いを馳せる。普段より早めに入浴を切り上げ、濡れた髪を拭きながら部屋に戻ったフレンは窓辺に腹を伏せて丸まっている「彼」のシルエットを確認した途端にほっと肩の力を抜き、そんなふうに安堵する自分に思わず苦笑した。もし「彼」がいなくなっていたら、きっとものすごく残念な気持ちになっていたに違いない。
小さく丸まり顔も伏せてはいるものの「彼」が眠っていないのは明らかだ。真っ直ぐに立った両耳はフレンの一挙手一投足をしっかりと探っている。そのあからさまな様子にまた笑いが込み上げた。
「彼」がまだここにいてくれて安堵はしたものの、別に「彼」を構いたいわけではない。きっと「彼」はフレンが少しでも構おうとする素振りを見せたが最後、すぐにこの場から立ち去ってしまうだろう。
構われるのはまっぴらごめん、それでもここから立ち去ろうとしないのなら、フレンは快く寝場所を提供するだけだ。「彼」の丸まっているあの場所でフレンが寝るわけではないので追い払う理由もない。
今夜はもうフレンが本当に待ち望んでいる真夜中の訪問者は来ないだろう。待っていても眠れないまま朝を迎えるだけ、夜中まで起きている口実の仕事ももう手元にはない。
室内の数箇所に灯したランプの火を消し、フレンはベッドのひやりとしたシーツに身体を滑り込ませた。
思った以上に疲れているのか、横になり目を閉じた途端に頭の隅の方から少しずつ眠気が浸透してくる。閉じた目を開くにはひどく力がいりそうなのに頭の芯はまだ起きている、そんなアンバランスな感覚の中でフレンは窓辺で蹲る小さな塊が動く気配を感じていた。
とうとう帰ってしまうのか。少し残念な気持ちで、でも目を開けるのも億劫で目を閉じたまま無言で送り出そうとしたフレンはふと違和感を覚える。窓辺で立ち上がった「彼」はひとつ大きく伸びをした後、どうやら外ではなく室内に降り立ったようだ。
そのまま時折フレンの気配を探るように立ち止まりながら、ゆっくりとベッドに向かって歩み寄ってくる。ベッドのすぐ脇まで来た「彼」はそのまま微動だにせずじっとフレンを見上げているようだった。肌に穴が開きそうな真っ直ぐな視線はユーリの視線の強さによく似ている。
しばらくそうしてフレンを見詰めた後、目覚める気配はないと確信したのか「彼」は音もなく床を蹴ると、ベッドを揺らすことも軋ませることもなく軽やかにフレンの枕元に飛び乗った。この行動にはさすがに少し驚いたものの、睡魔はもうピークに達していて今更もう目は開けられそうにない。見上げるものから見下ろすものに変わった真っ直ぐな視線を受け止めながら、半分以上眠った意識でフレンは「彼」の次なる行動を探る。
やがて「彼」はフレンの顔の横に丸くなって蹲った。喉を鳴らす音が微かに聞こえる。深い呼吸と仄かな体温はたちまちフレンに眠気を運んだ。
自分ではない誰かの体温がすぐ傍にあるというのはとても居心地が良いものだ。
あと一歩のギリギリの状態で意識を保っていたフレンは、その温もりに瞬く間に眠りに落ちていった。
* * * * *
瞼の向こう側が明るい。鳥が鳴き交わす軽やかな囀りが聞こえてくる。世界は朝を迎えたらしい。
眩しさに目を開けないまま、フレンはシーツからのろのろと出した手で枕元を探る。昨夜そこで丸まっていた温もりは既にない。シーツもすっかり冷たくなっている。
少し残念な気持ちを抱きつつ瞬きを繰り返しながら目を開いたフレンは、開け放った窓の内側、執務机の椅子に横柄な態度で座っている見慣れた姿に眩しさのためではなく開いたばかりの目を瞬いた。
「あれ、ユーリ?魔法が解けたのかい?」
「なんだそりゃ、寝言は寝て言えよ」
そこにいたのは確かに人の姿のユーリだった。相変わらず長い黒髪は手を掛けていないくせに朝日を照り返して艶やかに輝いているが、ピンと立った三角の耳もなければすらりと伸び上がる長い尾もない。
