黒猫と王子様
「また騎士団と大立ち回りを繰り広げたんだって?」
薄闇に甘い声音が柔らかく落ちる。言葉の内容のわりに咎める響きは含まれていないものの呆れの色が濃い。耳の奥を擽られるような親友の声と、夜気に晒した肌を擽る手と唇の温かさに、ユーリはゆるりと吊り上げた唇から笑いを含んだ吐息を零した。
「あいつ……何だっけ、ナントカってこの間小隊長に就任したばっかのヤツ、あれ相当タチ悪いぜ」
反省の色は欠片もないばかりか、どこか楽しそうですらあるユーリの物言いに、フレンは目前の滑らかな素肌に鼻先を擦り寄せながらやれやれと溜息をつく。
城の中のフレンの私室。最小限の調度で見た目には簡素な室内は、開け放った窓から流れ込む庭で咲き乱れる花々の可憐な香りで満ちている。一人で使うには充分すぎる幅ではあるものの、騎士団を束ねる長の部屋のものとしてはやや見劣りのする寝台に乗り上げる影は折り重なるように二人分。壁際に寄せた枕に背を預け、足を投げ出して座るフレンの腿を跨いだユーリは帯を解いた上着の前を大きくはだけ、闇に肌を青白く浮かび上がらせていた。二人の脇に落ちた帯は一足先に果てたようにしどけなくくたりと横たわっている。
「どうせアレだろ、騎士団長は騎士団を私物化するおつもりかとか何とか余計な難癖付けられないようにするための恩情人事だろ?悶着がとりあえず収拾つきそうな頃になってのんびり出てきた副官の副官くらいの微妙なポジションのヤツ、お前と仲良さそうに喋ってんの見たことあるぜ」
いつになく饒舌なユーリをちらりと上目に見遣ったフレンは、たっぷりと唾液を纏わせた舌の先を腹の中央の慎ましやかな窪みに挿し込んだ。逃げ損なった空気が気泡となって密やかな水音を立てて弾け、息を詰めて顎を反らしたユーリの闇よりも濃く艶やかな黒髪がさやさやと衣擦れに似た音を立てる。
「……まぁいいけど、おいたもほどほどにね。そのうち僕も庇いきれなくなってしまう」
投げ掛けられた言葉を否定も肯定もしないフレンの柔らかな金色の髪を指先で遊ばせ、ユーリは声には出さずに肩を揺らして笑った。何が可笑しいのかと再び見上げたフレンにユーリは挑発的で艶めかしい微笑を見せる。
「言っとくけど、今じゃご立派に澄ました顔で説教してるけど騎士団に入ってまず先輩方に手ぇ出したのはフレン、お前だぜ」
「そうだっけ?覚えがないな」
余りにもしらじらしい物言いにユーリは思わず「本当かよ」と金色の髪を引っ張ったけれど、やはりフレンはしらっとした表情を崩さないままにただ薄く笑うばかりだった。
「騎士団に入った頃はオレもお前もまだまだガキで、しかも下町育ちでいいモン食ってなかったから縦にばっか伸びてひょろひょろで、鼻っ柱だけは一人前の貴族のボンボンによくからかわれてただろ?」
騎士団員の全てが貴族出身というわけではなく、むしろ庶民の方が圧倒的に多いが、地位が上がるのに比例して家柄の高さも上がる。それらの者達にとって最下層の出身である上に容姿の目立つフレンと行動の目立つユーリは格好のからかいの種だった。
「下町育ちの黒猫ちゃん、だったっけ?」
「……やっぱ覚えてんじゃねぇか。向こうが手ぇ出してきたらそん時ゃ思いっきり殴ってやろうってこっちは拳握り締めて待ち構えてんのに、お前の方が先に足引っ掛けて公衆の面前で先輩様をすっ転ばせたんだろ」
正攻法で勝ち目はなくとも、相手の不意を突くことならユーリもフレンもお手の物。下町で身に付けた技がある。フレンの見事な足払いを受け、体を一旦宙に浮かせた後に強かに尻を床に打ち付けて悶絶していた先輩騎士は、すぐに我には返ったものの何が起ったのかよく分かっていない様子だった。
