Invidia
足を踏み出すたびに薄桃色の花弁が舞い上がる。風車の音がコロコロと長閑に響くハルルの街は穏やかな陽光の下、住人や行商人、傭兵風の旅人、様々な出で立ちの人々がのんびりと行き交っていた。大振りの武器を担いだ筋骨逞しい大男でさえこの街の空気は淡い微笑を浮かべて花を見上げる柔和な風貌に変えてしまうらしい。
かく言うユーリもこの街の空気に触れると身体の奥で強張った芯が緩やかに溶けていくような感覚を味わう。落ち着きのないユーリには長閑すぎて永住するかと言われれば返事に困るが、たまにこうして足を運び、ほっと一息つきたくなる場所ではあった。
だが今日のハルルはどこか雰囲気が違う。殺伐としているわけではないが少し緊張感に似たものが漂っているような気がしてユーリはゆっくりと辺りを見渡した。
その理由はすぐに知れる。街の奥に進むごとに揃いの甲冑に身を包んだ集団が見えてきた。帝国騎士団だ。人数はさほど多くもなく、小隊程度といったところか。
「巡礼、かな……」
半ば独り言のユーリの呟きに隣を歩く相棒の闘犬、ラピードが鼻から空気が抜けるような少し変わった声で答える。見下ろすと、それに合わせてユーリを見上げたラピードの目は常になく輝き、赤い舌を覗かせる口角の上がった口元は笑っているように見えた。
「ユーリ?」
普段はあまり感情を表に出さないラピードなだけに一体何事かと訝しく思ったが、騎士の集団の真ん中から届いた声にその理由もまたすぐに知れる。柔らかな笑顔を浮かべてユーリを呼びつつ左右に分かれた騎士団員達の間をゆっくりとこちらに向かって歩み寄ってくるのは、帝都ザーフィアスの下町で兄弟同然に育った旧知の友だった。
「フレン」
フレン・シーフォ。かつて下町の小さな部屋で、明日税の徴収にやってくる騎士をどうやって足止めしようかと画策し合った友は、今や帝国騎士団の長だ。大きく変化した世界を支える柱のひとつとして西へ東への激務は想像に難くなく、顔には疲れの色がうっすらと見えるものの、姿勢を正した団員の間を歩く姿はすっかり団長が板に付き、威厳すら漂わせている。眩い金色の髪と青を基調とした装束がハルルの花を背景によく映えた。
「物々しいな、巡礼か?」
控える隊員達に何事か指示を出した後、改めて歩み寄ってくるフレンに問い掛けると、フレンは「いや」と首を横に振る。
「たまたま僕達の帰りとエステリーゼ様の登城が重なったから護衛のためにお迎えに上がったんだ」
「ふぅん」
皇帝家の皇女であるエステルは、世界の命運を賭けた旅の中で全てが終わったらハルルに住みたいと言った通り、今はのんびりとした穏やかな空気の流れるハルルの街で思い描くままに物語を書き綴りながら自由に暮らしていた。そうしながら足繁くザーフィアスに通い、長い間空位だった皇帝の座に就いたヨーデルより託された副帝としての職務も立派にこなしている。
今エステルはとても楽しそうだ。それこそが何よりだとこの街で彼女に会うたびにユーリは思う。
「しかし、護衛なんて必要なのかね。結構強いぜ、あいつ」
「それはまぁ……否定はしないけど、でも魔導器がなくなった今、街の外に出るのは前以上に危険だからね。魔導器もエアルも必要としない魔術の確立はまだまだ先の話だろうし、警戒するに越したことはない」
その時、ハルルの木の根元に続く坂道から軽やかな足音を響かせて当のエステルが駆け降りてくるのが見えた。少し伸びたハルルの花びらと同じ色の髪を結い上げたエステルは城住まいの頃とは比べ物にならない簡素な服に身を包んでいたが、内側から輝くその姿は高価なドレスを着ていた時よりも華やいでいる。
「ごめんなさい、フレン、お待たせしてしまって……」
まずはフレンに向けられたその目が次いで後ろに立つユーリへと流れ丸く見開かれた。
「ユーリ!」
「よう、元気そうだな」
