光は影の
<ATTENTION>
※未来捏造話です。
※モブの幼い兄妹視点で話が進み、「ユーリっぽい人」とか「フレンっぽい人」が登場します。固有名詞は出てきません。
※途中少し「え?」というような流れになりますが、死ネタなどにはなりません。雅的ハッピーエンドです。
※少々独自性のある話なので、以上を参考に「OK!大丈夫!」と思われたら本文へお進み下さい。
↓↓↓以下本文↓↓↓
* * * * *
それはとても良く晴れた日のこと。
緩やかな坂道を兄が小走りに駆け上がっていく。道の両側には立派な幹の樹が立ち並び、森の奥へと一本の道を伸ばしていた。
可愛らしい白い花びらの名前も知らない野の花が咲く道に、頭の上から木々の葉を透かして陽の光が落ちている。光の描く模様はどれひとつとして同じものはない。
「おにいちゃん、待って!」
後ろからまだ小さな妹の声が追いかけて来る。
「はやくはやく!」
少しだけ走る速度を落として、兄は肩越しに妹を振り返った。
なんだかとても楽しいことが起こるような気がする、この坂道の先には何かとても素敵なことが待っている。そんな予感がして、兄は走る足を止めることができないでいるのだった。
あと少し。
両側を高い樹に挟まれた道が途切れ、葉っぱの天井がなくなって一斉に太陽の光が降り注ぐ場所に飛び出した兄は、ようやく走る足を止め、ぽかんと口を開いた。その背中にやっと追い付いた妹がぶつかって止まる。
「なぁに?」
兄の背中からぴょこんと顔を覗かせた妹も、兄と同じようにぽかんと口を開いた。
緑の天井がなくなり、ぽっかりと拓けたそこにあったのは、木でできた小さな家だった。木の板でできた簡単な柵に囲まれた庭には小さな畑もあり、季節の野菜がささやかに実っている。洗濯物の白いシーツが太陽の光を浴び、風を受けてぱたぱたとはためいた。
まるで絵本に出てくるような、小さくて贅沢ではないけれど、とても温かそうに見える家だ。
どんな人が住んでいるんだろう、兄が心の中でそんなふうに思っている時だった。
「おやおや、これはずいぶんと可愛らしいお客さまだね」
風に揺れる洗濯物のシーツの向こうから、ひとりの老人が姿を現した。笑っている目元も、声も、とても優しそうな老人だ。
ゆっくりと歩いて傍までやってきた老人は、ぽかんとしたまま見上げる兄と妹の頭を代わるがわる撫でてくれた。その手もとても温かい。
「ちょうど良いところに来たね。とても美味しいお菓子を頂いたんだ、一緒にお茶でもいかがかな?」
兄と妹は顔を見合わせた。知らない人についていってはいけません。知らない人から物をもらってはいけません。いつもお母さんから口をすっぱくして言われている。
でも。
そっと手の内側に差し込まれた妹の手をきゅっと握りしめ、兄は足を一歩前に踏み出した。にっこりとほほ笑んだ老人が先に立って歩き始める。
老人はとても背が高く、背中も真っ直ぐに伸びている。髪は真っ白で元の色は分からないけれど、目の色は今日の晴れ渡った空のようなきれいな青だった。
畑の間を通り、白いシーツが風を孕んで膨らむ横を通り過ぎて家の裏手に回る。
そこは奥の森へと通じる広い庭で、家と同じく木でできたテーブルと椅子が置かれていた。家の大きさのわりにずいぶんとテーブルは広く、椅子の数も多い。
小さな家だがこれだけの人数が住んでいるのだろうか。
「そこに掛けて少し待っていてくれるかい? すぐに用意をするよ」
まだ小さい妹には少し高い椅子に、後ろからひょいと抱き上げた妹を座らせると、老人はゆっくりと家の中に入っていった。
「だいじょうぶだよ、きっと」
斜め下から見上げる妹に、兄は妙な自信を持って答える。おとぎ話に出てくるような、子供をさらったり、毒の入ったお菓子を食べさせるような悪い人だとは思えない。
