明けの明星 宵の明星
紫紺の空にぽかりと丸い月が浮かんでいる。夜空を見上げたユーリは眩い白銀の光に目を細めた。
月は闇夜を照らし出す。だがその光が明るければ明るいほど、影の部分はより一層暗くなるものだ。闇に紛れたいなら余計な光はないに越したことはないが、あったらあったで存外邪魔なものでもない。夜の景色に目を向けるものは壁伝いにこそこそと動く小さな影よりも、美しく荘厳な光を放つ月にこそ目を向ける。こんな月夜に侵入者などいないと端から決めてかかっている城の連中ならば尚のこと。
誰に咎められることもなく目的の部屋の窓辺に辿り着いたユーリは、外に向けて開け放たれた窓の内側へと体を滑り込ませる。全開の窓は夜風を取り込むためとはいえ少々不用心すぎるのではと思いはすれど、そのいくらかが自分のためだということもユーリは知っていた。
広さのわりに余計な調度のない簡素な部屋は明かりが落とされ、部屋の主は既に床に就いているようだった。足音を立てないようにゆっくりと部屋を横切り、柔らかそうな白いシーツがこんもりと人の形に盛り上がっているベッドの脇に歩み寄る。
「…………」
横たわる部屋の主の顔を覗き込み、ユーリは知らず短い溜息を零した。
陽の光の下で金に輝く髪は窓から斜めに射し込む月明かりの中では青味かかった銀色にも見える。目を閉じた顔は目も鼻も唇も動かし難く整ってはいるけれど、まるで作り物のように固く強張っているように思えた。
「……ったく、これでよく人のことばっかり損な役回りだの一人で抱え込もうとするだの言えたもんだぜ。お前の方がよっぽど酷い顔だっての。こんなにやつれやがって、男前が台無しだぜ」
青白い頬にそっと手を伸ばす。固くて冷たそうに見えた頬は、思いのほか指先に仄かな温かさと柔らかさを伝えた。
「なぁ、狸寝入りが下手な騎士団長様」
ユーリの落した言葉に部屋の主、フレンは固く閉じた目元と引き結んだ唇をゆるりと綻ばせる。
「せっかく君の声を子守歌にもう少しで眠れそうだったのに……」
眠りに落ちる間際だったのは本当なのかもしれない。普段から甘い声音は端々が丸く崩れて舌足らずに聞こえるほどで、シーツの中から伸べられ頬に触れるユーリの指先を包んだ手もまるで小さな子供のようにほこほこと温かかった。
「悪ぃな、かえって起こしちまったか」
ユーリの言葉にフレンは目を閉じたまま淡く微笑む。
「僕はね、ユーリ……」
安心しきって甘えるよく懐いた猫のように、フレンは引き寄せたユーリの手に頬を擦り寄せた。
「今まで一度だってつらいと思ったことはないよ。歯痒いと思ったことは何度もあるけれど……」
静かに言葉を紡ぐ唇が指先を掠め、触れた場所から全身へと仄かな熱が緩やかに浸透していく。その感覚にユーリは我知らず溜息とは色の違う短い吐息を零した。
「全てを分かってくれている人がいるからね」
ユーリの手を包むフレンの指が解れ、温かな手の平が手首から肘を辿り、二の腕、肩へと上ってくる。それに合わせてユーリが上体を倒していくと、ゆっくりと瞼を開いたフレンは迷うことなく真っ直ぐにユーリの目を見詰めた。
「その全てを分かってくれている人が君だということは僕にとっては何よりの幸運だよ」
ユーリの肩を包むフレンの手が前屈みになったユーリを更に引き寄せる。抗わず、ユーリはフレンに覆い被さるように体を倒した。
「ユーリ……僕の明星……」
囁きは吐息となってユーリの唇に触れ、次の瞬間には深い寝息に変わる。
倒した時と同様、ゆっくりと上体を起こすと肩に乗せられていたフレンの手がぱたりとシーツに落ちた。
「……ったく、自分だけ言いたいこと言ってさっさと寝ちまいやがって」
深く穏やかな寝息が規則正しく部屋を漂う。覗き込んだ寝顔は部屋に入ってきた時に目にしたものより幾分柔らかく見えた。
月光を照り返し、白く輝く髪に指先を差し込んでゆっくりと梳き上げる。柔らかな髪はユーリの指先によく馴染んだ。
「オレだって同じだ。何度も言ってんだろ?オレが好き勝手できるのは誰のおかげかってことくらい、ちゃんと分かってる。感謝してるんだぜ、これでもさ」
ゆっくりと一度起こした上体を倒していく。白い頬に青白い影を落とす、閉じた瞼を縁取る髪と同じ色の睫毛。その一本一本が見分けられるほどに顔を寄せて。
「なぁ、オレの明星……」
窓から斜めに射し込む白銀の月明かり。
そこに浮かぶ二つの影がゆっくりと重なった。
END
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