Bacchus
   

下町の広場から豊かに溢れ出す水の音が消えて少し経つ。代わりにかつて水道魔導器が設置されていた場所には共同の水場が造られ、日の出から日没にかけては次々と訪れる住人の社交の場となっていた。すっかり日も落ち、夕飯時も過ぎた今の時刻ではもう人の姿はなくひっそりと静まっている。

湧き出した水が川となって流れていた路地の脇を走る水路は水源を失くし以前ほどの水の流れはない。まとまった雨が降れば水路としての役割を果たすその溝もしばらく雨がないと底を薄く湿らせている程度で、まだ悪臭とまでは言わないものの僅かに饐えたような臭いが上がってきている。これでは衛生的にも良くない。何か対策を講じなければ。
他所事ばかりに気を取られて故郷から意識が逸れていたことを恥ずかしく思いながら、フレンは窓から温かな灯りと談笑の声が零れる薄暗い路地奥の建物を目指した。

「ユーリ、大丈夫?もう部屋戻って休んだ方がいいんじゃない?」

ちょうど灯りの零れる窓の下に差し掛かった瞬間、中から聞こえた声にフレンは思わず足を止める。聞こえた声はまだ声変わりの兆しのない高い少年の声。フレンも何度か言葉を交わしたことのある声だ。その少年の声に応える声は聞こえてこない。
下町に戻っていたのか。少年の声よりも、少年が呼んだ名に恋を知ったばかりの少女のような疼きを胸の奥に覚え、フレンは止めた足を再び踏み出した。少し歩調を速め、酒場へと続く木の扉を押し開ける。

「いらっしゃ……あら、フレンじゃないの」

扉の開く音に素早く反応して戸口へ顔を向けた女将が目を丸く開き、高い声を上げた。
宿も兼ねるこの店の宿泊客らしい旅装の四人組と、顔に見覚えはないが下町の新しい住人なのか気楽にふらりと立ち寄ったという風情の軽装の無口そうな男が一人、そして先程窓から漏れ聞こえた声の主の少年と彼の仲間であるクリティア族の美女、それぞれの目が一斉にフレンに向けられる。酒に酔っているのかただ眠いだけなのか、珍しく壁にだらしなく寄り掛かっている最後の一人の姿はあえて確認しない。

「こんばんは。これ、お土産。この間美味しかったって言ってたでしょう?」

手にしていた袋を厨房の作業台越しに女将に手渡す。中は干した果実を花の香りの蜜に漬け込んだものだ。一度遠征先で土産として買ったところ、この宿の看板息子のテッドにもとても評判が良く、再び手に入れる機会があったので少し多めに買い求めてきた。

「あらあら、ありがとう。こんなにたくさん」
「これを練り込んで焼いたパンがすごく美味しかったから。実はそっちを狙ってる」

冗談めかして下心を明かすと、「任せて」と女将は朗らかに笑って答えた。次いでその目がそれとなく促すようににフレンの背後に流れる。
笑んで軽く頷き、それとは悟られないようひっそりと自分の胸の内だけで呼吸を整えてから、フレンはゆっくりと店内へと目を向けた。旅装の集団と無口な男の目は既にフレンには向いていない。騎士団の鎧を身に付けていなければ人の目など集まらないものだ。
今フレンに向けられているのはギルド凛々の明星の幼い首領カロルと、ギルドメンバーのクリティア族の女性ジュディス、そして同じくギルドメンバーでありフレンの親友でもあるユーリ・ローウェル、三人分の視線。

「よーう、フレン。相変わらず男前だなぁ」

壁に寄りかかったまま片手だけをひらりと上げるユーリの声には緊張感も張りもない。三人が囲むテーブルの上には大方平らげられた料理の皿が数皿とそれぞれの前に飲み物の入った木の器。年齢的にカロル少年は別として、おそらくユーリとジュディスが飲んでいたのは酒だろう。
ユーリはあまり酒を飲まず、フレンとも飲み交わしたことはほとんどない。飲めないわけではないがそれほど強くはないということに加え、どこまで飲めば酔い潰れるのか、その限界をユーリ自身が知らないため、警戒心の強いユーリは失態を恐れて人に交わって飲むことは滅多にないのだ。
そのユーリが少々ご陽気になるくらいに飲んでいるというのは珍しい。それだけ一緒にいる仲間達に心を許しているということか。