辺りには穏やかな風にのって花の香りが満ちていた。木の枝で小鳥が軽やかにさえずっている。遠く街を離れた場所には恐ろしい魔物が住んでいるというけれど、ここにはそんな気配はまったく感じられなかった。
大きな街では、ぐるりと街を囲む頑丈な壁や柵が造られ、万が一に備えて兵隊や武器を持って戦える人達が見張りをしながら戦えない街の人々を守っている。けれど森の中にぽつんと一軒だけあるこの家にはそんな備えはないように見えた。
とても無防備だ。それなのになぜだかこの場所にはとても安心できる穏やかな空気が流れていた。近くで小鳥が啼いているからかもしれない。小鳥の声が聞こえなくなったら危険の合図だと兄妹は祖父から教えられていた。
「お待たせ。さあ、お茶にしよう」
やがて老人がお菓子の盛られた皿と茶器を乗せた盆を手に戻ってきた。花の香りとお菓子の美味しそうな甘い香りが混ざり合って、嬉しいような、楽しいような気持ちに兄妹の顔に自然に笑みが広がる。
皿に盛られているのは大小様々なクッキーだ。お茶の注がれた透明なポットにはピンクの花びらが浮かんでいる。
老人が手にした盆を見ていた兄はふと首をかしげた。ポットの横のカップの数が多い。ここには兄と妹と、目の前の老人しかいないのに、それよりもたくさんの数が用意されている。椅子の数といい、他にも客が来るのだろうか。
「君達は花の街ハルルに行ったことはあるかい? 街の真ん中に大きな大きな樹があってね、このお茶はその樹の花で作ったものなんだよ」
お茶をそそぎながら、老人はその樹にまつわるお話を聞かせてくれた。
心優しい皇子様と、美しい娘に姿を変えた花の精霊のお話。今もその精霊が街を守ってくれているから、ハルルの街は魔物に怯えることなく平和に暮らせるのだそうだ。
どうぞとすすめられ、兄はお茶のそそがれたカップを手に取った。兄を真似て妹もおそるおそる湯気の立つカップに口を付ける。
口元に近付けただけでふわりと広がる花の香りは、口に含むとより一層深く、甘く香った。とても優しい味で、こんなに甘く優しい花を咲かせる精霊に守られた街ならさぞ美しく優しい街なのだろうと、兄は訪れたことのない街を想った。妹も嬉しそうに何度も香りを吸い込んでは大切に一口一口飲んでいる。
お菓子を食べながら、老人は他にも色んな話を聞かせてくれた。
凛々の明星と満月の子と呼ばれた兄妹の話。長い間、ずっと世界を見守ってきた竜の一族の話。世にも珍しい白いきゅうりの話。大海原を宝を探して航海する女海賊の話。弱虫だった男の子がやがて知らない者はいないほどの大きなギルドの長になる話。
どの話もとても面白くて、兄妹は夢中で聞き入った。
話を聞きながら、兄は老人の右手が少し不自由なことに気が付いた。よく見ると、手の甲に傷跡がある。古い傷のようで、動かしにくい右手の代わりに左手を器用に使っているけれど、きっと大変な怪我だったのだろうと思わせる大きな傷痕だった。
「もうひとつ、お話をしようか」
兄と妹は目を輝かせた。老人が「とっておき」を披露する顔を見せたからだ。
カラになったカップに再び老人がお茶を注ぎ入れる。兄と妹と老人でもう何杯か飲んでいるのに、ハルルの花のお茶は少しも薄まる様子がなく、飲むたびに違う味がするのだった。
「これはある二人の男のお話。光と影のお話」
そうして、老人は静かに語り始めた。
* * *
『君達は魔導器を知っているかい? そうだな、君達のおじいさんやおばあさんがまだ君達くらい小さかった頃にはまだあったかもしれないね。
魔導器はとても賢くてとても偉い、古い古い一族の命の結晶から出来たもので、昔の人はそれを使って火や水、光、ありとあらゆるものを生み出して生活をしていたんだ。大きなものには街ひとつを丸ごと守れるくらいの力があったんだよ。
昔の人達にとって、それがなくなってしまったら生活できなくなってしまうくらい、魔導器は人々にとってなくてはならないものだった。それさえあれば大抵のことは簡単にできてしまうから、魔導器のおかげで人々はとても豊かに暮らしていたんだ。
