GS
ヒピオニア大陸の北東部。
夏には強い日差しが降り注ぎ、冬には純白の雪がちらつく、帝都ザーフィアスとよく似た気候のこの土地にその街はある。
オルニオン、「雪解けの光」という意味を持つこの街はまさにその名の通り、豊かな可能性を秘めたテルカ・リュミレースの最も新しい街としてゆっくりと、だが確実に日々発展を遂げている。
日も落ち、辺りがすっかり暗くなってからこの街に辿り着いたユーリはとりあえず宿に立ち寄り、荷物を置いてから仲間と別れ、一人街の奥を目指していた。
背後にそびえる山々に抱かれるように広がる街の一番奥に店舗や民家と比べると一回り大きな建物がある。帝国騎士団の本部だ。
街に入ってから常駐の警備兵以外にもちらほらと揃いの甲冑に身を包んだ兵士の姿を見掛ける。大隊ほどの物々しいものではないようだが、帝国騎士団の分隊が駐留しているらしい。
兵士達の鎧の基調色は青、騎士団長フレン・シーフォ自らが率いる部隊だ。物々しくはないが少数精鋭と呼ぶにふさわしい部隊と言える。騎士団の最高司令官が同じ街に滞在しているとなると、すれ違う兵士達からそこはかとなく緊張感が漂ってくるのも頷ける話だった。
普段なら見張りの兵士が三人いれば多いと感じるくらいのさして広くもない騎士団本部の前には、今日は何やら作業をしている色違いの鎧を身に着けた兵士も含めて十人程度がひしめき合っている。それらの目を避け、闇に身を滑り込ませるように建物の裏側に回ったユーリは灯りの零れる窓の下で足を止めた。
滞在する分隊責任者の執務室兼寝室となる本部建物の中でも比較的広いスペースを取った一番奥の部屋に今夜滞在しているのはもちろん騎士団長のフレンだ。窓辺に身を寄せ、耳を澄ませて中の様子を伺う。人の気配はあるが話し声は聞こえない。室内にはフレン一人のようだ。
普通はノックが先というエステルの教えと、ノックくらいしたらどうだというフレンの教えを守り、緩く握った手をコンコンと木の窓枠に打ち付けてから窓を開く。まだ濃く残る木材の香りが開いた空間からふわりと溢れ出した。
「よう」
ひらりと身軽く窓枠に乗り上げ中を見渡す。椅子の背凭れに寄り掛かる金髪の後姿は見慣れた幼馴染の姿だ。
だがノックの音で既にユーリの来訪に気付いているはずのフレンはユーリが声を掛けても振り向かない。居眠りをしているわけでもなさそうだ。
ややあって、ようやくフレンは珍しく見事な仏頂面でちらりと肩越しに背後を振り返る。
「なんだ、ユーリか」
「なんだとはご挨拶だな、久し振りだってのに」
なんだも何も、堂々と窓からフレンを訪ねて来る者などユーリしかいないだろうに。窓枠を越えて室内に降り立つ頃にはフレンは再びユーリに背を向けてしまっていた。歓迎する様子はもちろん、もう一度振り返る様子もない。
「君もいい加減、玄関から訪ねてくることを覚えたらどうだい?」
しかも二言目が嫌味ときた。何があったのか知らないが相当ご機嫌斜めらしい。
「真正面から訪ねてすんなり入れてくれんのかよ」
「やましいことがないなら問題はないだろう?」
「悪ぃな、やましいことなら山ほどあるわ。なにしろオレは帝国の法を犯した犯罪者だからな」
喧嘩を吹っ掛けたいわけではないが何となくお互いに敢えて口にしないようにしている事柄を持ち出すと、フレンはほんの少し息を飲むような仕種を見せた。だがやはりそれ以上の反応はない。
珍しい態度だが見たことがないというわけでもなく、むしろフレンのこんな態度は久し振りに見たと若干の懐かしさすら覚えてユーリは肩を竦めて軽く息を吐き、ゆっくりと頑なな後姿に向かって足を踏み出した。