「それはどうも、君に褒めてもらえるとは光栄だね」

カロルとジュディスとも軽く挨拶の言葉を交わしてからゆっくり歩み寄る。近付くごとにユーリのほんのりと潤んでとろんと眦の落ちた目が酒のせいだけではないのが明らかになってきた。酒の力というのは恐ろしい。このままユーリをこの場に置いておけば面倒なことになるかもしれない。
視線を感じて顔を向けると、ジュディスの「そうした方がいいと思うわ」とでも言いたげな目と視線がぶつかった。何も言っていないどころか顔に出してもいないつもりだったというのに、このクリティア美女の察しの良さには毎度のことながら驚かされる。カロル少年の純粋な憧れを失望に変えないためにもユーリはさっさと部屋に連れ帰るのが得策だろう。窓から漏れ聞いた言葉ではカロルもユーリに部屋に戻るよう勧めていたことでもあるし。

「ユーリ、部屋に戻ろう。こんな所で酔い潰れたらカロルとジュディスに迷惑だよ。僕が部屋まで送るから」

長身のわりに細身とは言え、酔いが回って芯のない大の大人の男を上階の部屋まで連れていくのは子供と女性だけでは厄介だ。
返事を聞く前に椅子にだらしなく座っているユーリの脇の下に肩を入れて強引に立たせる。思いのほか両足はしっかりと床を踏みしめてはいるものの自分の足ですぐに歩き出す気配はない。

「おー、なんだー?運んでくれんの?」

密着する身体に気を良くしたのか、しな垂れかかる勢いでユーリがフレンに全体重を預けてくる。身長差がないので顔の位置が異常に近い。吐息が首筋に掛かるくらいだ。しかも肩口に頬を預けて上目遣いにフレンを見るユーリの目に篭もる熱はいよいよ妖しさを帯びつつあった。

「……まったく、散々土嚢を担いだ後だっていうのに締め括りが君とはね……」
「おお?」

腰を落として肩を腹に当て、細長いユーリの身体を担ぎ上げる。魔導器を失ってから以前にも増して肉体労働が増えているので力が付いてはいるものの、いくら細くても重いものは重い。だがこういう作業は勢いだ。荷重がつらくなる前にさっさと運んでしまうに限る。

「それじゃあ、ユーリは僕が部屋に連れ帰っておくよ。みんなはごゆっくり」
「ありがとう、助かるわ」

これでようやく気兼ねなくのんびり出来ると言わんばかりにすらりと伸びた足を悠然と組み変えるジュディスと目配せを交わし合い、苦笑する女将に時間が空けばまた来る旨を伝えてからカロルが気を利かせて開けて待っていてくれる戸口へと向かう。

「なんだー、オレ土嚢扱いかよ。どうせなら姫さん抱っこでもしろよ」
「土嚢はもっと大人しいよ」

陽気に笑いながらパンパンとフレンの尻を叩くユーリに半ば呆れつつ扉を潜って暗い路地に出ると、室内が温かかった分余計に涼しく感じられる緩い風が吹き抜けた。これでユーリの酔いも若干覚めるのではと思ったのも束の間、再び尻を叩かれフレンは溜息を吐く。 仕返しに肉の薄い尻をつねってやっても「いてぇ」とへらへら笑う完全なる酔っ払いの姿に溜息を通り越して笑いが零れた。

「ありがとう、ユーリはちゃんと部屋に運んで寝かせておくから。もし明日自分の失態に落ち込んでいてもそっとしておいてやってくれ」
「……うん」

振り返ったカロルは見たこともないユーリの姿に少々呆然としているようだが、これくらいで彼らが培った信頼が崩れ去ることはないだろう。ユーリが完璧で非の打ち所のない象徴的存在ではないのだと知っていてもらえる方がフレンとしてもありがたい。放っておけばすぐに面倒に首を突っ込み、無謀な行為を繰り返す幼馴染には一人でも多くのストッパーが必要だ。

「おやすみ」
「おやすみなさい」
「おやすみー、お子様は早く寝ろよー」

肩に担ぎ上げられ天地が逆になり、長い髪を逆立てたユーリが呑気に手を振る。
今この時点では「ユーリこそ」と苦笑して手を振り返すカロル少年の方がいくらか年上の大人に見えた。