以前のエステルなら抱き付く勢いで駆け寄り、怪我はないか大丈夫かと引き剥がすまで心配を続けただろうけれど、その過剰な心配性も今では随分と落ち着いたらしい。案の定怪我はしていないかと問われはしたけれど、挨拶に始まる遣り取りは落ち着いたものだった。
「出発は明日ですからそんなに慌てて来られることはなかったんですよ、エステリーゼ様」
「ええ、でも……」
挨拶だけはと言いかけたエステルの声に、今度は坂の上から駆け下りてくる複数の細かな足音が重なる。ハルルの街の子供達だ。以前に魔物の襲撃から救ってくれた騎士の顔を覚えていた子供達は、フレンに口々に高い声で挨拶をしながらもエステルの周りでそわそわと落ち着かない。
「おねえちゃん、おはなしの続き読んで」
「はやくはやく」
今日は天気も良いし暖かい。ハルルの木の下で子供達に囲まれて本の読み聞かせをしていたのだろう。催促する子供達に前後左右から手を引かれ、服の裾を掴まれて困ったような顔をしながらもエステルは嬉しそうだ。
「明日の朝、お迎えに上がりますので」
気遣ったフレンに微笑んで頷き、エステルはその顔をユーリに向ける。
「ユーリ、また後で。ラピードも、後で骨付きのお肉持って行きますね」
太陽の光さえ照り返すような弾んだ笑顔と声を残し、エステルは子供達に手を引かれて坂道を駆け上がっていく。その後ろ姿をろくな言葉も返せずにユーリはただ見送っていた。
「いて……っ!」
どれだけそうしてぼんやりしていたのか、足元に走った鈍い衝撃に、さほど痛くもないのにユーリは驚き混じりに大袈裟な声を上げる。
衝撃の原因は鞘に収まったフレンの剣だ。腰に帯びたままの剣の腹でふくらはぎの辺りを叩かれた。
「何すんだよ」
すかさず抗議したユーリをフレンは半分瞼の落ちたじっとりとした横目で睨んでいる。
「……何だよ」
「今、見惚れてただろ」
「…………」
惚れたはれたはともかく、ぼんやり見ていたのは確かなのでユーリには返す言葉がない。ユーリの沈黙にフレンは深々と溜息を吐いた。
「……誤算だったな」
「何が」
ユーリの問いには答えず、フレンはやれやれと緩く首を左右に振りながら指先を額に当てる。
「確かに、元々可愛らしい方だったけれど、ハルルに来られてからのエステリーゼ様はさらに美しくなられたからね。見惚れるのも分かるよ」
「……だから何が言いたいんだよ……」
「旅の間に少しずつエステリーゼ様の気持ちがユーリに傾いていくのは見ていて分かったけど、ユーリの方がっていうのはないと思っていたんだけどな」
重ねた問いにも答えず、ぶつぶつと続けて落とされたフレンの言葉に今度はユーリが深々と溜息を吐く。フレンの言う「誤算」とはどうやらそういうことらしい。
「城から連れ出した時のあれはヒヨコの刷り込みみたいなモンだろ?リタに会うまで同年代の友達はいなかったらしいし、ちょっと毛色の違った人間が珍しかっただけだって。それにあん時は命懸けだったからな、仲間の絆ってヤツは確かにあったけどお前が考えてるような種類のモンじゃねえよ」
ユーリと出会い、城から抜け出すまでの十数年間、エステルはずっと城の中に閉じ込められていた。広々とした城の中で世間を知らず、心から語り合える友もない。大切に扱われるのは時期皇帝候補だから。近付く者達は誰も彼女をエステリーゼという一人の少女として見ることはなく、利権を握るための道具として利用することしか考えていない。
何より不幸だったのは、エステル自身がそんな生活を疑問には思っていなかったことだ。
そんな生き方の中で「自分」というものを持たなかったエステルは、長く過酷な旅の中で己を知り、誰かに決められた道をただ歩くのではなく自ら進む道を選択し、世界を広げることで大きく成長した。内側から放たれる光はその証だ。「美しい」と素直にそう思う。
「ま、キレイになったなと思ったのは否定しねえよ。会った頃もいかにも姫さんって感じでキレイではあったけど身なりと品がいいだけの人形みたいだったからな」
「……エステリーゼ様だけじゃない。君もだよ、ユーリ」
