言の葉の刃 言の葉の種
   

何をどんなふうに言ったのか、どこをどうやって歩いたのか、まったく覚えていない。気付いたら灯りも点けていない真っ暗な駐屯地のテントの中にいた。
記憶は抜け落ちているが自身の率いる隊が特に混乱している様子もないところを見ると無意識にでも職務は全うしたのだろう。あるいは部下が上手く取り計らってくれているのか。
夜明けの遠いテントの中で、フレンは溜息すら零すこともできずに虚空を見詰めていた。

―――僕も消すか

その一言が耳から離れない。他ならぬ自身が吐いたその言葉が遅効性の毒さながらに全身をじわじわと蝕んでいく。
言うつもりなどまったくなかった。ましてや彼が大事に思う仲間の前でなど。
彼の行いを許すわけにはいかない。許せば今までフレンが築き上げてきたものを根底から否定することになる。
けれど全てを分かっていながら彼がその道を選ぶと言うのなら、フレンが選ぶ道も自ずと決まるのだ。彼が彼の進む道を定めた時にフレンもまた進む道を定め、彼の決めた覚悟のためにフレンもまた自身の覚悟を決めた。
それなのにフレンは彼の覚悟を非難する言葉を吐いた。まるで呪詛のように。

―――君は僕を消すと言うのか

彼の答えは簡潔。彼は決して否とは言わない。彼の覚悟はもう揺らぎようがないほどに固まっているからだ。
彼は守るべきもののためならどこまでも真っ直ぐに突き進む。そのために自分が傷付くことも厭わない。揺るがない正義があるからだ。
僕も消すか、そう問い掛けたフレンに彼は是と答えた。お前が悪党になるならと。きっと彼はその言葉の通り、彼の貫く正義のために自分が仇なす存在となった時にはその剣でこの身を斬るだろう。

闘技場都市の船着場で、彼を前にフレンは剣の柄に手を掛けた。騎士としての任務を全うするため、己の正義を貫くために。
だが結局その剣を抜くことはできなかった。揺るぎない真っ直ぐな彼の視線を痛いほどに感じながらも、その目を見返すことすらできなかった。

―――ラゴウやキュモールのように、君は僕を消すと言うのか

言うつもりなどなかった。彼の仲間の見守る前でなど。
彼の罪を暴いたのは自分が楽になりたかったからだ。お前こそ罪人だろうと彼を責める言葉を吐くことで、胸の奥深くで蠢き頭を擡げようとする罪の意識から少しでも目を逸らそうとしていた。

「……罪……?」

自身の思考に自身で問い掛ける。
自分は罪を犯しているというのか。正しい者が正しく生きていける世を築くため、帝国に仕える騎士としてその任務を実直に遂行してきたつもりだった。権力の傀儡にはならないよう、常に己の意思を保ち続けていたつもりでもあった。
与えられた任務には忠実に、誠実に。だが本当にこれで良かったのか。

揺らぐのは迷いがあるからだ。今自身が進む道の先に確かな未来を描けない。何を理想として今この道を駆けているのか分からない。己の罪を認めてなお、彼は光を目指して駆けているというのに。
どうすればいい?どうすれば歩む先に再び光を見出せるのだろう。薄暗いテントの中でフレンは自問自答を繰り返す。

今まで自分の生き様を思い描くことはあっても、死に様を思い描いたことはなかった。
今は思う。死ぬとしたら自分はきっと彼に斬られて死ぬのだろう。そして死に際に初めて己の過ちに気付くのだ。

闇の中で独り思う。
彼ならどうするだろう。彼なら今の自分に何と言うだろう。
いや、きっと彼は何も言わない。自分のことは自分で決める、自分で道を選べない者に進む道を示してくれるほど彼は甘くはない。

『オレにこんなことを言わせるな』
そう言った彼は、まだ道が潰えていないことをフレンに教えていた。たとえ今は誤っていたとしてもまだ過ちを正すことはできる、決して手遅れではないのだと。 

考えろ、この胸の奥に澱む暗い影は何だ?見極めろ、真実はどこにある?思い出せ、彼と共に目指した理想の未来を。
自身の犯した過ちから目を逸らすな。まだ道は潰えていない。

―――僕も消すか

自分自身の吐いた言葉の刃が自分自身の胸を抉る。吐き出した言葉は決して消し去ることはできない。永遠にこの身を蝕み続ける。たとえ彼がフレンを許したとしても。
それが彼の罪を暴くことで自身の罪から目を逸らそうとした愚かな自分に課せられた罰。

「……ユーリ……」

行き着く場所のない小さな呟きが闇を彷徨う。それは他の誰よりも助けを求めてはいけないのに、他の誰よりも会いたい彼の人の名前。
会いたい。今すぐにでも。そして許されるものなら泣いて地に額を擦り付けてでも許しを乞いたい。
けれどどれだけ言葉を尽くしても、どんなに無様な姿を晒しても、きっと彼は今のフレンを許してはくれないだろう。進むべき道を見失い、途方に暮れているだけの今の自分では。

もう一度立ち上がること。脆く崩れ落ちていく地を強く踏み締め、再び足を踏み出すこと。どうあっても生きていかなければならないのなら、時に迷い立ち止まるのは仕方のないこと。大切なのはそこから新たな一歩を踏み出す決断をすることだ。
今のフレンを彼は決して許さないだろう。そんな所で何を燻っているのだと叱咤する声すら今のフレンには聞こえない。

遠い。互いの存在も、思いも、何もかもが。
もう一度彼の隣に立つために、自分は自分だと自信を持って彼と共に駆けて行くために立ち上がらなければならない。たとえまだ迷いはあっても。お前なら分かるはずだと言った彼の言葉に応えるためにも、もう一度走り出さなければならない。
こんな場所に居てはいけない。

二度と立ち上がれないのではないかと諦めかけた重い身体を縛る鎖が断ち切られる。まだ進むべき道は見えず、光も見出せない。
それでも動かなければ。彼が遠く手の届かない所に行ってしまう前に。
彼が彼の正義を貫くために覚悟を決めた時に、フレンもまた己の正義を貫くための覚悟を決めたのだ。

目的を見失い、虚しく傍らに投げ出されていた剣を手に取る。迷いを持った手には重いそれを腰に佩き、フレンは目を閉じた。
見えるのはどこまでも広がる深い闇。何が真実で何が虚構なのか。何が正しくて何が誤りなのか、今のフレンにはまだ見えていない。それを見極めるためにも動き出さなければ、真実は永遠に隠されたままだ。

足を踏み出す。足の裏が確かに大地を踏みしめる。
まだ大丈夫、道は閉ざされていない。走り出すことができる。

「……ユーリ」

もう一度その名を呟く。
もう一度彼の隣に立てるように。彼の隣に立つ自分を恥じなくてもいいように。

目を開き、真っ直ぐに前を見据え、まだ夜明けの遠い闇の中へとフレンは確かな一歩を踏み出した。


END