「周りが不快になると分かっていてイヤな感情を隠さないのは甘えてる証拠、なんだと」
座っているフレンの真横に立つ。見上げるすっかり毒気を抜かれたようなフレンの顔にユーリは笑い、バツが悪そうに視線を逸らすフレンにユーリはまた笑った。面と向かってこんなふうに言われた時の居心地の悪さはユーリもよく知っている。
「何があったのか知らねえし聞く気もねえけど、胃に穴が開いたりハゲたりしないうちに適度に発散しろよ」
指先で小突いた頭を覆う豊かな金色の髪は今のところまだ薄くなるような兆候は見られない。物心ついた頃には身内と呼べる人は誰もいなかったので遺伝的に将来どうなるのかまではユーリもフレンも分からないけれど。
「おまえさ……」
複雑な顔のままうんともすんとも言わないフレンの頭を一定の間隔で小突いたり指先で髪を弾いたりしながら、ユーリはフレンの不機嫌の原因に思いを巡らせる。
フレンが正式に帝国騎士団の団長に任命されてからようやく半年経ったというところか。上手く変化の軌道に乗り始めた事案もあれば、日毎に悪化していく事案もある。むしろ努力するほど上手くいかないことの方が多い。
「もっと愚痴零してもいいんじゃねえの?評議会の狡猾なじいさん連中はともかく、騎士団の中だったら遠慮なく仏頂面見せられるヤツくらいいるだろ?」
騎士団の頂点に立ち、何千何万の命を預かり、混乱の真っ只中にある世界を正しい方向へと導いていく。その責任の重さは計り知れない。こうと決めて進み始めても横槍の多さは相当のものだろう。今現在の最良を選択するためには切り捨てなければならないこともあるのかもしれない。不機嫌になるなという方が無理な話だ。
「なんで上手くいかないんだとか、どうしたらいいんだとか、あのクソジジイ魔物の群れの中に置き去りにしてやりてえとか、たまにゃ部下の前で言ったっていいじゃん。いつも澄ました顔で綺麗事ばっか言ってるヤツよりよっぽど人間らしいと思うぜ。確かにおまえは騎士団の団長様だけど、おまえは集団の先頭に立ってるだけでおまえが世界を変えるんじゃない。みんなで変えていくんだろ?おまえだけが完璧じゃなくてもいいんじゃねえの?」
対等に本音を語り合える友もなく、己の理想だけを頼りに孤独な道を歩んだ者達の姿をユーリは知っている。彼らが迎えた結末も。
何が正しくて何が間違っているのかなんて誰にも分からない。一方では感謝されることでも目線を変えれば許されない行いになることもある。
それでも、愚痴でも何でも本音を知る者がいれば、冷酷に思える決断の裏側では血が滲むほどの苦悩があったことも知っていてくれる。一人先走って周りが置いて行かれそうになったら歩みを緩めろと諫めてくれる。間違った道を選んだとしてもやり直せる場所まで引き戻してくれる。たとえ引き返せなくても軌道を修正する方法を一緒に考えてくれる。
「おまえは耳触りのいい理想だけを掲げて頭から信じ切って心酔するだけの馬鹿ばっか周りにはべらすような大将にはなるなよ。納得できなかったら殴り合うくらいに喰らい付いてくるヤツを育てろ」
「……そんなのは君くらいだ」
ゴツンと音がするくらいに頭を小突いてやると、金色の頭をさすりながらフレンは小さく笑う。少し前なら聞くかもしれなかった「そう思うなら君が騎士団に戻って来ればいい」という言葉はない。
ユーリとて本当はそうして思いを共にし、諫め合いながら歩んでいく同じ道に立っていたかった。そんな未来を夢見ていた。
けれどもうユーリはフレンとは別の道を選んでしまったのだ。時折交わることはあっても、決して重なることはない二本の道。
