最後の晩餐
 

窓のない冷たい石造りの狭い部屋。鉄格子の向こうで死を宣告された囚人は闇色の長い髪を垂らし、深く項垂れていた。
しかしそれは己の所業を悔いているわけでも刻一刻と迫る終焉に怯えているわけでもない。こんな時、こんな場所だというのに囚人は呑気に居眠りをしているようだった。

「こんな時でも君は変わらないね」

彼の死を決定するたった一枚の紙に署名を施した一人、国の軍部を司る機関の最高司令官である金色の髪の青年の沈んだ声が石造りの壁に反響する。
黒髪の囚人は垂れていた頭を上げ、その姿を映した目元を緩めた。

「何だ?ここはお前が来るような場所じゃねえだろ。用があるならもっと下っ端のヤツ寄越せよ」

湿った冷気と饐えた臭い。罪人の終の棲家に清廉なお前はそぐわないと囚人は笑う。目に馴染んだその笑みに青年は哀しげに髪と同じ色の睫毛を伏せた。

「君に最後の食事を運ぶ役を無理を言って譲ってもらった。何がいい?何でも好きなものを用意するよ」
「ふぅん、何でも好きなもの……ね」

青年の問いに囚人は緩く頷き、少し考えるような仕種をして見せる。

「そんじゃ、お前の愛情たっぷりの手料理」

考える仕種を見せたのはほんの一瞬で、まるで初めから決めていたかのようにすぐに心を決めて囚人は希望を口にする。眉間に漂う愁いの色を深め、青年はただ静かに「分かった」と頷いた。
ほどなくして、再び訪れた青年の手から温かな湯気の立ち上る皿を受け取った囚人は幸せそうな仄かな微笑を浮かべる。
しかしその微笑は匙で掬い上げた料理を口に含んだ瞬間消え去った。

「……何だよ、愛情たっぷりって言っただろ……」

皿の縁に小さな音を立てて匙が置かれる。そして二度と料理には匙を入れられないまま、ただ無意味に立ち上る温かな湯気だけが冷えた空気の中を漂った。

「なんでレシピ通りに作るんだよ……」

後悔も恐れもない囚人の瞳に初めて哀しげな色が宿る。その姿が白く霞んで見えるのは立ち上る湯気のせいなのか。

「……めちゃめちゃ美味いじゃねえか……」

窓のない冷えた石造りの小さな部屋に、死を宣告された囚人の小さな呟きが落ちる。



* * * * *



「っていう夢を見た」

あっけらかんとしたユーリの言葉を、フレンは怒りとも哀しみともつかない複雑な感情を抱きつつ聞いていた。当のユーリはほこほこと温かな湯気の立ち上る皿を前にご満悦の態で笑っている。

「……いきなり来てお前の愛情たっぷりの手料理が食べたいなんて言うから何事かと思えば……そういうこと……」
「悪ぃな、やっぱ寝覚め悪かったからなー」
「……確かにね……」

自分で見た夢でもないのに話を聞いただけでこんなにも鬱々とした気分になるのだ。夢を見た当人の胸の内は想像に難くない。

「それで?本物の僕の手料理には満足できたかい?」
「おー、もう大満足。やっぱりお前の手料理はこうでなきゃな」
「……それはどうも」

下町の下宿じゃあるまいし、城の中ではいきなり来ていきなり手料理が食べたいと言われてもすぐに「ハイどうぞ」と出せるわけがない。それでもユーリから「お前の手料理が食べたい」と言われたのは初めてで、しかも「愛情たっぷり」などと付け加えられればフレンとしても腕を振るわないわけにはいかない。
幸い食事時からは外れていたので騎士団の食堂は無人だったが、こそこそと忍び込み、買い出しに行ける時間帯でもないので何度も詫びつつ貯蔵室からバレない程度に食材をくすね、警備の兵士に気付かれないように調理を進めるのは骨が折れた。

