Adieu
 

「分史対策室です」

GHSの向こう側から聞こえてくるそんな抑揚に乏しい声にももう慣れた。この頃はGHSを通して伝えられる内容といえば分史対策室からの指令、もしくは借金返済の催促だ。思わず零れそうになる溜息を、ルドガー・ウィル・クルスニクは息を止めることでやり過ごした。
世界を壊すことにも膨大な額の借金を抱えている現実にも慣れたくはないが、逆に考えれば慣れなければ先に壊れるのは自分自身だ。自ら選択した結果とはいえ、少しずつ腹の底にどろりとした黒いものが溜まっていくような息苦しさは拭えない。何も知らず兄の庇護の元、ぬくぬくと暮らしていた頃が懐かしい。さほど遠い昔のことでもないのに。

もっとも、この重苦しい感覚を背負うのが自分独りきりだったならとうの昔にルドガーは壊れていただろう。まだ立っていられるのは独りではないからだ。
ルドガーの運命を変えた少女、エルとの出会い。全てが変わってしまったあの日、運命に導かれるように出会った青年ジュードと、彼を通じて繋がった仲間達との輪。彼らが共にいてくれるからこそ前を向いていられる。
そしてもう一人。兄、ユリウス・ウィル・クルスニクの存在は今のルドガーにとって良くも悪くも大きな支えとなっている。
たった一人の家族。大企業クランスピア社のトップエージェント。彼はルドガーの誇りであり、憧れだった。運命に翻弄される中、なし崩し的に自らがクラン社のエージェントになってからもその想いは変わらない。

あの日以来、クラン社に背いたユリウスは逃亡を続けている。ルドガーには何ひとつ真実を語らないまま。
ただ会いたかった。疑っているわけでも、怒っているわけでもない。ただ会って話がしたい、それだけだ。
向かい合って話をする、今までそれは当たり前の日常だった。それなのに今はたったそれだけのことがこんなにも難しい。ほんの少し真実に近付いた今、あの穏やかな時間がたとえ嘘で塗り固められたものだったのだとしても、それも含めてきちんと兄自身の言葉で本当のことを聞かせてほしかった。

「それでは対処をお願いします」

用件だけを一方的に告げ、GHSの回線がぷつりと途切れる。そういえば指令を受けている途中だった。
だが聞いていようと聞き逃していようとこの後自分がするべき行動に変わりはない。転送されてくる座標をもとに分史世界、本来の世界から枝分かれして生まれた可能性の世界へ進入し、その世界の核となる時歪の因子(タイムファクター)を探し出して壊す。それがクラン社のエージェントとなったルドガーの仕事だった。
程なくGHSに分史世界への進入点が転送されてくる。今回の進入点はエレンピオスのトルバラン街道付近、ルドガーの住むトリグラフに近い赤茶けた岩が剥き出しになった荒野のようだった。

GHSを閉じ、辺りを見渡す。一年前に世界を隔てていた壁、断界殻が開放された後、エレンピオスとリーゼ・マクシアの二国を繋ぐ橋として建設された街マクスバードは陰鬱な空気などまるで漂わせず賑わっている。
仲間達の姿は見えない。ジュードは源霊匣研究のためにヘリオボーグへ、商人のアルヴィンと新聞記者のレイアはそれぞれの仕事へ。ガイアスとローエンは国政のためにリーゼ・マクシアに戻っている。エルはエリーゼに誘われてミラと一緒にどこかに買物に出掛けている。大精霊ミュゼの姿も見えないが、彼女の行動は人間の想像の範疇を越えているので躍起になって探す必要も心配する必要もない。

仲間がいないのは好都合かもしれない。指令が入った時に側に誰かがいれば、それが誰であろうと必ず付いて行くと申し出てくれる。その言葉をありがたいと思うし、独りで行くよりも何倍も心強い。
それでも世界を壊す、言い換えればそこで暮らす何千何万の人々を殺す場になど必要以上に仲間を連れて行きたくはなかった。ルドガーがそんなことを言おうものなら彼らは巻き込まれたのではなく自ら飛び込んだのだと言うだろう。そんな彼らだからこそ、これ以上巻き込みたくはなかった。

幸い今回の指令は深度も浅く、道標に関わる重要なものでもないらしい。一人でも問題はないだろう。
軽く目を閉じて示された進入点に意識を集中させる。周囲の音が消え、人や物、あらゆるものが圧縮され腹の底に落ちたような感覚の後、浅い眠りから覚めるように目を開くと、目前から賑やかな街の風景は消えていた。乾いた風が赤い砂埃を舞い上げる。トルバラン街道だ。ヘリオボーグへと向かう街道だがトリグラフ寄りの地点らしい。岩山の合間にトリグラフの街並みが見て取れた。

