Fifty-fifty
「ユーリ」
集中のあまり、自分でも驚くくらいの神妙な声が出た。
案の定、僕を振り返ったユーリの目は常にない緊張感を湛えて鋭く尖って見える。
別にたいして重要なことを言いたかったわけではない。むしろとても馬鹿馬鹿しいことを言おうとしている自覚はあったので、ユーリの真剣な面持ちに話を変えようかとも思ったけれど咄嗟に適当な別の話題も見当たらず、常々言いたいと思っていたことでもあったので僕は一度噤んだ口を思い切って開いた。
「気に入ってるのかもしれないけれど、そろそろその服をやめないか?
」
ほら見たことか、ユーリの整った顔が呆れを通り越してどんどん無表情になっていく。
やがて片手を腰に当てたユーリは項垂れるように深く溜息を吐いた。この仕種は見慣れたユーリの癖だ。
「おまえ、時々びっくりするくらいに馬鹿な」
「失礼な。自分でもうっすら馬鹿馬鹿しいとは思っているけど、それでも僕は真剣だよ」
「真剣だから馬鹿だっつってんの」
手の平を上に向けた手を肩の高さくらいまで上げて二度三度と揺らす。これもユーリの癖だ。首を傾けた方向に緩やかに流れる長い黒髪の先がふわふわと揺れる。
幼馴染みで、悪友でもある親友。戦友として誰よりも頼れる存在である反面、哀しいことに自分の置かれている立場上誰よりも警戒しなければならない危険人物でもある。
それでも僕にとってユーリ・ローウェルという人は誰よりも大切な存在だった。
すらりとした長身、艶やかな長い黒髪と強い意志に輝く黒い瞳。光の当たる角度によって黒い髪と瞳は紫掛かって見えることもある。
綺麗なユーリ。誰かに叱られなければ夜も明けないくらいに毎日下町で悪戯ばかりしていた幼い頃から、きっとユーリ自身も気付いていなかったユーリの持つ光の強さを僕は知っていた。
「どうせまたちらちら見える胸元がとか何とか考えてたんだろ」
その光に目を細める僕の前まで流れる水のようにゆらりと歩み寄ったユーリは、その無駄のない動きのまま、ごく自然にベッドの縁に座っている僕の腿を跨ぎ、向かい合う格好で膝の上に座る。するりと首に絡み付く冷えた手はしなやかに伸びあがる植物の蔓を思わせた。
大きく開いた黒い服の胸元から覗く白い肌が目の前に迫っている。視線を上げれば柔らかな黒髪に囲われた端正な顔、視線を下げれば衣服に覆われ帯を締めていてもそのラインが際立つ引き締まった細い腰。降り注ぐ声は何気ない言葉にすら色を感じる艶やかな音色。
自身の思いも存在もきれいに隠してしまう術に長けたユーリは易々と雑多な集団の中に紛れ込む。誰もその存在に気付かない。気付こうとしない。だが一度目に映してしまえば今までなぜ気付かなかったのだろかと不思議に思うほど、焼き付いたその存在感はただそこに立っているだけで光を放つほどに強くなるのだ。
「そうだよ。胸元もだけど、この腰のラインもね。ユーリはもっと自分の色香に自覚を持つべきだ」
容易
く腕の回る細腰を引き寄せ、さらりと乾いた胸元に唇をそっと押し当ててすぐに離れる。痕を付けたり湿らせたりするにはまだ陽が高すぎる。
「またそれかよ。色香色香って耳がタコになるっての」
「耳がタコになる、じゃなくて耳にタコができる、だろ。言葉は正しくね、ユーリ」
「んなこた分かってるよ。耳がタコそのものになりそうなくらい聞き飽きたって言ってんの」
ひやりと冷たい指先で僕の両耳をひっぱりながら、ユーリは「聞き飽きた」を一文字ずつしっかりはっきりと強調した。
自分でも無茶を言っているのは分かっている。確かにユーリは何もしていないし何のつもりもない。だがその自覚の無さが余計にそれを際立たせているのだと、何度言えばそんなに無自覚に振り撒くのならいっそのことどこかに永遠に閉じ込めておきたいとすら思ってしまう僕の気持ちがユーリには伝わるのだろう。
逆に自分の持つ魅力を存分に利用しているのがユーリが仲間と立ち上げたギルド、凛々の明星の一員でクリティア族の女性のジュディスだ。彼女はどう振る舞えば魅力的に見えるか、どう見せれば対する相手を魅了できるかを知っている。それが決していやらしくならないのはどこまでが妖艶でどこからが卑猥になるのかを彼女が充分に自覚し理解しているからだ。
色香の解放と封印、その見事な制御方法を彼女にはぜひユーリに伝授してほしいものだ。見た目の妖艶さに反して結構男っぽい気性の持ち主である彼女は色恋沙汰とは別のところで妙にユーリと気が合っているようだし。
「おまえさぁ、オレの色香がどうとかよく言うけど、おまえだって相当だぜ。ストイックすぎて逆にエロいんだよ」
僕の髪を指先にくるくると巻き付けて遊びながらぽろりと零されたユーリの言葉に僕は目を丸くする。
ストイック?むしろ僕はユーリを見るたびに獣のように湧きあがってくる欲望を抑えるのに必死なんだけど。