そうして短い時間の中でフレンなりに精一杯の愛情を込めて作り上げた料理は我ながら感嘆の溜息が零れるほど美しく出来上がったが、それを口にしたユーリの第一声は「そう、これ!この摩訶不思議なフレン味!」だった。決して「不味い」とは言わないのがユーリのせめてもの優しさなのだろうが、遠回しな酷評は地味に効く。自分の手料理はそんなに酷いのだろうか。
しかしながら、あまり積極的に食は進まないものの、フレンの手料理を前に幸せそうに笑ったユーリを思うと味の良し悪しなど大したことではないのかなとも思えてくる。

「ユーリ」

ひたすら微妙な顔でフレンの手料理を頬張るユーリの長い黒髪の内側に指先を潜らせる。洗っても濡れたまま放ったらかし、櫛を使っている姿など見たことはなく珍しく梳かしていても適当な手櫛。粗野な扱いを受けているのにユーリの髪は柔らかく滑らかにフレンの指に絡んだ。
匙を置いたユーリが黒紫の瞳をフレンに向ける。

「ユーリの犯した罪は重い。でもそれを知っていて、君の罪を踏み台に今の地位を手に入れた僕もまた罪人だ」

フレンはユーリの罪を知っている。知っていてそれを黙っているばかりか、それを足掛かりにして帝国騎士団長という地位へと上り詰めた。フレンの栄光はユーリの罪の上にある。それはきっと同罪以上の大罪だ。
この先、ユーリが再びその手を血に染めることがないとは限らない。たとえそれが許されないことであっても、己の正義を貫くためならユーリは躊躇わないからだ。ユーリの夢が正夢にならないとは言い切れない。けれど、とフレンはユーリを見詰める目に想いを込める。

「僕とユーリは同じ罪を背負っている。もし君が死を告げられるとしたら、それは僕にも死が告げられる時だ」

ユーリがいなければ今のフレンはいない。権力の前に為す術もなく、存在そのものを消されていた可能性すらある。
フレンが騎士団の長として帝国を導いていくのは、もう二度とユーリがユーリの正義のためにその手を血に染める決断をする必要のない世を築き上げるため。もし再びユーリが正義のために剣を抜く時が来るとしたら、それはきっとフレンが罪を犯した時。

「だから、もしその時が来たら一緒に最後の食事を食べよう」

髪に差し込み、頭の丸みに沿わせた手をそっと引き寄せる。抗わないユーリの頭がトンと軽い音と共にフレンの肩に乗せられた。
ここに来るまでユーリがどの大陸のどの街にいたのかは知らない。けれどユーリともあろう者が、夢を夢と笑い飛ばせずフレンの元に助けを求めに来たのだ。抱えていた不安の大きさが手に取るように分かる。

下町で暮らしていた幼い頃、怖い夢を見て飛び起きてもいつも隣にユーリがいたからフレンは安心してすぐに再び眠りに落ちることができた。ユーリもきっと同じ。飛び起きても、気配に目覚めたフレンと目が合えば安心したように息を吐き、何も恐れることなく再び目を閉じた。
フレンに寄り掛かり細く吐息を零したユーリはようやく悪い夢から醒めたようだった。俯き顔は見えないけれど、ユーリの身体からゆっくりと力が抜けていくのが分かる。

「僕はやっぱりユーリの手料理がいいな」

本当は例え話でも最後の食事のことなど考えたくはない。けれど、もしその時に望みを叶えてもらえるならそれ以外には思い付きそうになかった。
もちろん愛情たっぷりでとフレンが付け加えると、顔を上げたユーリはそんな話はしたくないと言わんばかりに子供じみた膨れ面を見せ、「ヤなこった」とそっぽを向く。

ユーリが手にした皿のフレン渾身の一品料理はすっかり冷めきっている。
すでに立ち上る湯気もないそれを一匙掬い口に含んだユーリは、何とも言えない複雑な表情を見せた後、幸せそうに小さく笑った。


END