でもね、魔導器はあまりにも便利すぎて、それに頼り切っていた人達は色んなことを忘れてしまっていた。気付くということを忘れていた。知ろうとすることを忘れていた。
魔導器は少しずつ、少しずつ世界を壊していたんだ。放っておけば世界は死んで、そこに住む人々も、動物も、植物も、みんな生きてはいられなくなってしまう。
ずっとずぅっと昔、君達のおじいさんのおじいさんの、そのまたおじいさんも生まれていなかったくらいの大昔、一度世界は滅びかけたことがあった。世界の悲鳴に気付かず魔導器を使いすぎたせいで大きな大きな災いを呼んでしまったんだよ。
世界を飲み込もうとするかのようなその災いを、人々は「星喰み」と呼んだ。
その時世界を救ったのが、さっき話した「凛々の明星」と「満月の子」の兄妹。彼らは自らの命をかけて空と大地に分かれ、「星喰み」を追い出すことで壊れそうになった世界を守った。
それなのに人は災いを忘れて再び魔導器に頼ってしまった。
魔導器はとても便利なものだけど、世界をまた少しずつ壊し始めていた。せっかく凛々の明星と満月の子が守ってくれたのに、「星喰み」は人々の知らないうちにすぐそこまで戻ってきていたんだ。
でも誰もそのことに気付かない中で、魔導器の危険性と「星喰み」の存在を知った者達がいた。世界には数えきれない人々が暮らしている中で、それに気付いたのはほんの数人、両手の指で数えられるくらいの人達だった。
君達はある日突然井戸の水が涸れてしまったり、街を守る壁が壊れて魔物が簡単に入ってこれるようになったらどうする? とても困るし、安心して暮らせなくなってしまうね。
それでも魔導器の危険性に気付いた人達は「星喰み」から世界を守るために魔導器をこの世界からなくしてしまうことにした。
魔導器がなくなってしまったら彼らだってとても困る。けれどそうしなければ世界が壊れてしまうってことも分かっていた。
そのまま放っておいたら水がなくなったり家がなくなったり、街がなくなったりするだけじゃ済まない。家族も、友達も、みんな死んでしまう。人が生きている世界そのものがなくなってしまうんだ。
しかもそれは遠い未来の話ではない。すぐそこまで迫っている話なんだ。誰にも相談している時間はなかった。
誰に恨まれても構わない。彼らは世界を壊さないために、たった数人で「星喰み」に挑んだ。
そして見事、彼らは「星喰み」を退けたんだ。だから君達は今こうしてこの世界で暮らすことができる。
ただし、それまで人々の生活を支えていた魔導器がなくなってしまったせいで、世界は大混乱に陥った。それまで当たり前に暮らせていた場所で生活ができなくなって、世界中の色んな場所で争いが起こった。大怪我をする人もいたし、中には死んでしまった人もいた。
たった数人で「星喰み」に挑んだ彼らはとても勇気ある人達だったけれど、彼らは神様じゃない。壊れかけた世界を一瞬で元通りに戻すことまではできない。
でも仕方がなかったとはいえ、誰にも相談せずに世界を変えてしまったのは彼らだから、彼らは自分に出来る精一杯のことをしようと心に決めた。
彼らはそれぞれの場所で、世界の傷を治し、元気にして、守っていくために力を尽くすことにしたんだ。
ある者は世界の真実を語り継ぎながら帝国のいちばん偉い人、皇帝を補佐する者に。
ある者は帝国の法に縛られずに、帝国の目の行き届かない場所で人々を守るギルドの長に。
ある者は長年対立し続けてきた帝国とギルドを繋ぐ架け橋に。
ある者は魔導器なき世界で新たな力となるものを研究する大魔導士に。
ある者は古き竜族の友と共に深く世界の声を聞き見守る者に。
ある者は航海をしながら遠い大陸と大陸を結ぶ海の守り人に。
そして共に「星喰み」に挑んだ光と影、二人の男もそれぞれの場所で、それぞれの役割の中で生きていこうと約束した。