* * * * *



階段を上がり廊下に入って一番手前の部屋、今出てきたばかりの酒場の入口のちょうど真上にあたる部屋がユーリの下町での住処だ。
以前は長く下町を離れるわけにはいかないからとずっと住んでいたこの部屋だが、今では不在にしている日の方が圧倒的に多い。それでも長年住み続けた部屋に沁み込んだユーリの気配と香りは一歩踏み込めばたちまちフレンを包み込んだ。

二人になるや少し大人しくなったユーリをベッドに下ろして横たえる。ブーツを脱がせ、帯を解いても何も言わず、手も出してこない。その代わり、肌が焦げ付きそうなほどの視線を感じていた。
抜いた帯を丁寧に畳むフレンの上着の裾をひょろりと伸びたユーリの手が掴んで引っ張る。

「……やらねえの?」

灯りを点けていない薄暗い部屋の中で、横たわったままフレンを見上げるユーリの夜空よりも深い黒紫の瞳が潤んで僅かな光を照り返していた。張りのない少し舌足らずな声は端々が溶けてこの上もなく甘い。

「やらないよ」
「なんで?不能?……いてっ」

聞き捨てならない単語に指先で額の真ん中を弾いてやる。

「それを君に言われたくはないな」
「なんだとー、オレが不能だって言いたいのかよ」

弾かれた額を押さえ、むっとした表情でフレンを睨み上げていたユーリは、ややあってゆっくりと唇を挑発的な笑みの形に撓らせた。あまり良い予感はしない。
額を押さえる指先がすぅと滑って大きく開いた上着の胸元に挿し込まれ、片膝がゆっくりと扇情的に折り上げられる。

「試してみるか?」

ユーリが素面ならこの状況とこの一言は多大なる破壊力を持っていたに違いない。だが惜しいかな、今のユーリは泥酔とまでは言わないものの、ほろ酔いと言うには少々物足りないほどに酒の作用が強く働いている。対するフレンがまったくの素面なだけに余計に冷静さに拍車が掛かっていた。冷えた頭は多少はこの酔っ払いに付き合ってやらなければやがて駄々をこね始めると教えている。

「……まったく……」

溜息が零れるのも仕方ない。今フレンがどれだけのものを抑え込んでいるのか、ユーリはちっとも分かっていない。
仰向けに横たわったまま見上げるユーリの顔の両脇に手を付いてゆっくりと顔を寄せる。するとまるで腹を撫でてやっている時のラピードのように「くふん」と鼻腔から甘ったれた吐息と声を零し、ユーリもまた嬉しそうに顔を寄せてきた。

唇が触れ合う前に伸ばした互いの舌先が触れ合う。細かな水音を弾けさせ、絡み付くようにうごめきながら奥へと進んで来ようとするユーリの舌を押し返し、息を抜く隙間もないほどにぴたりと唇を合わせた。
舌先で探る熱い口内に広がる果実の爽やかな香りと蜜の甘い香り、その奥の奥にようやくほんのりと酒の香りが漂う。女将手製のほとんどジュースに近い果実酒でここまで気分良くなれるのだから、この手の嗜好品に関してはユーリは非常に安上がりだ。

「……んー……」

自ら角度と深さを変えながら唇を重ねてくるユーリの両腕が覆い被さるフレンの首にぶら下がるように回される。情熱的なのか緩いのか、巧みなのか拙いのかよく分からないがとにかくこの状況にユーリは大満足らしい。大半は好きにさせつつ、たまに舌先で応えてやると気分を良くしてさらに深く絡んでくる。
唇が離れるのは角度を変える際のごく僅かな一瞬だけだが呼吸は鼻で上手に行っているらしい。あるいは酔いのせいで多少の息苦しさには気付いていないのか。

「ん……ふ……」

やがて互いの唇が溶けて崩れそうなほどに柔らかくなった頃、首の後ろに掛かる負荷がふと消える。次いでぱたぱたと左右のシーツの上に首に絡んでいたユーリの両腕が落ちた。

「ほら、寝た」

間近に聞こえる深い寝息。潤んだ唇を薄く開いた無防備な顔が薄闇にぼんやりと浮かび上がる。
今の今まで舌を絡め合う深い口付けを交わしていたとは思えないくらいにあどけない様子でユーリはすっかり眠りに落ちていた。

