君想う夜に
新月の近い夜。猫の爪のような細く鋭い月が紫紺の空の端に滲んでいる。
こんな夜には来るかもしれない。机に向かい、特に急ぎでもない書類に目を通しながらフレンは何度目かの思考を巡らせた。
来ない可能性の方が高いのかもしれない。それなら明日も早いのだから、ざっと目を通せば処理が終わったも同然の簡単な書類の整理など後日に回してさっさと寝てしまえばいいのだ。団長稼業は連日の夜更かしに耐えられるほど楽ではない。
それでもここまで待ったのだからあと少しだけ、あと少しだけと粘って今に至る。
少し風が強くなってきた。風を受けた窓枠がコトコトと立てる音が他に音のない静かな室内に響く。
机に積まれた未処理の書類も残り僅か。これがなくなってしまったらこんな夜中に起きている口実がなくなってしまう。窓枠を鳴らす風の音に別の音が混ざらないかと耳を澄ましながら、残り少ない書類の山にフレンが手を伸ばした時。
窓がカタンと一際大きく、明らかに風が立てたものとは違う音を立てた。それは続けてカタカタと何者かの手に揺すられる音へと変わり、とうとう開け放たれた窓の向こうからカーテンを翻して夜の冷えた空気が流れ込む。夜気と共にカーテンの裏側から黒い塊が転がり込み、音も立てずに床に降り立った。
「……うぅ〜さみぃ、雪降るかもしんねえぞ」
塊から発せられたのは馴染みのある声と口調。
光沢を抑えた漆黒のフードを払いのけた下から艶やかな長い黒髪がさらりと軽やかに流れ落ちた。
「当たり前のように入ってきてるけど、そこは正しい出入り口じゃないからね、ユーリ」
来るか来ないかも分からないのにこんな夜中まで欠伸も出ないほどに窓の外に意識を集中し、期待して待っていたというのにまず口をついて出たのはそんな小言。
「こんな時間に正しい出入り口から来たってすんなり入れてくれないだろ。下手すりゃ奥からルブラン辺りがすっ飛んでくる」
脱いだマントを無造作に丸めてベッドの足元に置いた物入れの上に放り投げ、何重にも巻き付け鼻の上まで引き上げていたマフラーも同様に放り、闖入者、下町で暮らしていた頃からの友、ユーリは一直線にベッドに向かう。
「あいつ、いつ隊長に昇格すんの?ルブラン隊、うるっせぇ隊になりそうだな」
シーツを捲り上げてもぞもぞと潜り込んだ後、ポンポンと中から放り出された左右一対のグローブは見てもいないはずなのに見事に先に放り投げたマントの上に舞い落ちた。
「一度打診はしたんだよ。でも自分はまだその器じゃないとおっしゃるんだ。ああいう方こそ隊を率いる者に相応しいと思うんだけど……」
「……ふぅん」
心なしか残念そうなユーリの声が可笑しい。笑いを堪えながらフレンはユーリが潜り込んだベッドの縁に座り、シーツに散らばった黒髪を一房手に取った。ひやりと冷たい感触が手の平に広がる。
「で、今日は何?ここに寝に来たのかい?」
「今夜は冷えるからな。オレの部屋のペラペラの布団よりもこっちの布団の方が断然あったかくて寝心地がいい」
髪に触れられるのを嫌がる素振りは見せず、手繰り寄せたシーツで身体を包んでユーリは笑う。その顔は下町で暮らしていた幼い頃のままのようであり、苦悩や喜び、絶望や希望、年齢に見合わないほどの多くの思いを知りすぎた危うい成熟を漂わせているようでもあった。
ユーリのことは誰よりも知っていると思っているフレンでさえ、時折見せる見たことのない表情に心臓を直接鷲掴みにされたような気分になることがある。帝都を飛び出し世界を広げたユーリは、まさに風のように各地へ流れ、フレンの知らない顔を覚えて帰ってきた。
手の平の房をシーツに落として耳の上辺りから髪に指を差し込むと、そこは内側まですっかり冷え切っている。帝都に戻ったその足で下宿には寄らず真っ直ぐここに来たらしい。
「北の方に行っていたのかい?ユーリがここまで厚着しているなんて珍しい。ギルドの仕事?」
「秘密。守秘義務があるからな」
「……そうか」
守秘義務があるということはギルドとしてなにがしかの仕事をしてきたということだ。でもそれはユーリの世界のこと。
フレンもユーリも、もう何もかもを二人で分け合っていた幼い子供ではない。ユーリが自ら選び自ら進んだ道ならフレンは口出しをするつもりも手出しをするつもりもなかった。ただ無茶をしていなければいいと、それだけ願う気持ちは幼い頃から少しも変わっていないけれど。