のんびりしてもいられない。遊びに来たわけではないのだ。はやく時歪の因子を探さなければ。そう思って踏み出した足を止め、ふとルドガーは背後を振り返った。
砂埃に霞んで見えるトリグラフの街並み。この可能性の世界にはこの世界のルドガーが暮らしている。兄のユリウスも。分史世界の自分に会ったことはないが、以前兄には会ったことがある。アルヴィンをアルフレドと呼び、ルドガーに悪いことは教えるなと穏やかな声で弟贔屓な兄馬鹿ぶりを見せていた。ルドガーが何も知らなかった頃の兄のままに。

やはり仲間を待たなかったのは間違いだったのかもしれない。仲間がいればこんなことは考えなかっただろう。指令の遂行に集中できたはずだ。
会ってどうする。どうせこの世界は壊してしまうのだ。他でもない、ルドガー自身が。
仲間がいないのは幸いかもしれない。指令の遂行だけに捕われなくてすむ。
会ってみたい。彼らがどんな可能性の中で暮らしているのか。知りたい。違う可能性の中でならどんなふうに自分は生きられるのか。
会っても無駄だ、知っても無駄だと頭の中で声が響く。その場から一歩も動けないまま散々躊躇を繰り返し、結局ルドガーはその声が聞こえなかったフリを選んだ。

トリグラフにはルドガーのよく知る風景が溢れていた。店舗の売り子が賑やかに客を呼び込む声が響き、その中を忙しそうなビジネスマンが足早に通り抜けていく。誰もこの世界が本当のものではないなどとは思いもしない。間もなく世界ごと自分が消滅してしまうことなど知りもしない。誰も今目の前を横切った男が自分を殺す者であることなど考えもしない。
顔を伏せ、なるべく周囲の音を聞かないように意識しながらルドガーは自宅マンションへの道を駆けた。マンション前の公園では子供達が楽しそうに遊んでいる。遊具の数も位置も正史世界と寸分違わない。見上げるマンションの窓に掛かる各部屋のブラインドの色も見慣れたものだ。正史と分史、何ひとつ変わらない日常がここにはあった。

マンションのエントランスに入ると、まず右手にある集合ポストを確認する。夕方に届くはずの夕刊はそこにはない。まだ投函前なのか、誰かが部屋に持ち帰ったのか、どちらとも言えない微妙な時間帯だ。
この世界の自分とはち合わせたらどうしよう、どう言い訳しよう。そこまで考えが及んでいないのに自宅に行ってみようなど浅はかすぎる。そう思うのに足は止まらず、乗り込んだエレベーターはあっという間に三階に着いた。

扉にロックが掛かっていればいい。留守であってくれと今更願いながら、それでもこのまま引き返すという選択は出来ずに扉の前に立つ。
ルドガーの勝手な願いは叶えられることなく、シュっと軽い音を立てて扉が開いた。見慣れたリビングの風景が目の前に広がる。

「ルドガー?」

扉が開く音に振り返った男が声を上げる。兄のユリウスだ。いつもはセットして上げている前髪を下ろしたまま、部屋の中央のテーブルで新聞を広げている。仕事は休みだったのかもしれない。

「早かったじゃないか。仕事は?」

この世界のルドガー・ウィル・クルスニクはどんな仕事をしているのだろう。この世界でもクラン社のエージェントなのだろうか。それなら兄がこんな穏やかな顔で迎えてくれるはずがないか。

「……うん、まぁ……」

見たことか。何が「まぁ」だ、まったく答えになっていない。
頭の中は真っ白で、上手い言い訳など何ひとつ浮かんでこなかった。表情もきっと引き攣っている。
じっとルドガーを見詰めるユリウスの表情が微かに曇ったように見えた。どうにか言い逃れる言葉を、それが無理なら一刻も早くこの場から立ち去るための次なる行動を。どうにか引いた足の踵がこつんと固い壁にぶつかる。いつもの癖でつい部屋の中に踏み込んでしまい、扉は既に閉じられてしまっていた。

丁寧に畳んだ新聞をテーブルに置き、席を立ったユリウスがゆっくりと立ち尽くしたままのルドガーの前に歩み寄って来る。
どうしよう、何か言わなければ、この世界のルドガーのフリをしなければ。考えれば考えるほど身体が動かなくなっていく。

「まだ怒っているのか? ルドガー」

明らかに挙動不審のルドガーに向かってすっとユリウスの手が伸ばされる。何の脈絡もなく殴られるはずがないと分かっていながらも、反射的にルドガーはぎゅっと目を瞑った。
ほんの僅かな空白の後、ふわりと頬に温かなものが触れる。人肌の温もり、手袋をしていない方の兄の手だ。広い掌が包むようにルドガーの頬に触れていた。頬を撫でた手は耳の横から髪の下に潜り込むようにして頭の後ろに回される。