「あー、ストイックってのはオレ以外に対してはって意味な。おまえ、オレ以外に興味ねぇだろ?」
僕の表情の変化の意味をすぐに正しく理解したユーリはゆらりと唇を微笑に撓らせる。僕以外には決して意識的にこんな顔は見せていないと信じてはいるけど、そういう表情が駄目なんだってば。
でもまぁ、ユーリの言う通り、僕はユーリ以外の誰を前にしても欲を感じることはない。
肯定も否定もしないけれど僕の考えていることくらいお見通しのユーリは笑みを深め、見上げる僕の前髪をかき上げて撓らせた唇を額に押し当てた。離れ際、唇の感触を残す場所にしっとりと濡れた舌先の感触が上乗せされる。
「一回あのおっかねえ副官の姉ちゃんの前で何気ない顔しておもむろに手甲もグローブも外して素手出してみな。それだけで絶対あの姉ちゃん顔真っ赤にして卒倒するぜ」
「……まさか」
「ホントホント。卒倒はさすがに言いすぎかもしんねえけどな、顔赤くして慌てて目を逸らすくらいはすると思うぜ」
確かにソディアが側に控えている時には僕は全身を覆う鎧を身に纏っていることが多い。でも遠征の予定もなく執務室で書類に目を通している時などはもちろんそんな重苦しい格好はしていないし、そういう砕けた格好の時にソディアと対面することだってごく普通にある。そんな時にソディアが顔を赤くしているところなども見たことはない。そもそも僕の素手とユーリの胸元では衝撃度がまるで違う。
でもそう言われてみれば、軽装でソディアからの報告を受けている時にはあまり彼女と目は合っていなかったような気もする。
「普段なかなか目にしないモンが見える瞬間の方がドキっとするんだよ。オレのはずっと見えてるだろ。初対面のヤツはどうか知らねえけどそのうち見慣れる。だから、なかなかお目に掛かれないお堅い白銀の鎧の下から出てくる素手の方が色っぽいんだよ」
腰に回った腕を外し、件の僕の素手を引き寄せたユーリは見せ付けるようなゆっくりとした動作で指先に口付けた。
その様子に僕はいっそ可笑しいくらい単純に欲を煽られる。普段お目に掛かれないものの方が色っぽいと言うなら、普段は小生意気なことしか言わない唇が赤く潤い緩んでいるその様の方が余程色っぽい。
「その手がほとんど日焼けもしていない白くて長い指のこんな手ならなおさら……」
誘導されていると分かっていて、僕は薄く開いたユーリの唇の隙間に指先を潜り込ませた。滑らかな舌に指の腹を押し当てる。甘噛みする歯から逃れて引き抜いた唾液に濡れる指先を唇の上で紅を塗るように左右に滑らせると、艶の増した唇を弧に撓らせて笑ったユーリは僕の足を跨いだまま胸元に遠慮のない重みを掛けてきた。抗わず、腹の上にユーリを乗せて僕は寝台に背を付ける。
「おまえ、今自分がどんな顔してるか分かってる?」
僕の前髪をかき上げた手で頭を押さえ込むようにして覆い被さるユーリと正面から目を合わせ、僕も口元を綻ばせた。
自分がどんな顔をしているかくらい想像できる。きっととても飢えた顔をしているのだろう。
「ユーリこそ」
「オレはいいの。普段から色香とやらを無自覚に振り撒いてんだろ?それを今は意識してるだけのことだ。おまえは違う。真面目で誠実な騎士団長様の化けの皮を今オレが剥がしてんだよ」
まったく、ああ言えばこう言う。いつまで経っても僕は口ではユーリに敵わない。
大体にして無自覚に色香を振り撒くのをやめろと諭すつもりが、まさにその色香に陥落しているこの状況はどうだ。敵わないのは口だけでは済まないな。
「なぁ、フレン。オレごちゃごちゃ長ったらしい駆け引きとか大嫌いなんだけど」
肩から滑り落ちた黒髪がさらりと僕の頬を撫でる。香水なんて小洒落たものをユーリが使っているはずがないのに、流れ落ちる髪からも寄せられる肌からも堪らなく甘い香りが漂った。
ユーリもまた僕の髪に鼻先を擦り寄せて深く息を吸い込み、恍惚とした吐息を零す。その吐息の甘さにまたしても僕は深い酩酊感を味わう。
「僕もだよ、ユーリ。楽しめない駆け引きは好きじゃない」
もう僕もユーリも限界が見えている。これ以上は互いに探り合う腹もない。
本当にこんなつもりはなかったんだけどな。うるさいうるさいと悪態を吐かれながら説教するつもりが藪を突いたらとんだ蛇が潜んでいたものだ。
僕の意識がほんの少し逸れたのを敏感に感じ取ったユーリが腹の上で不満そうに眉を寄せる。普段はあまり見ない子供じみた表情に胸の奥がざわりと波打つ。なるほど、これがユーリの言う「普段目にしないものを見た時のドキっとする瞬間」なんだな。確かに厄介だ。
まだ僕が余計なことを考えているのを感じ取っている勘の良すぎるユーリの唇に謝罪の代わりに軽く口付け、今度こそユーリに意識も身体も全て預けた僕は、ユーリの細腰を際立たせる帯にゆっくりと手を掛けた。
END
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