彼らは幼馴染みだった。まるで正反対の性格だったけれど、二人とも誰もが平等に笑って暮らせる世界を夢見ていた。たとえ生きる場所は違っても、いつか目指す世界に辿り着くために力を尽くそうと誓い合っていた。
彼らは自分が出来ることは何なのか、自分に出来ないことは何なのか、自分の手の届く場所がどこなのか、自分の手の届かない場所がどこなのか、それが分かっていた。互いが互いに自分に出来ないこと、手の届かない場所を補い合えると分かっていたから、正反対の性格そのままに、互いに背を向け、別の道を、別の場所に向かって歩み始めたんだ。
一人は光の当たる場所へ。一人は光の当たらない場所へ。それが彼らの選んだ道だった。
その選択は、初めはとても正しかったように思えた。それぞれの場所で、誰も彼もが必死で、一生懸命で、混乱した世界は次第に元の落ち着きを取り戻していった。
けれど、ようやく世界の傷が治りかけて元気になり始めた頃、二人のうちの一人、光の当たる場所を選んだ方の男が少しずつ変わり初めていた。
彼は世界を導く中心、帝国に仕える騎士の一人だった。友との約束を果たすため、彼も必死に自分の為すべきことを探していた。そして多くの功績を上げた彼は、若くして騎士団の中で高い地位を得ることとなった。
けれどそれは決して彼の力だけで得た地位ではない。友に恵まれ、上官に恵まれ、部下に恵まれたおかげで、彼は幾千、幾万の部下を率いるに足ると認められたんだ。
でも分不相応の地位は往々にして人を狂わせる。
自分が「右を向け」と言えば一斉に何千人、何万人もの部下達が右を向く。自分の命令ひとつで縦のものが横になる。自分が「白だ」と言えば黒でさえ白になる。自分の発言ひとつが世界に影響する。
そんな錯覚が次第に彼を歪ませていった。光の中に居過ぎたせいで、いつの間にか彼の中に濃い影が生まれていたんだ。
彼は多くの人を裏切った。傷付け、哀しませた。
彼はもうひとりの男、光の当たらない場所を選んだ友と、ある約束を交わしていた。それぞれが手にした剣に立てた誓いがあった。
もしどちらかが歩むべき道を違えてしまったら、己の掲げる正義が歪んだものになってしまったら、その時は互いが相手の道を正そう。どんな手を使ってでも。たとえ誰からも理解されなかったとしても。
彼らには彼らの理想、正義、誓いがあった。それは他の誰にも、共に「星喰み」に挑んだ仲間達でさえ入り込むことのできない尊いものだった。
光の当たらない場所を選んだ友、影であり続けることを選んだ彼は、尊い誓いのために剣を取った。
そして約束の時が来た。
もしどちらかが歩むべき道を違えてしまったら、その時は互いの剣に賭けて相手の歪んだ正義を正そう。その誓いの通り、影を選んだ彼の剣は光を選んだ彼の傲慢な正義を打ち砕いた。
光と影は逆転した。共に「星喰み」を討ち、誓いを立て、彼らがそれぞれの道を歩み始めてから十数年が経とうとしていた。
多くの人を裏切り、傷付け、哀しませた影の騎士はいなくなった。世界は再び強く清らかな信念を持った人々によって、光に向かって新たな道を歩み始めた。
そうして、今あるのが君達が暮らしているこの世界なんだよ』
* * *
おしまい、老人の言葉にお菓子を食べるのもお茶を飲むのも忘れていた兄妹は、たった今呼吸を思い出したように息を吐いた。
なんだか哀しいお話だった。老人が「とっておき」の顔を見せたからとても期待していたのに。
強く正しい人が悪者をやっつける、そんな英雄譚はわくわくして大好きだけれど、今聞いた話はそれとは少し違うような気がした。
「騎士はやっつけられちゃったの? 悪い人だったから?」
「そうだよ」
兄の問い掛けに頷きながら、老人は机の上で手を組んだ。右手の傷が露わになる。
「友達だったのにやっつけられちゃったの?」
「友達だからだよ。それが約束だったからね」
手の甲の傷痕を、皺の刻まれた左の手が撫でる。その仕種はまるで大切な宝物に触れるように、とても優しげで愛おしそうに見えた。