「悪かった、許してくれ」

低く抑えられた声音は「心から」と言うにふさわしい。その声は耳のすぐ傍で響いていた。
吐息が耳に掛かる。これほど近ければ唇が直接触れてしまうのではないか、そう思った矢先、本当に柔らかな感触が耳元を掠めてルドガーは背を強張らせた。
なんだ、これは。どういうことだ。
既に真っ白だと思っていた頭の中が一層白くなる。不快感や嫌悪感はないが、ひたすら混乱している。身体を引こうとしたがいつの間にかユリウスの左腕が背に回されていて果たせなかった。

抱き締められている。ようやく頭が状況を表す言葉を弾き出した。
厳しい面も持ち合わせているが、正史世界のユリウスも概ね弟であるルドガーには甘い。だが何をしてこの世界のルドガーを怒らせたのかは知らないが、この許しの請い方はなんだ。正史世界でルドガーがこんなふうにユリウスの腕に包まれたのはもっともっと幼い頃のことだ。
どうしよう。どうしよう。頭の中は白を通り越してチカチカと瞬き始めていた。

「……ふっ」

ふと背に回されていたユリウスの腕の力が緩む。ルドガーの耳元に顔を伏せるように丸めていた背を起こしたユリウスは穏やかに笑っていた。離れ際、大きな手がポンとルドガーの背を軽く叩く。

「すまない、驚かせてしまったようだ」

二転三転する展開にすっかり取り残されたルドガーは瞬きも忘れ、呆然とユリウスを見上げて立ち尽くしていた。言い訳もこの世界のルドガーのフリも既に頭の中にはない。

「俺を騙そうとした罰だよ、正史世界のルドガー」

だが続いたユリウスの言葉に、ザァと頭から血が引いていく音をルドガーは聞いた。あまりにもきっぱりと断定した物言いには言い訳や弁解の余地もない。

「こっちのルドガーには昨夜ここにくっきりと痕を残してしまってね、職場で見られたらどうするんだって朝からそれで大ゲンカさ」

ユリウスの方には驚きも戸惑いもなかった。「ここ」と言う時に僅かに首を傾げ、自らの首筋をトントンと指先で叩く。よほどの偶然でも起こっていない限り、ルドガーの同じ場所には痕など僅かほどもないはずだ。
ユリウスの言う「痕」の意味が分からないほどルドガーも子供ではない。確かにここは分史世界だ。正史世界のユリウスもルドガーには甘い。ルドガーもユリウスを尊敬している。だがそこにこの世界にある感情はない。ないはずだ。

「……いつの間にここは分史世界になっていたんだろうな。やはりおまえはクラン社のエージェントになる道を選ぶのか」

ユリウスの声音が変わる。口元は笑んだまま、ルドガーを見詰めるユリウスの目には寂しげな色が滲んでいた。

「その運命を変えようと躍起になっていた俺は一体どれだけの分史世界を生んだんだろうな……」

分史世界は可能性の世界。ルドガーが兄に憧れ、兄の背を追わなければこんな世界があったのだろうか。何も知らないままでいれば、こんな世界で生きられたのだろうか。何も背負うことなく、ただただこうして、たった一人の兄と他愛のない日々を送れていたのだろうか。

「どうやら俺が時歪の因子ではないようなのが救い、かな。これの意味が分かるな?」

寂しげな表情を隠し、和んだ目元に茶目っ気を滲ませてユリウスが笑う。
この世界のユリウスが時歪の因子ではない意味。時歪の因子を探す手掛かりは正史世界とは最も異なっているものを見付けること。時歪の因子が目の前のユリウスではないのなら、それはこの世界のユリウスが正史世界のユリウスと異なるものではないということ。それは、その意味は。

「さぁ、仕事なんだろう? もう行きなさい」

思いが纏まる前に、静かにユリウスが促す。穏やかな声音。だが決してルドガーの想いとは交わることのない、こんなにも近いのに遠い声。
たとえこの世界が本来の歴史から逸れた偽りの世界なのだとしても、この場において異質なのはルドガーの方だった。どんなに望んでも足掻いてもこの世界の存在にはなれない。

「ああ、でも……」

ふとユリウスが大事なことを思い出したと言うようにまっすぐに視線をルドガーに合わせる。

「あと一時間ほどで俺のルドガーが帰ってくるはずなんだ。それまでこの世界を壊すのは待ってもらえないかな。ちゃんと仲直りがしたいんだ。勝手な願いで申し訳ないが」

それだけを告げ、答えを待つことなくユリウスはルドガーに背を向けてしまった。「俺のルドガー」でないならもう用はないと言わんばかりに。
耳慣れたメロディが耳に届く。穏やかだがどこか切ない、会いたい人を想う歌。証の歌を口ずさみながらふたつ並んだ扉の左側、正史世界ではルドガーの私室である方の扉の奥にユリウスの広い背中が消えていった。