四六時中陽の下で剣を振り回しているわりには白い頬が、急速に体温を取り戻しつつあるからかほんのりと赤く染まっている。フレンがそこに触れてもユーリは嫌がらない。水底に横たわる石のような艶やかな黒い瞳が静かにフレンを見上げていた。
「怪我はしていない?」
仕事内容は答えられなくても怪我の有無くらいならギルドの守秘義務に触れることはないだろう。問い掛けにユーリはゆっくりと首を横に振る。
「しもやけくらいかな」
シーツから出した指の先に息を吹きかけ、軽く擦り合わせてユーリは笑う。
「前だったら簡単な傷くらいさらっと治してもらえたのにな」
懐かしむほどではない近い過去、人々の生活には魔導器が深く根付いていた。凶悪な魔物から身を守る術も、負った傷を癒す術も、水や火、人が生きていく上で必要不可欠なあらゆるものを生み出す魔導器。それを人々が失ってまだ日は浅い。
「聖なる活力、来い!……ってさ、お前のあの詠唱、オレ結構好きだったなぁ」
それを手離す道を選ばなければならなかった本当の理由を知る人は少ない。
ある日突然生活の基盤となるものを失い、当然のように湧き上がった人々の不安、不満、反感を魔導器のない世界へと人々を導いた者、ユーリはどんな思いで聞いているのだろう。
「同じ術でも術者が違うとこんなにも違うもんなんだなと思ったよ。エステルのはほわっと癒される感じで、お前のはしっかりしろって尻叩かれてる感じ?」
ユーリは人前ではよく笑う。内に秘めたものを悟らせないためだ。もっとも笑っているのは何か思うところがあるからだというのは、ユーリをよく知る者達にはすでに周知の事実ではあったけれど。
「後悔しているのかい?」
人々の生き方を大きく変えてしまう決断を下し、誰に理解を得られなくてもそうするべきだと強行に近い形で実行した。己が進むべき道だと誰に請われたわけでもなく、ユーリ自身が彼の意思で決めたからだ。それでもその決断はあまりにも重く大きすぎた。
「魔導器を捨てたこと……」
「……んー?」
頬に触れるフレンの指に珍しく甘えて擦り寄るような仕種を見せてから、ユーリはもぞもぞとうつ伏せに姿勢を変える。横に向けた顔の前にかざした左の手首には魔核を失い単なる装飾となった武醒魔導器がそのまま残されていた。
「あの時はああするしか方法がなかったんだから後悔はしていない。何よりオレがそれを後悔すんのは筋違いだろ?オレが言いだしっぺなんだから。でもさ……やっぱり不便になったよなーとは思っちまう。何から何まで魔導器に頼ってたからな」
それきりユーリは口を噤み、フレンには見えないどこか遠くを見る目になる。華麗さは乏しいものの剣士らしい硬質で精緻な造りの魔導器を嵌めた腕がぱたりとシーツに落ちた。
「……そうだね」
魔導器を失った今も、ユーリは剣を振るい続けている。相も変わらずその手に守るべきものを次から次へと抱え込んでいく。自分がそうしたいからだと言いながら、ユーリが自分のためだけに動くことはない。ユーリが剣を振るうのはいつでも誰かのため。
その手から取り零してしまったものがあるのかもしれない。守り切ることができなかった。でもその「守りたかった何か」はもしもう少しユーリに力があれば、例えば魔導器を失っていなければ守り切ることができたのかもしれない。
すべて想像だ。ただ少しいつもと様子の違うユーリの姿に、それに当てはまりそうな物語をフレンが勝手に作っただけ。本当のことはユーリしか知らない。根掘り葉掘り聞くつもりもない。聞いて知ったところでフレンにはどうすることもできないのだから。
「ユーリ、詰めて」
おもむろにシーツの端を捲り上げ、ベッドの真ん中に横たわるユーリを押しながらフレンもシーツの中に潜り込む。
「ちょ……っ……んだよ」
フレンの背中の下敷きになりそうになったユーリが慌てて反対側の端へ逃れようと身を捩った。その腕を捉え、引き寄せた身体にシーツごと腕を巻き付ける。
「だって、今夜は寒いよ?」
「……それはそうだけど……」
決して小柄ではないけれどほっそりとしたユーリの身体はフレンの腕の中に上手い具合にすっぽりと納まっていた。
しばらく居心地が悪そうにもぞもぞと身を捩っていたユーリだが、諦めたのか居心地が良くなったのか、やがてぱたりと動きを止める。ゆっくりと吐き出される細く長い吐息も溜息ではない。