約束だったから友達が友達をやっつけた。幼馴染みということは小さい頃からお互いを知っていて、世界を壊してしまうくらいに大きくて恐ろしい敵を一緒に倒した仲間なのに。
光とか影とか、難しいことはよく分からないけれど、いくら約束だったからといって友達をやっつけることなんてできるのだろうか。兄はたくさんの友達の顔を心の中に描いてみる。
駄目。きっと無理だ。
思えば思うほど哀しくなってきて、なんとか老人の「光と影の男の話」の結末を変えたくて、兄は一生懸命考えた。妹も隣で難しい顔をしている。
「こんなちっこいのに嘘を教えるのは良くねえなぁ」
すると、急に後ろから別の人の声がして、兄妹は揃って飛び上がるほどに驚いた。
振り返ると、洗濯物の白いシーツの向こう側から別の老人が姿を現したところだった。その足元では青っぽい毛並みの大きな犬が長い尾をゆったりと振っている。その尾に毛並みのよく似たぬいぐるみのような子犬がじゃれついて遊んでいた。
「おや、いらっしゃい。思っていたより早かったね」
「おや、じゃねえよ、ったく」
大股でテーブルの側までやってきたもうひとりの老人は、皿に盛られたクッキーをひょいと摘み上げると、ぽんとそれを口の中に放り込んだ。
老人の背中でひとつに緩く束ねられた長い髪も元の色が分からないくらいに真っ白だったけれど、お話を聞かせてくれた老人の髪の白とは少し色味が違う。同じ白髪でも違いがあるのだ。
兄妹の祖父の腹は針を刺したらぱちんと弾けそうなくらいに出っ張っているけれど、隣に座った老人は体も手足も若者のようにしなやかで、路地裏で見掛ける俊敏な黒猫を思わせた。瞳の色は雲ひとつない真夜中の空の色だ。
「坊主、嬢ちゃん、物事ってのは一方から見ただけで判断すんじゃねえぞ。見て、知って、それから自分で考える。自分で答えを見付ける、選ぶ。それが真っ直ぐに生きるってことだ。たとえ傍目には歪んでてもな」
例えば、と黒い瞳の老人は皿に残った最後の一枚のクッキーを摘み上げた。
「ここには坊主と譲ちゃんしかいないとしよう。残された食べ物はこのたった一枚のクッキーだけだ。こいつを食わなきゃ死んじまう」
兄妹は顔を見合わせた。
最後のひとつのお菓子を取り合ってケンカをするなんてよくあることだ。でもそれが食べられなかったら死んでしまうなんて考えたこともない。
幼い兄妹にとって「死」はまだまだ想像もできない遠い未来のことだ。
「そこに別のヤツが現れた。そいつは心底悪いヤツで、自分が生き延びるために最後のクッキーを独り占めしようとした。それだけじゃない。奪い返されないようにお前達を殺そうとした。さあ、坊主はどうする?」
夜空の色の瞳がひたりと兄を見据えた。
太陽の温かな光を浴びているのに、さっと肌が冷え、腹の奥をぎゅっと掴まれたような感覚に兄は身を縮ませ、眉を下げた。
「これを食えば逃げられる。口の中に放り込んで、噛んで飲み込んじまえば奪い返されることもない。助かりたいならこれを食って逃げりゃいい。その代わり譲ちゃんは助からない。悪人だとはいえ、後から現れた別のヤツも死んじまうな。譲ちゃんにクッキーを食べさせて逃がしてやってもいい。その代わり坊主は死ぬ。クッキーを食べ損なったって怒った悪いヤツに腹いせに殺されちまうかもしれねえ」
さあ、どうする。
兄の目に、夜色の瞳の老人が手にしたクッキーがとても苦い毒の塊のように見えてきた。あんなに甘くて美味しかったのに、舌がどんどんその味を忘れていく。
「この子達にその選択は酷過ぎるよ」
空色の瞳の老人が困ったような顔で助け船を出してくれたけれど、夜色の瞳の老人は兄から目を逸らさなかった。
「おにいちゃん、あたしクッキーいらないよ。おにいちゃんが食べて逃げていいよ。おにいちゃんが死んじゃうのイヤだもん」