少しの沈黙の後、ぽつりと零れたフレンの言葉にユーリは露骨に眉を顰めた。
「何だよ、さっきからネチネチと辛気臭ぇな」
怒っているわけではなさそうだが、いい歳をして何を不貞腐れているのかとは思う。ぼんやりとエステルに見惚れていたのをからかわれるだけかと思いきや、なぜその話を発端に自分が絡まれているのか分からない。まるでタチの悪い酔っ払いでも相手にしているような気分だ。
「最近君の名前を聞く機会が増えた」
ユーリの方を見ないフレンの目にはハルルの花が映り込んでいる。何の話が始まるのかと腕を組み聞きの体勢に入ったユーリの横でラピードが鋭い牙を覗かせて大きく欠伸をし、ぺたりとその場に腹を付けた。
「傭兵団の編成を騎士団とギルドで行っているだろう?帝国がギルドに協力を仰ぐことも多くなった。ギルドの人達と話しているとね、時々聞かれるんだ。あんたが凛々の明星のユーリ・ローウェルと知り合いというのは本当なのかって」
目に映り込む風に舞う花弁を追うようにちらりと横目に動いたフレンの青い瞳がユーリの顔の上で止まる。
「主に女性にね」
ぽつりと付け足されたフレンの一言に、ようやく彼が言わんとすることを察してユーリはにやりと薄く笑う。
笑い事ではないと言わんばかりにフレンは眉根を寄せ、浅く溜息を吐いた。
「恋人はいるのかとか、結婚はしているのかとか、具体的なことも結構聞かれるよ」
「それで?お前はなんて答えてんだ?」
「さあ、どうなんでしょうね。古い友人なのは確かですが彼の行動をいちいち把握しているわけではありませんので」
「で、それ以上何もツッコミようのない鉄壁の微笑を浮かべるわけだな」
堪らず声を上げて笑うユーリを少しばかり忌々しげに睨んだフレンはまたしても溜息を吐く。
「ユーリが結界の外に旅立ってくれた時は本当に嬉しかったけど、こんな弊害が出るとは予想してなかったな。外に出て活き活きとしている君は目立つからね。下町で原石のまま埋もれてくれていた方が気が楽だったかな」
珍しくぶつぶつと歯切れ悪くぼやくフレンに半ば呆れつつユーリも溜息に肩を落とす。フレンこそ帝都ザーフィアスで年頃の娘達によって親衛隊が結成されるほどの人気を博しているくせに。
「オレよりお前だろ。若き騎士団長の嫁の座を巡って良家のお嬢様方があの手この手でアピールしてんじゃねえの?お偉方の年寄り連中はなぜか口揃えて嫁貰って身を固めろって言うしな」
明確な返事がないところを見ると、どうやらユーリの言葉は当たらずとも遠からずといったところらしい。フレンの場合は見た目がこれだから家のために親が躍起になるというよりも娘達自身の方がより積極的になりそうだ。敵の数と本気の度合ではユーリの方が圧倒的に不利。世間体という意味では勝ち目すらない。その辺りのことをフレンは分かっていない。
「オレは生涯独身貫いたって誰にも迷惑掛けねえけど、お前は違うだろ?天然陛下辺りはニコニコ笑って好きにさせてやれって言いそうだけど、評議会の爺様やら貴族出身の騎士団の重役辺りは騎士団長の権限目当てで金かけて磨き上げた自慢の娘を刺客よろしく送り込もうとしてるんじゃねえの?オレの方がよっぽど気が気じゃねえよ。その辺分かってケチつけやがれ、このニブちん」
「ニブ……って……」
常から口では敵わないと自覚しているフレンは息継ぎもせず並べたてられたユーリの言葉の最後だけを拾って絶句している。要約すればどういう意味になるのかいまいち理解しきれていないらしいところが何とももどかしい。
言葉遣いは悪いけれどユーリにとってはありったけの想いを込めた告白だというのに気付いてもらえないままなのは切ない。仕方がないなとユーリは次の言葉のために軽く息を継ぐ。
「今度誰かにオレのこと聞かれたら答えとけ。ユーリ・ローウェルの想い人は金髪碧眼の美人だってな。その代わり、お前も同じようなこと聞かれたら僕の想い人は長い黒髪の美人ですって言えよ」