「堕ちるトコまで堕ちてから団長は昔はあんなふうじゃなかったなんて言われたらカッコ悪ぃだろ。じゃあなんでもっと早く言ってくれなかったんだなんて言うのはもっとカッコ悪ぃし。それで鼻息荒い若造に討たれちゃ笑い話にもならねえ」
孤独は判断を鈍らせる。純粋な思いまで捻じ曲げてしまう。
そんな孤独を抱いた者達を目の当たりにして、ユーリもフレンもここまで来たのだ。二度と同じ過ちを繰り返してはならない。
「オレはさ、最近じゃ随分我侭になったんだぜ。感じ悪い態度も隠さないしな。あれこれ言いたい事言っちゃ仲間に駄目出しされてる。オレの言い分がすんなり通ることの方が珍しい。手厳しいのが多いからな」
周囲を不快にさせるような態度も隠さないのではなく隠せなくなってしまった。以前のように行動を起こした結果、被らなくてもいい泥を被ることになったとしても自分がそれを了解していればいいのだと勝手に自己完結しようものなら手痛い仕置きを喰らってしまう。
まったくもって面倒だ。けれど悪い気分ではない。独りではないのだと思える。
「……ずっと僕は君が追い付くのを待っている気でいたけど、いつの間にか追い越されて、いつの間にか随分引き離されてしまっていたんだね」
身体の中に溜め込んでいた澱みを全て吐き出そうとするかのように深く長く吐息を零しながら、フレンはそっぽを向いていた顔を身体ごと脇に立つユーリに向けた。両脇から背に回された腕に腰を引き寄せられ、腹に額が埋められる。
「どこに行っても誰に会っても腹の探り合い。評議会のお年寄りや貴族のボンボンは包み隠しもせずに嫌味三昧。悔しかったら札束で横っツラ張り倒すような真似ばかりしていないで真っ向から実力で挑んで来いって言ってやりたいのをぐっと堪えるのもいい加減飽きてきた。……少し……疲れた。少しだけね……」
世界そのものが大きく変わっていく中だったとは言え、一介の小隊長から隊長、団長代行、騎士団長へと異例の速さで昇進したフレンを取り巻く環境は厳しい。身内でいがみ合っている場合ではないのは誰の目にも明らかな世の情勢だというのに、周りは味方よりも敵の方が圧倒的に多いのだろう。
弱さを見せれば侮られる、迷う姿を見せれば足元を掬われる。簡単に信用してはいけない、裏には何が潜んでいるか分からない。そんなふうにまずは疑うことから始めなければならない対人関係は精神的に大きな負担が掛かるに違いない。それに加えて生活の基盤となるものを失い、大混乱に陥っている世界を立て直すための西へ東への激務の連続。身体的な疲労も相当なものだ。いくら優秀で切れ者だとは言え、フレンはまだ二十歳を幾つか過ぎただけの子供に毛が生えた程度の年齢でしかないのに。
「城の中には信頼できる人もちょっとした愚痴くらい零せる人もいるよ。でもやっぱり今でも僕は今ここにユーリがいてくれたらって思うんだ。勘違いしないでくれ、騎士団に戻ってほしいとかそういうことが言いたいんじゃない。ただまだ僕は君以上に、せめて君と同じくらい側にいて安心できる人に出会えていないんだ。全てにおいて君が基準になっているっていうのは厄介だね、基準値が高すぎる」
強く押しつけるように額を腹に寄せたまま顔を上げないフレンの肩が自嘲に微かに揺れる。布越しに肌に触れるフレンの吐息が熱い。
ごく自然にフレンの頭に乗せた手を、ユーリは柔らかな金色の髪を乱さないよう、頭の丸みに沿ってゆっくりと動かした。
「情けない姿を見せてごめんね、ユーリ。もう大丈夫だから。信頼できる仲間と一緒にちゃんとやっていくよ。苦境にもズル賢いじいさんにも苦労知らずのお坊ちゃんにも絶対負けない。でも今だけ……あともう少しだけ甘えてもいいかな……」