隣から伸びた小さな手が兄の服の袖を掴んだ。今にも涙が零れそうな大きな妹の目が兄を見上げている。
兄は泣きそうになるのを堪えて、ぎゅっと唇を噛み締めた。
もしもの話だ。本当じゃない。でも本当にそんなことになってしまったら自分はどうするのか、どうするべきなのか、ちゃんと考えなくてはいけない。
自分で考えて、選ぶ。たとえそれが間違っていたとしても、自分がいちばん良いと思う答えを探さなくてはならない。
「ぼく……ぼく、クッキーを持って妹と二人で逃げるよ。悪い人は死んじゃうけど、悪い人だもん、しかたない……よ。ぼくはぼくが死んだり妹が死んじゃったりする方がイヤだ」
「でもクッキーは一枚だぞ?」
老人の夜色の瞳が少し温かみを帯びたように見えた。兄はその目を真正面からキっと見据える。
「半分こするよ。食べなかったら死んじゃうけど、半分だけでも食べたら二人とも少しは生きていられるかもしれない。その間にうんと遠くまで逃げたらもしかしたら食べ物がある場所まで行けるかもしれないもの。助けてくれる人に会えるかもしれない」
途中でくじけないように、息もつかずに急いで言い切る。言い切った途端、ぽろりと堪えていた涙が一粒転がり落ちた。
兄の選択はひとりの人間を見捨てたことになる。悪い人には悪い人なりの生き延びなければならない理由があったのかもしれない。けれど、たとえ傍目には間違っているように見えても、まだ小さな妹を守るために、それは必要な選択だったのだ。
「いい子だ。さすが兄ちゃんだな」
手にした一枚のクッキーを半分に割って、夜色の瞳の老人はそれを兄と妹に持たせてくれた。顔を見合わせ、少しだけ笑って、兄と妹はそれを口に入れる。クッキーはとても甘くて美味しかった。
すっと伸びてきた老人の大きな手が兄の頭を力強く撫でてくれる。空色の瞳の老人と比べると少し雑な撫で方だったけれど、温かさは同じで、夜色の瞳は笑っていた。
「ここにはまだたくさんクッキーは残っているよ。待っておいで、持ってこよう」
空色の瞳の老人もほっとしたように笑み、カラになった皿を手にゆっくりと歩いて室内に戻っていく。
「理由がありゃ何をしても許されるってわけじゃねえ。どんな事情があってもやっちゃいけねえことはある」
その背中を見送りながら、夜色の瞳の老人がぽつりと呟いた。それは今までの豪快で少し怖くもあるような声とは少し違って聞こえた。
「でもどうしてそんなことをしたのか、何か理由があったのかもしれないって考えるのは大事なことだ」
許す、許される、許さない、許されない。物事は一方から見ただけで判断してはいけない。
見方を変えれば、違った物事が見えてくる。真実と嘘は同じ場所に存在する。
「さっきのあいつの話だってそうだ。確かにその騎士は頭が硬くて、融通が利かなくて、嫌味で陰険なヤツだったけど、本当に悪いことなんて思い付くようなヤツじゃなかった」
陽だまりで大きな犬が欠伸をして寝そべった。その尾の先では相変わらず子犬がころころと遊んでいる。
「よし、じゃあオレもひとつお話ってやつをしてやろうか。あんまりそういうのは得意じゃねえんだけどな」
そうして、夜色の瞳の老人はもうひとつの「光の影」の話を語り始めた。「お話」というにはあまりにもぶっきらぼうな言葉遣いだけれど、とても穏やかな、温かな声で。
* * *
『そりゃ確かに、その騎士は傍目にゃ法と権力を笠に着て、権限を与えられているのをいいことに悪いことも酷いこともやったさ。
でもヤツの治世で理不尽に虐げられたり死んだ人間は一人もいない。それにヤツは自分の失脚にかこつけて帝国の膿をごっそり引き連れて行きやがった。悪役ぶる前にしっかり後進も育ててたしな。
ヤツが失脚した時、ヤツの財布には一ガルドも入っていなかった。つるんでるように見せかけていた騎士団や貴族のお偉方は私腹を肥やして身も心もぶくぶく太ってたってのに。
ヤツの何にもない殺風景な部屋の物入れには何が入ってたと思う?