その後、フレンは真面目で勤勉な模範的騎士となり、ユーリは素行の悪さが目立つ問題児となったために、尻もちをついた先輩騎士の中ではフレンの軽い報復はユーリの仕業に転換されてしまったらしい。その後も何かと執拗な嫌がらせを受けた。もっともそんなことを気に病むようなユーリではなかったけれど。
「ユーリが手を出したなんて言うからだよ。僕が出したのは足だからね」
「そういうのを屁理屈って言うんだよ、下町育ちの王子様」
唇の端を吊り上げて笑い、ユーリは手の中にフレンの柔らかな髪を握り込む。
貴族ですら羨むほどの輝く金色の髪と、目の覚めるような青く澄んだ瞳はまさにおとぎ話の王子様そのもの。努力の果てに容姿負けしない地位へとのし上がり、高い理想とそれを叶え得る力を身に付けたフレンは今や帝国を代表する顔のひとつだ。肩書だけが頼りの温室育ちの貴族とは違って、フレンには下町で培った雑草並の生命力と性根の強さがある。もう誰からも揶揄されることはない。させはしない。
「あれ、絡まれてんのがオレじゃなかったらお前静観してただろ」
金の髪を指先に巻き付けながらユーリは笑う。短い髪は長く指先には留まらず、すぐに逃げるようにくるりと翻ってユーリの指から離れた。
「大した自信だね。でもまぁ、否定はできないかな」
女性のようになだらかではないものの内側へ引き締まった妙に艶めかしい曲線を描くユーリの腰に手を這わせながらフレンもまた艶やかに笑う。真面目で実直、清廉潔白な印象の強いフレンのこんな表情を知る者は帝都広しと言えども自分くらいのものだとユーリは内心で優越の思いに笑みを深めた。
「でももし絡まれてるのが僕だったらもちろんユーリだって黙ってなかっただろ?ユーリの場合は僕じゃなくても面倒を起こしてそうだけど」
「当たり前だろ。一発が二発に上乗せされるかもな」
どこか得意げなユーリの言い方にフレンはやれやれとまたしても溜息を零す。問い掛けた時点で答えは分かっていたものの、本当にユーリは人の事となると黙っていられない。話しているのは過去のことだが、あれから何年も時を経て、あれこれと悶着を起こして良くも悪くも少しは学んだかと思えば少しも変わっていないらしい。
「僕のためにそこまで自分を犠牲にしてくれてありがとう。ただ、昔話もいいけどそろそろ現実の僕に集中してもらえないかな」
肌をうっすらと覆う熱が仄かな香りを放つほど上気したユーリの体を引き寄せて、フレンは再びユーリの腹に唇を押し当て、臍の窪みに舌先を挿し込む。
「……っ!お前こそ……そこはもういいって……臍から芽が出ちまう」
「芽が出たら僕が責任持って育てるよ。ってほら、また無駄話。集中してくれないと、痕付けるよ」
腹に顔を寄せたまま軽く睨むように上目に見上げ、フレンは緩い呼吸に上下するユーリの胸元に歯の先端をゆっくりと押し当てた。それを目にしたユーリはたじろぐことも慌てることもなくゆるりと妖艶に笑う。
「いいぜ、それくらい堂々と見せつけてやるのが甲斐性ってもんだろ?」
「…………」
フレンとてこれくらいのことでユーリがうろたえると思っていたわけではないけれど、それにしたってこの余裕綽々の反応はどうなのかと舌を巻く。本当に敵わない。
「まったく、ああ言えばこう言う……。口じゃ永遠にユーリに勝てる気がしないな」
呟くと、フレンはおもむろに緩慢に手の平を這わせていた腰に腕を絡ませ、腹にユーリを跨がせたまま体を反転させる。突然の形勢逆転にも抵抗はなく、素直にベッドに背を付けたユーリの長い黒髪が白いシーツの上に散らばった。
「でもそろそろ無駄話は終わりにしようか、下町育ちの黒猫ちゃん」
がさつで口の悪い皮肉屋で、自分のことにはとことん無頓着なくせに月光を弾く黒い毛並みが妬ましいほどに綺麗な猫は、黒い瞳をすぅと細め、可愛げの欠片もない声で「にゃあ」と鳴いた。
END
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