背に絡むフレンの両腕に切なくなるほどの力が篭もる。世界の情勢や、騎士団長に就任してからの期間を思えばおそらく今は最もつらい時期に当たるのだろう。乗り越えなければならない最初の壁に突き当たり、さしものフレンも相当参っているらしい。
それでもフレンが大丈夫だと言うなら大丈夫なのだろう。これくらいで音を上げるような男ではないのは誰よりもユーリが一番よく知っている。知ってはいるけれど。
「バーカ、誰が甘えんなっつったよ。オレだって本音晒せる仲間はできたけど、もうどうしようもない、もうダメだって時に考えるのは今でもやっぱりおまえのことだ」
どうして進む道が分かれてしまったのか、なぜ今互いに隣り合う場所にいないのかと思うことはある。けれど過去の選択を悔やむ気持ちはない。今進む道は違っても、いつか同じ場所に辿り着けると信じているから。
「せっかく絶好のタイミングでオレがいんだ。今のうちに思いっきり甘え溜めしとけ。そしたら明日からまた胃が痛むヤツ相手でもやり合えるだろ。成分が足りなくなったら……またどこかで会えるさ」
ある程度時が経てば身近な者達の中にも本当に心許せる者が増えていくだろう。そんな存在がどんなに増えても自分が一番であってほしいと願うのは完全なユーリの我侭だけれど、フレンが孤独に堕ちるくらいなら自分が格下げになる方がまだいい。
「心労で髪が薄くなっても幻滅しない?」
「ハゲたらオレの髪でヅラ作ってプレゼントしてやるよ」
ふわふわと自由に毛先を散らす金色の髪を引っ張ってユーリが笑うと、腹に額を押し当てたままフレンも笑う。背に回された腕の縋るような力の強さも甘えを多分に含んだ穏やかなものに変わっていた。
「それもある意味魅力的だけど、頭が斑にならないように気を付けるよ」
背に絡む腕が解け、フレンがゆっくりと顔を上げる。目の下にうっすらと滲む疲れの色と、以前と比べると痩せて顎が少し尖って見えることを除けば概ねいつものフレンだ。不機嫌な様子もない。
「眉間のシワなし。よし、男前」
眉と眉の間を指先で弾く。突然のことに僅かに仰け反ったフレンの抗議の声と何者かが廊下の突き当りにあるこの部屋を目指して向かって来る足音が重なった。
フレンに背を向け開け放ったままの窓に駆け寄ったユーリは素早く窓枠を越えて外に降り立つ。
「んじゃな、フレン。団長さんのお仕事頑張れよ」
「ユーリ、待ってくれ」
間髪入れずに薄闇の中に駆け出そうとしたユーリをフレンの声が呼び止める。窓辺に追い付いたフレンを振り返り、「なんだ?」と問おうとしたユーリはその唇に柔らかなものが触れるのを感じて微かに目を見開いた。
「これで充填完了。ありがとう、ユーリ」
窓枠から身を乗り出し、顔を寄せたフレンの甘い囁きが仄かな風となってユーリの唇に触れる。
室内の灯りが逆光になって細かな表情はよく見えなかったけれど、その気配と扉の向こうから掛けられる声に入室を促すフレンの声からはいつものフレンらしい生真面目なほどの強さが感じられた。
らしくない隠そうともしない不機嫌な顔と、打って変わった弱々しい様子にどうしたものかと思ったけれどもう大丈夫。フレンのこと、実のところあまり心配はしていなかったけれど。
闇に身を潜ませ、しばらく漏れ聞こえる室内のやりとりに耳を澄ませた後、ユーリはそっと窓辺を離れ仲間の待つ宿へと足を踏み出した。
END
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