フレンの鮮やかな青い瞳が丸く見開かれた。確かにわざわざ言葉にしなくても互いに充分に分かり合っているので「好き」だの「愛している」だのという甘い言葉を使うことはめったにないけれど、今更そこまで驚くようなことでもあるまいに。
「間違っても美女って言うなよ。天地がひっくり返ってもオレもお前も女じゃねえ」
「……ユーリ……」
「今抱き付くのも無しな」
ラピードのような動きのよく見える耳があれば歓喜に震えてぺたりと伏せられているだろう表情を浮かべるフレンを手で制し、ユーリは手にした荷物を担ぎ直した。
思えば随分長い間立ち話をしている。あからさまに注視している者はいないものの、興味深げにちらちらとこちらを伺う複数の視線を感じ始めていた。
「騎士団は宿には泊まらずに街の外で野営なんだろ?日が落ちたら夜這いに行ってやるから大人しく待っとけ。じゃあな」
目元を綻ばせて満更でもなさそうな顔をしているくせに「宣言して来るのを夜這いとは言わない」とか何とか細かいことを言うフレンにひらりと手を振り、のそりと大きな体を揺らして立ち上がったラピードを伴ってユーリはさっさと宿に向けて歩き出す。らしくない自分の言葉に急激に羞恥が込み上げていた。妙に頬が熱いのは日差しのせいにする。
まさかフレンがあんなふうに幼稚であからさまなやきもちのやき方をするとは思わなかった。悋気を見せられ、それを自分が重いとも煩わしいとも思わず、もしかしたらちょっと嬉しいとすら思っているかもしれないというのも意外だ。
もしフレンが「この人と添い遂げる」とユーリの知らない女性を紹介したとしたら、多少言葉を失うことはあってもきっとユーリは笑ってそれを祝福するだろう。逆もまた然り。その時が来ればおそらく十中八九その通りになると見て間違いはないと勝手に決めつけていた。
イヤだどうしてと駄々を捏ね、追い縋るようなみっともない真似はしたくない。相手の幸せを第一に考え、たとえ自分は少し寂しかったとしても相手の選んだ道に理解を示し笑って見送りたい、そう思っていた。
どちらかと言えばユーリもフレンも物分かりの良いフリをする傾向にある。本心は別の所にあるくせに、「お前がそう言うなら」「君がそれを選ぶなら」と分かったようなことを言うことが多い。
だが、そうやって物分かりの良いフリをしてあっさりと身を引くのが必ずしも美しい想いの在り方ではないのだと、フレンのやきもちを目の当たりにして改めて知る。押さえ込まれ行き場を失くした想いは胸の奥でどんな形に変化するのだろう。綺麗な思い出として昇華できれば問題はないけれど、その想いの強さの分だけ研ぎ澄まされた刃は深く胸の奥を抉り、醜く形を変えていくのではないか。
格好悪かろうがみっともなかろうが、自分の想いに素直になるというのは大事なことなのだ。長年不遜な態度と皮肉な物言いで本心を覆い隠してきたユーリにとっては酷く難しいことではあるけれど。
だが帝都の下町という狭い世界から飛び出し、それこそ多分に毛色の違う仲間達と出会ったことによって塗り重ねたその化けの皮も剥がされつつある。
素直に自分の想いを曝け出してみるには絶好の機会なのかもしれない。少しくらい甘えてみるのもいい。驚くか、普段の真面目くさった顔からは想像もできないくらいにデレデレと笑み崩れるか、フレンの顔が見ものだ。
「とりあえず、夜這い宣言もしたことだし風呂にでも入って自慢の黒髪を念入りに洗っておくか」
ずっと旅の空の下だったので三日くらいはまともに水浴びもしていない。甘い行為に及ぶ時、フレンはやたらとユーリの髪に触れたがるが、その髪も砂埃を含んでごわごわとしている。差し込んだ指も通りにくい。
「おお?なんか変に緊張してきたぞ」
黙っていると思考が妙な色に染まりそうで、無駄に隣のラピードに語り掛ける。賢い相棒は若干の呆れ顔を見せつつも律儀に答えてくれた。
薄桃色のハルルの花が青い空に映えている。
日の落ちる時刻はまだまだ先だ。
END
|