「ね、始めなくて良かっただろう?」

雰囲気に吞まれて誘われるままに行為に及んでいれば中途半端な状態で投げ出されたのはきっとフレンの方だった。まさかここまで見事に唐突に眠りに落ちるとは思わなかったけれど。濡れた唇を指先で拭い、乱れた髪を手櫛で撫で付けてフレンは苦笑する。
普段飲まない酒を同じテーブルで飲み交わすのも信頼の証、酔いのせいとは言え少々ご陽気が過ぎるほどに箍が外れてしまうのも信頼の証、イメージ急落の姿を見せても白い目で見られないのも信頼の証、すっかり酔いが回って目の前で無防備に眠ってしまうのも信頼の証。

「僕はちょっと面白くないけどね」

まったくの偶然でせっかく久しぶりに会えたというのに、これでは夜が明けてから今夜のことをユーリがしっかりと覚えているかどうか甚だ怪しい。朝までここにいるわけにもいかないし、次に会えるのはいつになるのかもさっぱり分からないというのに。
もはやフレンの存在などすっかり忘れたようにすやすやと幸せそうに眠るユーリに仄かな溜息と共に笑いを零し、足元に畳まれていたシーツを掛けてやろうと手を伸ばしたフレンはふと湧き上がった悪戯心に手を止めた。

背に手を入れ上体を起こしても目覚める気配のないユーリの上着を脱がせて丁寧に畳み、先に抜いた帯と一緒にして脇に置く。自分で脱いだのなら畳むようなことはせず椅子の背にでも適当に掛けておくだろうから、この行動が自分のものではないとユーリなら気付くはずだ。
起こして脱がせて、再び寝かせても相変わらずユーリに目を覚ましそうな様子はない。これもフレンに対しては警戒心もなく安心しきっているからなのだろうと思うと嬉しい反面、その警戒心の無さが逆に不安にもなる。これから先、きっとユーリには信頼できる仲間が増えていくだろうから。

「くだらないって笑ってくれて構わない」

緩やかな寝息に上下する胸元に顔を寄せて唇を押し当てる。いつも大きく開いている服の胸元から見えるか見えないかギリギリの際どい場所を選び、強く吸い上げて残した刻印。無防備な肌で所有を主張する赤い痕。独占欲の証。 せっかく会えたというのに絡むばかりでちっとも構ってくれなかった愛しい酔っ払いに対するささやかな腹いせ。

「目が覚めてから後悔するといいよ」

笑って、あどけなく薄く開いた唇に軽く触れるだけのキスを落とす。感触に反応したのか笑うように一度唇を結んでから、横たわったまま心地良さそうに身体を伸ばしたユーリは、事もあろうに寝返りを打ってフレンに背を向けてしまった。まったく、どこまでも小憎らしい。
半分だけ開いた窓から涼しい夜の風が緩やかに流れ込んでくる。今度こそ足元のシーツを広げ、おそらく朝まで目覚めることはないだろうユーリのしなやかな身体をしっかりと包む。風邪など引かれては厄介だ。責任を持って部屋まで送ると言った手前、カロルとジュディスにも申し訳が立たない。

「おやすみ、ユーリ。次会うのは是非素面の時にね」

期待はしていなかったけれど案の定返事はない。やれやれともう一度苦笑を零し、静かに部屋を出たフレンは音を立てないようにゆっくりと階段を下りる。来た時よりもさらに夜の深まった下町は海の底のように音もなく寝静まっていた。

夜が明け、あからさまに残された肌の痕を目にしたユーリはどんな反応を見せるだろう。あの様子だと、今夜の記憶がしっかりと残っているか否かの確率は五分と五分。なにしろフレンもあんなに酔いの回ったユーリは見たことがないからまったく予測がつかない。
覚えていればいい、でも覚えていなくてもいい。そこかしこに残した自分の気配にユーリが気付いてくれればそれでいいのだ。
我ながら意地が悪いと思いはするけれど、限られた逢瀬を無駄にしたと後悔でもしてくれたらなお良い。フレンが任務に出る前にと明け方慌てて城の窓から忍び込んでくるようなことがあればさらに嬉しい。

明日も早朝から隊を率いて任務に出る予定だが、何か理由を付けて少し出発を遅らせてみようか。
そんなことを考えながら、フレンは城へと戻る下町の夜道をゆっくりと歩いた。


END