ヤツが騎士になる前から使っていた、故郷から持って行った古い古いガラクタばっかり。それこそ一ガルドの価値だってありゃしねえ。
何がいちばん馬鹿だったかって、ヤツは自分を討たせることで、自分の正義を貫くためなら泥を被るのだって手を汚すのだって厭わなかったろくでなしを英雄に仕立て上げようとしやがった。
誰もそんなこと望んじゃいねえっての。「僕の過去の功績は自分だけの手柄じゃない」とか、いつまで昔のこと気にして覚えてんだか。ほんっと、しつこいヤツだよ。
そんな馬鹿なヤツだから、自分の芝居が見てて恥ずかしくなるくらい下手くそだったことにも気付いていなかった。騙されんのは人の事も国のことも世界のこともどうでもいいような、自分さえ良けりゃそれでいいっていう心底性根の腐った本物の下衆だけだった。
でもどんな理由があろうと、その下手な芝居で仲間を裏切り、傷付け、悲しませたのは本当だ。その報いは受けなきゃならねえ。
ダチが馬鹿やってんなら止めてやんのが本当のダチってもんだ。しかもその馬鹿は見え見えの餌をちらつかせて誘ってやがる。しょうがねえからダチも下手な芝居に乗ってやった。
馬鹿のダチも馬鹿ってことだ。馬鹿だから、誰か他のヤツに任せることなんてできなかった。できなかったっていうか、端から任せる気なんてなかった。馬鹿の落とし前は馬鹿がつけさせる。それが約束だ。
で、一世一代の大ゲンカ。ヤツらはガキの頃から何かっちゃケンカしてたけど、あれだけのケンカはさすがに後にも先にもその時だけだったな。
で、結果はあいつの話したとおりだ。馬鹿のつまんねえお望みのとおり、ろくでなしは馬鹿の鼻っ柱をへし折ってやった。その時の馬鹿の清々しい顔ったらなかったな。思い出しても腹の立つ。
でも馬鹿はそれで全て終わらせたつもりだったのかもしれねえが、周りがそれを許さなかった。下手な芝居であれだけ皆をハラハラさせたんだ。おとなしく隠居なんかさせてやる気はさらさらねえ。
そりゃあもうこき使ってやったさ。そんだけのことをしでかしたんだ。馬鹿も文句は言わなかった。というか、ヤツも結局好きなんだよな。苦労を背負いこむのが。
そうして騎士としてのヤツはいなくなった。約束のとおり、ヤツのダチがやっつけた。でも、ダチとしてのヤツは残った。
考えてもみろ。ヤツらが光と影だったなら、本当に切り離すことなんてできないんだ。
自分の影と追いかけっこしてみろ。自分の影を振り切れるか? どんなに速く走ったって無理だろ。
光があるから影が生まれるんだ。影しかないならそこは光のない真っ暗闇だ。光と影は結局どこまで行っても一緒なんだよ。どっちが光でどっちが影なのか知らねえけどな。
ちなみに、ヤツらは本気の大ゲンカをやらかしたけど、どんなに大きなケンカをしたって絶対に仲直りできる方法がヤツらにはあった。
何だと思う? 大笑いすんぞ。「半分こ」だ。半分にするのは何でもいい。パンでもいい。リンゴでもいい。一本の剣を一日交替で使うのだっていい。
大ゲンカした後、ヤツらはカサカサに乾いたパンを半分こして、つまらない口ゲンカをしながらそいつをもそもそ食った。最高に不味かったけど、最高に美味いパンだったな。それでチャラ。
とりあえず仲直りした光と影は、相変わらず下らないケンカをしながらまた一緒に歩き始めましたとさ』
* * *
おしまい。二度目のその一言に、また固唾を飲んでいた兄妹は止めていた息を吐き出した。
空色の瞳の老人のゆったりとした話し方とはまるで違って、夜色の瞳の老人の話し方は全速力で駆け抜けるようだった。あっという間に終わってしまった。
「馬鹿馬鹿馬鹿馬鹿と、内容よりもそっちの方が気になって話がまったく頭に入ってこなかったよ」
呆れたような声で言いながら、再びクッキーを山盛りにした皿を手に空色の瞳の老人が庭に戻ってくる。
「馬鹿を馬鹿っつって何が悪い」
まるで小さな子供同士のケンカのように、夜色の瞳の老人がベロっと舌を出した。空色の瞳の老人がやれやれと息を吐く。
「随分賑やかですね。わたしが一番乗りだと思っていたのに」