「灯り、点いたままだぞ」
「燃料がなくなったら勝手に消えるよ」
中途半端に残った書類の束が乗った机の上ではランプの赤い光がちらちらと揺れている。
人がずっと眺めていても飽きないのは揺らぐ炎なのだと教えてくれたのは下町の顔馴染みだったか。確かに決して動きを止めることなく、また二度と同じ姿にはならない炎はじっと見ていると不思議と目を離せなくなる。ユーリも同じ感覚を抱いているのか、フレンの腕の中で随分とおとなしい。
その顔馴染みは人がずっと聞いていても飽きないのは流れる水の音なのだとも教えてくれた。下町で暮らしていた幼い頃、貴重な燃料の無駄遣いを避けて早々に灯りを消した部屋の中で、窓の外から遠く聞こえる水道魔導器が豊かに噴き上げる水の音を互いに無言でずっと聞いていたことを思い出す。
「僕はね、ユーリ」
揺れる炎を目に映したまま腕の中のユーリを呼ぶ。ユーリもまた身じろぎさえせずに小さくフレンの呼び掛けに応えた。
「朝となく夜となく辺りを照らしていた魔導器の光も綺麗だったけれど、朝には朝の光があって、夜には夜の闇がある、そういう当たり前のことがすごく大切なことなんだなと今は思うんだ」
魔導器を失った世の中では水を得るにも水脈を探し、井戸を掘ることから始めなければならない。以前は治癒術で簡単に治せていた傷も、現状では薬だけが頼りで、数日間は痛みに耐えなければならない。
不便になった。不安も増えた。けれど、生きるために人は逞しくなった。人が生きやすいように魔導器の力に頼って世界を造り変えるのではなく、生きていくために人々があるがままの世界を受け入れる。
世界は便利に造り変えられた場所から当たり前の場所に戻ったのだ。 思うほどに心と身体は素直にその事実を受け入れてはくれないけれど。
「つらいことも面倒なことも嫌なこともいっぱいあるよ。でもそんなの魔導器があろうとなかろうと同じだし、それに今日みたいな夜は寒さを口実に堂々とこうやってユーリとくっついて眠れるしね、悪いことばかりじゃない」
冷え切っていたユーリの身体はほんのりと温かさを取り戻していた。眠気もあるのかもしれない。
今度は明らかにそれと分かる短い溜息を零したユーリは、しばらくは大人しかった身体をもぞもぞと動かして本格的に寝る体勢を探し始める。
「……くっついて寝るのなんて今に始まったことじゃないだろ。暑苦しい夜でもおまえ散々くっついてたじゃねえか」
「おかげで真夜中にベッドから蹴り落とされたこともあったっけ」
「おまえ見た目のわりに体温高いんだよ」
「だから今夜みたいな寒い日にくっついて寝るにはうってつけだろう?」
軽口の応酬に飽きたのか眠気が勝ったのか、ひとつ深く息を吐き出したきり、ユーリは話すことも身じろぐこともなくなった。
やがて全身からすぅと何かが抜けるようにフレンの腕の中でユーリの身体が弛緩し、ややあってゆったりとした寝息が聞こえてくる。
待っていてよかった。自分で言うほどユーリは呑気な性格ではない。眠りも浅く、何か思うところがある時は目を閉じてはいても眠りに落ちないまま朝を迎えることも珍しくはない。
この数日の間にユーリの身に何があったのかは知らない。ユーリ自身が助けを求めてこない以上、フレンから事情を聴くことも手を差し伸べることもない。それはきっとユーリが最も厭うことだろうから。
ただお互いに事情は何も知らなくても、こうして穏やかに眠りに落ちるユーリの傍にいられればと思う。
一人の夜はどうしてもユーリのことを考えてしまう。
来るかもしれない。来ないかもしれない。今頃はどこにいるのだろう、危険な目に合っていないか、また自ら進んで厄介事に巻き込まれているのではないか、大怪我なんてしていたらどうしよう。こんな寒い夜ならなおさらその思いは強くなる。
待っていてよかった。
一人ではなかなか温まらない冷えたシーツの中はすでに互いの体温で程よく温もっていた。寄り添うユーリの体温と心地良さそうな寝息がフレンにも穏やかな眠りを運んでくる。
いつしかランプの赤い炎は消え、柔らかな夜の闇が部屋を満たしていた。
END
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