寝ぼけたつもりはないが気の利いたことを言ったわけでもないらしく、随分とユーリはご機嫌斜めのようだ。
「いつここに?」
「空が明るくなり始める頃」
太陽は既にすっかり顔を出し、世界を明るく照らし出している。ユーリがここに来てからそれなりの時間が経っているようだ。
今日は帝都を出なければならない任務もないので特別早起きをしなければならないという意識がなかったことと、傍らで眠る猫独特の深い呼吸と温かさにすっかり安心してユーリの来訪にまったく気付かずに熟睡していたらしい。
疲れた身体を引き摺ってようやく帝都に辿り着いてみればフレンは「おかえり」の一言もなく爆睡、ユーリが少々不機嫌になるのも分からない話ではない。
もしかしたらここで「彼」と鉢合わせたのかもしれない。
互いに多忙な生活なのは知っているし、気配に気付かず眠っていても「疲れているんだな」と気遣いこそすれそれで腹を立てるというのはいささか心が狭すぎる感はあるが、潜り込もうとしたベッドに先客がいれば話は別だ。
しかも「彼」はユーリとよく似た艶やかな黒い毛並みと意志の固そうな強い眼差しの持ち主。フレンがまったく気付かずに寝入っている横で壮絶な睨み合いがあったのかもしれない。一種の同族嫌悪とでもいったところか。その様子を想像すると思わず笑いが込み上げてくる。
「なにニヤニヤしてんだよ」
「ごめん……いや、何でもないんだ」
「……あ、そ」
誰かが呼びに来るまで朝寝を楽しむことに決め、フレンは憮然とした表情のまま椅子から立ち上がりゆっくりとベッドに歩み寄ってくるユーリをシーツの端を開いて待った。
「おかえり、ユーリ。少し痩せた?」
「おまえこそ、顎がとんがってるぞ。……ただいま」
ベッドの縁に腰を下ろしたユーリは上体を捻るようにしてフレンに覆い被さり顔を寄せてくる。近付くほどに不機嫌そうだった表情は和らぎ、ユーリの黒い瞳に映る自分の顔がはっきりと見えるようになる頃には柔らかな微笑が浮かんでいた。
しかしその柔らかな気配も互いの唇が触れ合った瞬間に一瞬で覆される。
背に手を回したユーリの身体が打たれたように強張る。何事かと驚いて身体を離して顔を覗き込むと、先程にも増して憮然とした顔のユーリが舌の上から何かを摘み出したところだった。
顔を寄せ、まじまじと見たそれはそよ風にさえふわふわと空高く舞い上がりそうな、細く柔らかそうな漆黒の短い毛。昨夜ここで寝ていた「彼」の毛だ。無言でそれを投げ捨てたユーリは仏頂面で服の前を叩く。数本の毛が朝日の中きらきらと光を弾きながら舞い上がるのが見えた。
「……おまえ、窓開けっぱなしで寝るのちょっと控えろ」
「窓を主な出入り口にしているユーリが言う台詞じゃないよね」
室内に雨粒が入るほどの吹き降りの時と冬の間以外の夜、窓を開けたままにしているのはいつ帝都に戻ってくるか分からないユーリのためだ。閉めていても鍵はかけていないので侵入するのに不便はないが、遠くから見ても窓が空いていれば中にいるという合図でもある。
それを一番理解しているのは当のユーリなのでそれ以上の言葉を続けられず、珍しく不貞腐れた顔でユーリは朝の空が覗く開け放たれたままの窓を横目に睨んだ。
その様子にフレンは思わず吹き出す。フレンが熟睡している間、「彼」との間に一体どれだけのことがあったのやら。窓から視線を戻したユーリは今度は笑いの治まらないフレンを睨んだが、その顔が可笑しくてまたフレンは笑う。
すっかり拗ねてしまったユーリが背を向けそっぽを向いてもフレンの笑いの虫はなかなか治まらなかった。
何に於いても確固たる自信を持ち、それがフレンに関わることとなれば何者にも立ち入らせる隙を与えないユーリに意外なライバルが出現したようだ。
END
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