馴染んだはずの自宅の風景の中、ぽつりと取り残される。自分だけが異質な世界。正史から見れば偽物でも、ここを本物と信じて本物の命を生きる人々の住む世界。これから自分が壊す世界。
自分を受け入れてくれる人も、場所も、物もない世界をぼんやりと歩く。子供達が楽しそうに遊ぶ声を聞きながら、建物の影に隠れるように立ち尽くしたルドガーの前を、一人の青年が足早に通り過ぎた。
両手で抱えるほどに膨らんだ袋から零れる鮮やかな赤。熟した食べ頃のトマトはユリウスの好物だ。

駆けていく自分の後ろ姿なんて初めて見る。きっとあいつの手には双剣を振るって出来たタコなんてない。噎せるほどの血のにおいも知らないだろう。あいつを殺して、この世界のルドガー・ウィル・クルスニクになり変わろうか。
できもしない妄想は瞬く間に掻き消えていく。あのユリウスにとってルドガーが「俺のルドガー」ではないように、ルドガーにとってもあのユリウスはルドガーのユリウス・ウィル・クルスニクではない。なり変わりなど叶いはしない。本当にそれを望んだりもしない。
それにクラン社のエージェントとなったルドガーの行動は本社に筒抜けだ。引き返す道はない。進むしかないのだ。それがルドガーの選んだ生き方、正史世界の現実だ。分史世界の自分に背を向け、逆の方向にルドガーは歩み出す。

トルバラン街道に戻って程なく、この世界の時歪の因子はあっさりと見付かった。乾いた風が吹き抜ける荒野にぽっかりと広がったオアシス。枯れ木のような痩せ細った木がまばらに生える中にあって、逆に不健康なほどに見事な枝葉を伸ばす巨木がこの世界の核となるものだった。
何度経験しても慣れない、そしてこの先も慣れることはないだろう破壊の瞬間。今回ばかりは時歪の因子が人に憑依したものでなくて良かったと思う。

槍のひと突き、たったそれだけで世界がひとつ消える。何千、何万、何億の命が消える。謝りはしない。謝れば、己の行いが罪だと認めれば前に進めなくなってしまう。進まなければならないのだ。
時計が時を刻む音が遠く微かに聞こえていた。腹の底に凝縮されていたあらゆるものが意識ごと裏返すように膨張する感覚の中で思う。
彼らはちゃんと仲直りできたのだろうか。





目の前に再びマクスバードの賑やかな光景が広がっていた。進入前と後、正史世界でどれだけの時が流れたのか一見しただけでは分からない。

「ルドガー!」

喧騒を掻き分けて一際高く大きな声が響き渡った。
毎朝ルドガーが求めに応じてきっちりとふたつに分けて結い上げている亜麻色の髪を潮風になびかせ、幼い目尻を吊り上げて頬を膨らませた少女がまっすぐにルドガーの元に駆け寄ってくる。どうやら正史世界ではそれなりの時間が流れていたらしい。少女の後にぽったりとした腹を揺らしながら、それでも猫らしい軽やかさで愛猫のルルが続く。

どこに行っていたんだ、探さなければならない者の身になってみろ、挙げ句の果てには迷子はむやみにその場を動いては駄目だと父親から教わったと矢継ぎ早に高い声で並べ立てる少女にルドガーは素直に謝った。その言葉の裏側にある少女の本当の気持ちがルドガーの冷えた心を温めてくれていた。
素直な謝罪にほんの少し面喰らったように言葉を飲み、つんとそっぽを向いてもう迷子にならないように手をつないであげてもいいよと差し出された少女の手はルドガーの掌にすっぽりと収まるほどに小さい。ルドガーの運命を大きく変えた少女の小さな手。まだ見えない、大きな未来へと向かうための、たったひとつの約束を交わした手。

何も知らなかった頃が懐かしい。あの頃のままだったならどんなにいいかと思うこともある。
けれどルドガーは知ってしまった。歩む道を選んでしまった。引き返せないなら、全てを知らなければならない。
まだ隠された真実の中に、確実に兄はいる。会わなければならない。会って、話をしなければならない。可能性の世界の兄ではなく、真実の世界の兄に。ルドガーのユリウス・ウィル・クルスニクに。

少女の手を握り締めたルドガーの胸の中で、またひとつ真実へと向かうための決意が固まった。
 

END