今日はよくよくこの流れで驚かされる日だ。また後ろから掛かった別の声に兄妹はピンと背中を伸ばした。
今度はとても優しい女性の声だ。
「あら、可愛らしいお客様。こんにちは」
現れたのは上品な物腰の、ふんわりとした雰囲気の可愛らしい老婆だった。白い日傘の下から若葉のような緑の瞳が覗く。
「お、良いところで真打登場だな。お話ならあいつほどのうってつけはいないぞ」
夜色の瞳の老人がさっそく山盛りのクッキーに手を伸ばしながらぱちんとひとつ指を鳴らした。
「お久しぶりです。お一人でいらしたのですか? 道中危険はありませんでしたか?」
椅子に降ろしかけた腰を上げ、空色の瞳の老人が優雅な仕種で一礼をする。夜色の瞳の老人に対するものとはまるで違う対応だ。
「ええ、この辺りは自然が豊かで精霊の力が強いので安全ですから」
若葉色の瞳の老婆の言葉に、兄は妹とたった二人きりでこんな森の奥にまで無事に辿り着けた不思議を思い出した。
世界には至る所に「精霊」と呼ばれる者が存在しているのだと、父や母から聞いたことがある。偉い人達の間ではずっと以前からその「精霊」の力を借りる術が研究されていて、素質のある人は実際に精霊の力を借りる術、「精霊術」を使うことができるのだそうだ。
けれどその素質のある人は何千人、何万人の中に一人いるかいないかくらいのごく僅からしい。あの若葉色の瞳の可愛らしい老婆はそんなごく僅かな素質のある人なのだろうか。
「本当に今日は良いお天気。光がいっぱい降り注いで、落ちる影もくっきりと浮かんで、とてもきれい」
日傘をたたみ、妹の隣の椅子に腰掛けた若葉色の瞳の老婆が妹の髪を撫でながら顔を覗き込み、「ね」と同意を求めて笑う。空を見上げ、辺りを見渡して地に落ちる影を見た妹は「うん」と頷いた。
「あちらのお二人は強引におしまいにしてしまったけれど、光と影のお話はまだ終わっていないんですよ。今もまだ続いているんです」
若葉色の瞳の老婆の言葉に今度は兄が頷く。
なんとなく分かった。それはきっと終わりのない物語。
光と影。決して離れることのないふたつは、決して終わることのない物語をこれからも紡いでいくのだろう。
「お話がいつ終わるのか、いつか終わりは来るのか、それは誰にも分かりません。けれど、彼らを知る人なら誰もが分かっていることがあります」
そこで若葉色の瞳の老婆は「とっておき」の表情を見せた。
兄と妹は息を飲んで次の言葉を待つ。待ちながら、なんとなく兄も妹も若葉色の瞳の老婆が続ける言葉が分かったような気がした。
「光は影が大好きで、影は光が大好きで、そして光と影を知る人みんなが彼らのことが大好きだっていうことです」
なんだかとても嬉しくなって、兄も妹も大きく頷いた。兄と妹と若葉色の瞳の老婆、三人で一緒に笑う。
空色の瞳の老人は少し恥ずかしそうに微笑んでいて、夜色の瞳の老人は少しムスっとした顔で頬杖をついて空を見上げていた。
「今日はここでとっておきのパーティーを開くことになっているんですよ。坊っちゃんとお嬢ちゃんも一緒にいかが?」
兄と妹は顔を見合わせた。
なんだかとても楽しいことが起こるような気がする、この先には何かとても素敵なことが待っているような気がする。坂道を駆け上がる間、兄が感じていたそんな予感は、きっとこのことを教えてくれていたのだ。
「うん!」
兄と妹は同時に力いっぱい頷いた。
「まだこれからもたくさんお客様が来られるから、待っている間お話をしましょうか。そうですね、今日はとても風が心地良いから、風の精霊シルフのお話にしましょう。風の精霊の恋のお話」
それはとても良く晴れた日のこと。
辺りには穏やかな風にのって花の香りと甘いお菓子の香りが満ちていた。木の枝では小鳥が軽やかにさえずっている。
緑の森に囲まれた、素朴な木の家。そこで出会った素敵な人達。素敵な物語。
太陽の光が燦々と降り注ぎ、影が世界の輪郭を緑の大地にくっきりと描いていた。
END
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