Sweet, Lazy morning
シーツが素肌を滑る感触が好きだ。するするとした手触りの上質のシーツもいいけれど、下町の家庭ではもっとも一般的な粗い織り目の安っぽいシーツの感触の方が馴染み深い。自分以外の誰かの体温や匂いを感じられればもっと良い。本当は「誰か」なんていう広い範囲ではなくて一人に限定されてるんだけどな。
その全ての条件が揃った今現在、オレは最高に幸せなまどろみの中にいた。
目が覚めたのは少し前。外はすっかり明るくなっているけれどまだ朝と呼べる時間帯で、動き出した下町の喧騒が閉じた窓の向こう側から聞こえてくる。
その喧騒よりも近い場所から聞こえるカサカサとした乾いた音は書類を捲る紙の音だ。ごく微かな音だけれど、街の喧騒ではなく窓も隔てず直接聞こえるその音でオレは目を覚ました。
薄く開いた目に前屈みに緩く曲線を描く背中が映っている。ベッドの縁に座って書類に目を落としているのは幼馴染のフレンだ。働きすぎ、ちょっと休めと休暇を押し付けられ、昨日の夕方下町の下宿に戻ってきた。休暇を押し付けたのが泣く子も黙る皇帝陛下その人だったために断るわけにもいかなかったらしい。
オレが下町に戻っているこのタイミングでフレンに休暇が与えられたのは偶然ではないのだろう。世界各地を転々としているオレが下町に戻ったのはギルドとして定期的に請け負っているハルルからザーフィアスまでを往復するエステルの護衛のため。エステルの行き先は皇帝の居城、ザーフィアス城。エステル経由でオレの帰省情報を掴んでいる天然陛下の粋な計らいというやつだ。こうまでされるとさすがに天然天然と言うのも申し訳なくなってきたな。
いくらなんでも機密の詰まった重要文書をフレンが城の外に持ち出すはずがないから、今フレンが見ているのはさほど難しい書類ではないのだろう。だが手にしたそれは結構な厚みがあった。しかも目眩がしそうなほどにびっしりと文字が並んでいる。その書類一枚一枚にフレンは実に丁寧に目を通していた。
シーツの感触を肌で楽しんでいるオレはもちろん、堅苦しい書類を読んでいるフレンもまだ服を着ていない。昨夜オレが引っ掻き回したせいで自慢の金髪もちょっと乱れていた。
フレンの横には昨日床に脱ぎ捨てた服が丸めて置いてある。起きて服を着ようと取り上げたものの、同時に目に入った書類が気になって目を通し始めたら止められなくなった、そんなところだろう。
朝日に照らされたフレンの背中はとてもきれいだ。どちらかと言えば童顔のふわふわした砂糖菓子みたいな笑顔が似合う柔和な顔立ちのフレンだが、実は脱いだらオレよりよほど逞しかったりする。年がら年中きっちりと鎧に身を包んでいればそれだけで鍛錬になるのだろう。剣術も体術も我流で崩すということがほとんどないから、全身を覆う筋肉も薄過ぎず厚過ぎず、お手本のように均整が取れていた。
未だ覚めやらないまどろみの中でぼんやりと見惚れるフレンの背中にはうっすらと縦横に細かな傷が走っている。血こそ流れていないもののまだ新しいそれは昨夜のオレの仕業だ。半分わざと、半分無我夢中で引っ掻いた。
帝国に仕える騎士としてどんなに危険な任務にも果敢に赴き、命を懸けて剣を振るっているフレンは傷の大小に関わらず何度も怪我を繰り返している。だがこの世界に魔導器があった頃はフレン自身が治癒術を使えたし、帝国お抱えの治癒術師も大勢いるので白い肌に目立った傷は残っていない。
それにしてもオレが付けた引っ掻き傷以外にはゼロと言っても過言ではないくらいに背中は傷痕が少ない。それはフレンが決して敵に背を向けず、その後ろに大切なものを守っている証だ。そう思ったら無意識に手が伸びてそのなめらかな背に触れていた。
「ユーリ、起きた?」
身じろぐ気配を感じていたのか、声も掛けずに突然触れてもことさらに驚くこともなく肩越しにオレを振り返ったフレンは、「ふわん」という擬音が聞こえてきそうな微笑を浮かべる。
「……ん、だいぶ前から起きてはいた……」
答えながらずるずると這い寄り、脇の下から頭を突っ込んでフレンの腹の前に顔を出す。近付いてまじまじと見ても傷痕の見当たらない背中とは裏腹に、胸元や余計な肉のまったく付いていない引き締まった腹、身体の前面にはちょっと目を遣っただけで新旧取り合わせた数箇所の傷痕と赤黒い打撲の痕を発見した。いずれもごく小さな痕とはいえ、これはちょっと攻撃を喰らいすぎなんじゃないのか?
「なに?どうかした?」
「……べつに……」
魔物か人か知らないがフレンに傷を付けたヤツに対する怒りとか、状況がどうあれ攻撃を受けている間抜けなフレンに対する苛立ちとか、フレンに庇われて無傷だったヤツに対するムカっ腹で思わず不貞腐れた声が出る。もっとも最後のは思いっきり仮想敵なわけだが。
「せっかく天然陛下が休みくれたんだから仕事なんか後回しでいいだろ」
手にしたままの書類を押し遣ろうとすると、一瞬きょとんとして首を傾げたフレンはすぐに表情をもとに戻した。オレが拗ねているのを仕事に没頭して構ってやらなかったからだと勘違いしたらしい。毛先をあちこちに向けて散らばったオレの髪を指で梳いて整えながら笑う。
「部下が一生懸命書いてくれた報告書だからね。読み始めたら止まらなくて」
「その一生懸命書いた報告書を上官がすっぽんぽんで読む方が部下に失礼だろ」
なるほどそれならと服を着込まれては困るので、ベッドの端に丸まっているフレンの服を足で蹴り落とす。
「こら、行儀の悪い」
気付いたフレンがもぞもぞと動く足をぺちんと平手で叩いたがオレの行儀の悪さなど今更だ。叩かれた腹いせに最後まで残っていた下着は指先に引っ掛けて思いきり遠くまで蹴り飛ばしてやった。
「まったく……」
部屋の隅にはらはらと舞い落ちる下着にフレンが物悲しげな溜息を零す。
だがすぐに気を取り直して手にしていた書類の束を傍らの机に置いたフレンは、ベッドの縁に座るフレンの身体に巻き付くように寝そべっているオレをごろりと転がしてベッドの中央に押し戻した。
「でもユーリの言うことも一理ある」
胸元を合わせるように覆い被さるフレンの重みが心地良い。申し訳程度に腰のあたりを覆っていたシーツはすっかりはだけて身体の下敷きになっていた。
瞼や頬、唇の端、次々に場所を変えて押し当てられていたフレンの唇が耳の後ろの柔らかい部分を強く吸い上げる。これは確実に痕が残っただろうけど、一応オレは長身の部類に入るし髪も長いのでさほど目立つ場所ではない。そもそもそんなものをオレは気にしない。それを目にする大抵のヤツはそれが誰が付けた痕なのかなんて知らないのだ。もし気付かれたとしたってオレが既に誰かのものであると見せつけてやるにはちょうどいい。
「テッドあたりが無邪気に駆け込んでこないかな」
「大丈夫だろ、ラピードが見張っててくれてるはずだから」
外を気にするわりに遠慮なく腿の内側に手を差し込んでくるフレンに応えて足を開く。ベッドに完全に乗り上げたフレンは左右に開いたオレの足の間に身体を割り込ませると、膝を折った足を脇に抱えるような姿勢で上体を前のめりに倒して顔を寄せてきた。
腰が浮いて昨夜の名残でまだ少し湿っている場所に朝の空気が触れ、その冷たさに身体が小さく震える。口を閉じても鼻腔から抜ける吐息混じりの声は自分の耳にも甘ったるく響くけれど、どうせフレン以外には誰も聞いてやしないからそれも気にしない。
起き抜けの少し乾いた唇を互いに寄せ合い、舌先で潤ませながら無意識にフレンの背に手を回すと、指先にざらりと細かく走る爪痕が触れた。
「痛むか?」
余程のことがない限りフレンが自発的に触れさせることのない素の背中に思うままに爪を立てられる優越感に調子に乗って痕を付けてしまったけれど、服が擦れたら痛むんじゃないかとか、もし痛みがあるなら戦闘になった時に動きに影響があるんじゃないかとか今更ながらに気になり始めて問い掛ける。
不思議そうな表情を浮かべたフレンに背中の傷のことだと問いを重ねると、背に回した手で直接痕に触れるまで傷があることにすら気付いていなかったらしいフレンはこれくらいの傷で泣き事を言うようでは騎士なんてやっていられないと肩を竦めた。
「確かに服を着たらちょっと違和感があるかもしれないけど、むしろそれで昨夜のユーリを思い出してしまう方が僕としては心配かな」
濡れて光る唇を左右に引いてフレンは笑んで見せる。ついさっきまで素っ裸に大真面目な顔で報告書を読むというアンバランスこの上ないことをしていた男と同一人物とは思えない妖艶さに、オレは思わず僅かに身体を硬くして顎を引いた。
「お前……朝っぱらからその顔は反則だろ。すっげーエロい」
「君がそれを言う?ユーリこそ朝だろうが夜だろうが無駄に色香を振り撒いているくせに。しかも無意識。まったくタチの悪い」
くどくどと説教をする時と同じ口調で言いながら、オレの肌の乾いた場所ばかりを緩慢に辿っていたフレンの手がようやく湿った場所に触れる。自覚のないオレの行動のどこに色香とやらを感じているのか知らないが、意識しまくった「その気」たっぷりの濡れた吐息を零し、熱を込めた目でちらりと上目に見遣ると、降参と言わんばかりに一旦視線を逸らしたフレンはやがて確かな熱情を込めた眼差しをオレに向けた。
「せっかくヨーデル様から頂いた休暇だしね。ユーリの言う通り、今は仕事のことは一切忘れることにするよ」
低く、甘く囁く唇が首筋に押し当てられる。引いていた顎を逆に逸らして無防備に喉元を晒すと、柔らかな皮膚にやんわりと歯を宛がわれた。
固い歯の感触に戯れと分かっていても本能的な恐れに身体が細かく震える。鳩尾の辺りがきゅうと引き攣れるような感覚と共に、フレンの手が焦らすように曖昧に触れている下肢に熱が降りて行くのを生々しく自覚した。
今ここでフレンの目をオレに向けさせ、しっとりと視線を絡めて名を呼べばきっとフレンは落ちる。あからさまに誘う声でも切羽詰まった声でも甘ったれた声でもいい。声の質が問題なのではなく、オレがフレンを呼ぶ、その一点のみが今この状況では最大の武器になるのだ。
でも結果が分かりきった賭けほど面白くないものはない。落とすか、落とされるか、引き伸ばせるところまで駆け引きを楽しむ。
常々フレンは口ではオレに敵わないと言うけれど、オレにはフレンのような粘り強さも何手も先を見通すような目もない。この勝負はほぼ互角。
落とすか、落とされるか。
喉元を擽る髪の柔らかな感触に早くも状況の不利を感じつつ、散って行こうとする意識を手繰り寄せるように覆い被さる背に縋る。フレンの滑らかな肌の上を縦横に走る細かな傷痕が指先に引っ掛かり、ざらりと乾いた音を立てた。
「爪痕、増やしてもいいよ」
鼓膜を濡らそうとでもしているかのような甘く湿った声が耳の奥に吹き込まれ、フレンの肩越しに見上げる見慣れた部屋の天井がくにゃりと歪む。吹き込まれた声は身体の奥で瞬く間に今にも弾けんばかりに熱く膨らんだ。
声にこそ出さなかったものの、内心で勝負は互角などと大口を叩いた自分を笑う。
あっという間にこのザマでは端から勝負になどなりはしない。思えば昨日の夕方、フレンがこの下町の狭い部屋に「ただいま」と帰って来た時にオレはもう負けていたのだ。
何が「ただいま」だ、このバカ。オレが城に忍び込んだ時には「よく来たね」なんて自宅に迎え入れるようなことを言うくせに。
栄えある帝国騎士団の団長と、ギルドと言えば響きは良いけど実質便利屋で根なし草のオレ。でも、互いの立場がどんなに変わってもフレンにとっての帰るべき場所はこの部屋、オレのいる場所ってことなんだろうなぁなんて想像すると、それは嬉しいとか照れくさいとかそういう次元を遥かに越えた昂揚に繋がる。
ラピードが久し振りに会うフレンにじゃれつきたい気持ちも充分に分かるからその様子をじりじりとしながら見守り、満足したところで謝りつつもさっさとご退場願って速攻で灯りを消した時点でフレンは何もかもお見通しだったに違いない。オレのそんな性急さをフレンも窘めたり咎めたりしないのだから同じ穴の狢だ。
今日も下町は元気だ。朝食を終え、ひと心地ついた宿泊客が出ていく頃合いなのか、階下からは木の床を踏む複数の靴音と女将さんの賑やかな声が聞こえてくる。細かく忙しなく行き来しているのはおそらくテッドの足音だ。
そんな健康的な朝の気配とは裏腹に、オレの中の熱はどんどん妖しく上昇していく。世界がオレとフレンだけで満ち、かろうじて捉えていた日常の気配が次第に遠くなっていくのをオレは引き止めなかった。
背に這わせた指先に乾いた爪痕がざらりと触れる。まだ爪は立てない。
指の腹を強く押し当て、伏せた瞼を押し上げて真上に被さるフレンを見上げる。その視線が青い瞳とぶつかった。
「ユーリ」
匂い立つほどの甘い甘いフレンの声。
底の見えない深い淵に堕ちていく感覚と、目も眩むほどの高みへと昇っていく感覚。
それらに同時に突き落とされ、煽られたオレはなけなしの理性をあっさりと投げ打ち、指先に馴染んだ背にゆっくりと爪を立てた。
END
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